幕間1−2
「司妹キュロ。来月の奉仕の分担について話があります」
言うなり背を向けてすたすたと行ってしまう。キュロは一瞬鍵を気にしたが、戻ると何を言われるかわからないと考え、扉だけを閉めて後を追った。
勤務表を作成するための質疑応答を終えると、すぐに解放された。
「……ではあなたの奉仕作業はこの通り分担しておきます。お疲れさまでした」
「ありがとうございました。よろしくお願いいたします」
すでに神法司として階梯を登っている先輩たちは見習いと比べて多少態度が柔らかい。彼女は勤務表をつくづくと眺めて言った。
「あなたは島に残ることにしたのですね」
「はい。もうしばらくこちらで修行したいと思っています」
「そう。司長の覚えがめでたいあなたですから、きっとすぐに階梯を登ることになるでしょう。せいぜい励むことですね」
柔らかさに含まれる敵意はへらりと笑うことで受け流した。
部屋に戻るしんとした廊下には雨音が響いていた。暗い硝子に移る自分の顔がずいぶん尖って見えて、思わず立ち止まって頬をさする。やっかみにさらされ続けているうちに段々と心がすり減って目つきが悪くなっているようだった。
いやだな、と思った。胸の内に黒いものを飼い、誰かの足を引っ張って、他人を妬んで嫌なことばかり口にするような大人になるかもしれない。
『素敵な大人になってね』
美しい筆跡で記された言葉を思い浮かべて頬を叩く。ぱしんといい音がした。目が覚めたような気がして部屋に戻ってくると、蝋燭が消えた室内は闇に包まれていた。そういえば消し忘れていたことを思い出し失敗したと思ったのだが、ふと誰かの気配の名残を感じて足を止め、そこにあるべきことがないことに気づいた。
本がない。
「そんな……! どうして!?」
机や寝台の下を探してみるが、必要最低限の家具しかない室内に紛れ込む場所はない。鍵のかからない個室に誰かが忍び込んで持っていったことが明白だった。
再び扉を叩く来訪者が現れ、キュロは焦りのままに飛び出した。こちらの形相を目の当たりにしてびくついたのは同じ見習いの少女だった。
「……何?」
「あ、あの……ウィリたち知らない? そろそろ点呼の時間なのに戻ってこないの……」
ウィリは嫌がらせの首謀者とも言える少女だったので、いないと聞いてもなんとも思わなかったのだが、その行方をキュロに尋ねるということに引っかかるものがあった。
「いなくなる前のウィリたちは私のことを話してたんだね?」
失言を悟って目を彷徨わせる少女にため息しか出なかった。だがこれでウィリたちがあの本を持っていたのだと確信が持てた。
「探してくるから、あなたは部屋に戻ってて。点呼が来たら私が呼び出したとか言い訳しておいてくれる? 私のせいにしていいよ。罰則には慣れてるから」
あまり嬉しくないことを笑って言って、キュロはウィリたちのいるであろう場所に向かった。居所はあの地図が示していた場所、本殿だ。
途中、夜の勤めを行う神法司たちと行き合ったが、柱に隠れたり道の角で息を殺したりしてやり過ごした。人の動きがほとんど完璧に整理されているこの島で、隠密に動くことは結構簡単だ。
本殿の扉は開いていた。暗闇の中にぽつんと灯った赤い光の周りで影が動いている。
「何してるの」
「ひっ」
キュロが光の領域に踏み込むと、三人の見習いの少女がほっとしたような、しかし後ろめたそうな顔で顎を引いた。
「……あんたこそ何してんのよ」
「あなたたちを探しに来たの。点呼がくるよ。早く帰ろう。それからその本を返して」
一人が咄嗟に後手に隠した本を指す。
「……嫌よ」
ウィリが低く言った
「贔屓されてる証拠じゃない。誰が返すもんですか。それとも
腕を組んで挑発するがどう見ても強がっているだけだ。とりあえず自分たちに待っている罰則の可能性を、キュロの罰を重くしようとすることで紛らわせている。
