4−5
日が昇る前の海に向かってプロセルフィナは声を張り上げる。いつもとは違う、何も考えず旋律に言葉を乗せていくだけの作業。歌にして問いかける。海が答えを与えてくれると信じて。
この世のすべてに言い訳をして
名前をつけては解いていく
無数の糸は世界
無限の意図が私たち
自由になれ
旋律が混ざり、音が別の階へ飛んでまったく別の歌が作り出されていく。しかし生み出されるままに歌った。
自由になれ
お前を縫いとめるものなどありはしない
光にいでよ
翳すな
眠ってはならない
お前をけがすものなど
お前に声があるかぎり
(ずっとこうして声を張り上げたかった気がする)
大声で。なりふり構わず。髪を乱し涙も拭わずに。歌は歌としての形を失い、意味のない言葉の羅列が長々と続く。言葉が出なければ母音だけで歌った。限りなく叫び続けるのと同じ乱暴さで、ただただ声を出し続けた。
身体中から声と言葉を絞り出してしまうと、あとは抜け殻になった自分がいるだけだった。満ちていた知識、感覚、思考が失われ、海の砂を漉いたようになる。そうして網かごに残ったものを拾い上げようとした時だった。
――……ォ……オォ……ン……。
鳥の声が止んだ。息を詰めて見守っていたが海も風も平穏で、冥魔が出現したのではなく剣が鳴き声を上げただけのようだったが、プロセルフィナは身を翻した。
朝の光が差し込み始めた神域の森は次第に闇を払いつつあった。時折梢を縫ってきらめく太陽に目が眩んでしまう。
それでも最後の茂みをかき分けると、そこにジークが立っていた。
「早いな」
そう言って苦笑する。やけに優しい笑い方だった。
「北の海岸にいたから……」
「走ってきたのか。そんなに必死にならなくてもいいだろうに。だがもうじき俺たちは島を離れる。剣の声にわずらわされることはなくなるはずだ」
冷たい水を浴びせられたかのようにプロセルフィナは立ちすくんだ。
「いつ」
「明日の早朝に。今年は長居しすぎた。アルとレギンが迎えに来たし、潮時だろう」
そう言って再び剣を泉に沈める。その穏やかな横顔を見ていて、プロセルフィナのお腹がぐらりと沸いた。一気に熱が吹き上げる。
「この、大馬鹿もの!!」
ジークは弾かれたように振り返った。
そしてみるみる顔を歪める。
「……ほお? 何を持ってそう言うんだ?」
「馬鹿だから馬鹿って言ったのよ! あなたは馬鹿よ、怖いくせに。剣のことが怖くて逃げ出したいくせに、なんでもない顔をして一人で耐えて!」
でも、と唇が震えた。
「自分で一歩を踏み出せない私も、大馬鹿ものだわ……!」
ジークの顔に戸惑いが浮かぶ。
「話、が……見えないんだが? お前、一人で怒って一人で泣いてるぞ……?」
彼が指摘したようにプロセルフィナは泣いていた。ジークはそれを慰めることもできないらしく、混乱した様子で顔をしかめている。だがそれは次の瞬間驚愕に変わった。
「あなたを助けたいわ、ジーク」
朝日が木の間から差し込み、光がプロセルフィナの涙を照らす。それをぐいと拭う。
「あなたを助けたいの」
目を見開いていたジークは、はっと息を飲んで顔を背けた。
「私はあなたを理解できるかもしれない。あなたが持っているものを一緒に背負えるかもしれない」
「何も知らないからそんなことが言える」
「そうよ、私は何も知らないわ。でもあなたは私に教えることができるでしょう? だから私はこの目、この耳でそれを見聞きすることができるし、この手とこの声がわからないと示してみせることだってできるのよ」
だから一緒に来いと言えばいい。
あなたを生きながらえさせることができるのが私なら、歌えと命じればいい。だがジークはそれをしない。何故か。
(私はあなたにとって『なんでもない』人間だから)
家族でも友人でも恋人でもない。お互いのために身を割く必要がない、それを強いることはできないと考えているから。
「責任を取ってなんて言わない。何もかも忘れてここにいるなら、ここからの人生は私のものだわ。あなたと一緒に行くことになっても、すべてあなたに縛られるわけじゃない」