「だったらあなたが持ってるといいわ。私が先に告げ口すれば、持ってたのはあなたってことになるから」
怯んだウィリを置いて踵を返す。その背中に本が投げつけられた。
「痛っ」
立ち止まった左右を少女たちが駆け去っていく。かと思ったら扉が閉まり、鍵がかかる音が高く響いた。
「ちょっと、止めてよ!」
「これで一週間は食事抜きかもねえ!」
あはは、と少女たちの笑い声が遠ざかる。扉を押したり引いたりしてみたが、どうやら棒か何かを渡してしまったらしい。揺れるだけで開く様子がなく、途方に暮れてしまった。どうやら確実に一週間分の罰が加えられそうだ。
扉の前に座り込んでいると冷えるのがわかったので奥へ戻った。祭壇の燭台に火をつけたものの、雨の夜の寒さは厳しい。歯を鳴らしている状態では眠ることもままならず、キュロは持っていた本を開いて気を紛らわせることにした。確か呪文を読もうとしたところだったはずだ。
「《時の狭間の囚人は請う……。
深き夜に潜み、混沌の裂け目に生じるものよ》」
冷たい手をこすり合わせながら息を吹きかける。
「《乙女の涙に身を寄せた、お前の秘技に触れるため。
胸を開き、言霊を刻み、眩き光を打ち捨てる。
お前を汚す光なし。
我を迎え入れたまえ》……」
唱え終わった瞬間、燭台の火が消えた。
ぎょっと身をすくめて辺りを伺った。雨音が遠いのに、目の前から湿気た風が吹いている。その闇の中に何かがいて自分に息を吹きかけているかのようだ。
次の瞬間悲鳴を上げた。だだっ広い本殿がぐねぐねと歪み、どこからか太鼓や鐘の低い音が響いてきたのだ。ぐるりと視界が回り、気づけば闇の中に放り出されている。後ずさりしたがそこにあるはずの祭壇はない。いつの間にか知らない場所にいる。
(どうなってるの……)
あの呪文がなんらかの効力を発揮したらしい、ということには気づけたが、何が起こったのかわからない。こんなことになるなんて思っていなかった。
そのとき、前方の闇の中に星よりも小さな光点が瞬いた。
明るいその光が恋しく感じられ、キュロはそっと立ち上がった。震えていた身体は光に温められたがっていた。
「シェオルディア、お守りください……」
どうやら前に進むしかないらしいと決めて進んでいく。春のように生暖かい闇はまとわりつくようで不快だった。早足になり、気づけば息を切らして走っていた。それでも光にたどり着けない。泣きそうになりながら進み続け、かつん、と音がした。
硬い床の感触だ、と思った途端に闇が払われる。
そこは小さな部屋だった。灰色の壁に囲まれ、灯りがないのにぼんやりと明るい。中央にある祭壇のせいか、本殿の祭壇周辺を切り取ったかのような場所に見えた。
祭壇に近づく。そこには分厚く高価そうな紙が一枚置かれていた。
直感がそれに触れるな、見るなと叫んでいる。
だが遅かった。目を逸らす前に紙の上にじわりと黒いものが滲んだのだ。赤紫色のそれは雨が染み込むように紙の上を這って、文字を書き上げていく。
「……『《死の庭》に乙女を捧げ、』」
自身が何を口にしたのかを知ってキュロは後ずさった。
神殿のどこか、神法の力を秘めた《魔具》があるという。この紙が《魔具》である任命書なら、この部屋もまた魔法が生きていた時代に作られた神秘なのだ。
「《死の庭》に乙女を捧げよ。汝ら、に、告ぐ。乙女、の、名は……」
続きは言えなかった。
後頭部に衝撃を受けて意識が途切れた。鈍い痛みを感じ、思考を冷たい闇に引き込まれながらキュロが思ったのは、《死の庭》に消えたあの人は、これよりももっと冷たい死に消えていったということだった。
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