「そこまで言うなら教えてやる。俺が誰なのか」
その凄まじい気迫に言葉を飲み込んだ。それはプロセルフィナが持っていない経験。苦悩、苦痛、辛苦。牙を剥かざるを得なかった善悪の悪の部分だ。
「ジークという名は略称だ。――俺の名はジークハルト・アイデス・ヴァルヒルム。七年前までの情勢について覚えがあるなら俺のことはわかるかもしれんな。留学した南方のアルガ王国の戦場を駆けた。お前くらいの歳の頃だ」
次々に知り得ていた記憶が思い出されていく。ヴァルヒルム。北方の大国。南の国にいたという王太子。アルガ王国は平定までの様々な一族が覇権を争った。築かれた屍の山。燃える大地と空。その戦場を駆けた男。
この人は。
「ヴァルヒルム…………ヴァルヒルム王国王太子ジークハルト……?」
自分自身が呟いた言葉で目を見張った。どうしてこんなところにいるの! と悲鳴を上げそうになる。
眠っていた記憶の中で、ジークハルト王子は恐ろしい人だろうと誰かの語る声が響いてこめかみを押さえる。誰がそう言ったのか。でも誰かがそう言った。
「噂を聞いたか。どんな噂だ? 獣か、悪魔か。悪霊か? 血塗られた王子とでも言われていたか?」
嘲笑う彼の目が闇を集め、暗く赤く光っていた。黒みを帯びているのに炎を塗り固めたような輝きを放ち、触れるなとも言いたげに歪む。吼えたてる獣のようだ。けれど。
プロセルフィナの両手は、ジークの頬を包み込んだ。
戦場を駆けてきた者とは思えない鈍さで、ジークは微動だにしなかった。その目は冷たく寂しい感情を揺らしている。
「恐ろしくなんてない。だって私は、あなた以上に優しい人を知らないから」
ジークはかすかに目を見開いた。
そして「いてっ」と顔をしかめる。プロセルフィナが頬をつねったからだ。
「思いあがらないで。あなたは獣でも悪魔でも悪霊でもない。ただの人間よ」
他人の髪を切るときに刃が首に当たらないよう手を添えるなんて気遣いができるのは、正しい優しさを知るごく普通の人だけだ。
「剣のことになるとあなたは自分のことがどうでもよくなるのね。抗うよりも楽だからかしら。そういうところを支えていけたらと思うの」
「……ちょっと待て。さっきから笑ってるが、俺はとんでもないことを告白した自覚があるぞ。俺と一緒に来るということは『そういう場所』に立つ可能性があるということ、俺と無理やり結婚させられるかもしれないということだぞ!」
「ええ、わかってるわ」
ジークの言葉はみるみる吸収され、記憶を呼ぶ。王宮、宮廷作法、貴族。権力争いと微妙な均衡。国家間の問題。けれど絶句する彼にプロセルフィナは笑いかけた。
「自分でも不思議なんだけれど……大丈夫な気がするの。根拠はないけど多分大丈夫だろうって」
「止めてくれ。帰りたくなくなる」
呻くように言われ、プロセルフィナはころころと笑った。彼が諦めに似た妥協で同道を認めたからだ。そして大丈夫だろうという思いはますます強くなっていった。
(だってあなたが守ってくれるでしょう?)
秘めた言葉を胸に響かせる。
そして翌日、プロセルフィナは大陸に向けて旅立った。ジーク、アルとレギンとともにゼップの船に乗り込み、新たな世界に漕ぎ出していくのを、エルダやリンデはもちろん、ムントも祈りを込めて見送ってくれた。
不安は多い。でも大丈夫だ。
自分が新たな生を受けた島は小さな点になっていくが、プロセルフィナはいつまでもそれを見つめ続けた。
隣にジークが立つ。言葉もかけないし、かけられないけれどこの決意を感じてくれればいい。そう思って歌う。
あなたが呼ぶなら駆けていける
どこまでも渡っていけるから
プロセルフィナは海風になびく髪を押さえながら、ジークに微笑みを浮かべてみせた。
大丈夫。きっと今度は、なにものにも負けはしないから。
たとえあなたに愛されなくても。
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