第5章 夏の夜の夢と歌

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 窓は白く曇っている。外気は冷たく室内は炭火が起こす熱で暖かい、その気温差のせいだ。その向こうを見れば行き交う人々の姿が見ることができる。

 ヴァルヒルム領アイラスは活気ある港町だった。アレマリス諸島に属していたものをヴァルヒルム王国が手に入れ、現在は南方諸国との連絡に使用されているという。海に出現する冥魔という危険はあるものの、人の流れと物流は格段によくなったそうだ。そのせいで都市部には南国様式が流行しているとアルやレギンが教えてくれた。

 本当なら色々と見て回りたいのだが、保護者となる三人が忙しく動き回っていてはそう気軽に出掛けたいとは言えない。結果プロセルフィナは宿にこもりきりで、もらった本を読むか用意された服を試着するくらいしかすることがなかった。曇った窓を鏡として使うのはいささか心もとないが、うっすら映る自分の姿を確かめて襟元や袖口を整える。

 水色の生地で仕立てられた娘らしいドレス。これから顔を合わせることになるのが高貴な人々だからこそ、最低限の準備を整えようと集められたうちの一着だった。袖口から重なった生成り色のレースがこぼれ落ちている豪奢なものだ。

 揃えた髪を丁寧に梳り、衣装に合わせた小さな帽子を止めて完成だった。

 隣室ではジークたちが話し合いをしていた。プロセルフィナが姿を表すとジークが書き付けから顔を上げ、目を丸くした。アルも大きく目を見開いている。

「ええと……何か、変? 着方はこれで合っていると思うんだけど……」

「大丈夫! 似合いすぎてとっさに何も言えなかっただけだから!」

 ふたりはきつく彼を睨んだがレギンは笑っている。

「日に焼ける体質じゃなくてよかったね、フィナ。こっちの女物の服って、すごく襟をえぐってあるから」

「確かに首回りが寒いわ。やっぱり北部なのね。春なのにまだ時々雪が降るもの」

 山脈の雪解けはまだ先だろうが、東沿岸や南には渡り鳥が姿を見せているようだ。陽気な気候のアレマ島とはまったく違う場所だと実感する。

「今後の予定を話そう」

 ジークは座るよう手振りをした。練習を兼ねて優雅に腰を下ろし、裾を軽く整えると、アルが満足したように頷いた。礼儀作法の簡単なものは彼が教師になって教えてくれている。

「まず、まっすぐ都には戻らない。理由は、突然お前を連れていって俺付きの女官にすると言っても反発が強くなるだけだからだ。くだらないことで追い出されたり罠にかけられたりする可能性をなるべく取り除きたい。正当な理由で城に入ってもらうことにする」

「どうやって?」

「貴族の養子になってもらう。ノーヴス公爵がお前を引き受けてくれる」

「ジークの側にいる女性には何らかの後ろ盾が必要です。フィナには公の元でヴァルヒルムに慣れてもらい、教育を受けてもらおうということになりました。ノーヴス公爵なら厄介な親戚もいないし権威もある。王家とも懇意だから、フィナ様を行儀見習いとして城に上げても不自然ではないでしょう。公のところは教養を詰め込むのに最適ですし」

「最適すぎて恐ろしいですけどねーあははは」

「……どういうところなの……?」

 ノーヴス公というのはよっぽど気難しい人なのだろうか。それとも教育というのが厳しいのか。さすがに心配になってきたが三人は答えてくれなかった。実際に体験してみろということのようだ。

「怖くなったか?」

 歪んだ笑みで問いかけられる。

 プロセルフィナは笑った。

「どんなに言葉を尽くしても信じないだろうけれど、言うわ。私はあなたを助けたい。あなたが私に名前をくれた。だから私は、あなたが一日でも長く生きられるようにする」

 問題は山ほどある。安全だという保証もない。もしもプロセルフィナが音を上げ、他人に貶められて傷つき、嫌だと思うのなら、島に戻すつもりでいるのだろう。これは彼にとっても試練なのだ。

「ジーク。顔が真っ赤です」

 アルに指摘され、ジークは慌てて顔を背ける。

「フィナ。解説するとジークは『真っ直ぐすぎて恥ずかしい奴だ、疑わしい』って思ったんだよ。でもこの人がそういう風に考えるときってだいたい照れてるだけだから大丈夫」

「レギン! アルも頷くな!」

 プロセルフィナは噴き出した。笑われた本人が怒った顔をするので、背を向けるがしばらくくすくす笑いが止まりそうにない。素直になれない彼の気持ちもよくわかったし、何より笑うことで不安を拭いたかったのだ。笑えるならまだ大丈夫だと思えるから。

「いつまでも笑うな! まったく……。公爵邸での修行は三ヶ月以上かかるだろう。その間に俺は王都でお前に最適な身分を用意しておく。今週中にノーヴス公の元へ行くぞ」

 段取りが終わり、一行はアイラスからノーヴス公爵の領地ロストフへと出発した。

 ヴァルヒルム中央部に入り、針葉樹の濃いロストフ平原に入る。広く豊かな穀倉地帯であり湖が多く、雪解けの季節には川が増水して危険なため、毎年のように河川整備を行っているとアルが教えてくれた。領主であるノーヴス公爵はヴァルヒルム現国王のまたいとこに当たるが、華やかな王都に屋敷を持ちながらも、社交の季節には都から離れた別宅に滞在し、その他はロストフにある自宅で引きこもっているような生活だという。ますます気難しい人物のように思えたが、その人となりについて三人は決して口を割らなかったので、屋敷が近づくに従って構えなければならなかった。

 小雨は雪に変わり、風に乗ってひらひらと流れていく。

 屋敷は街から遠く、狩りをして暮らす人々の住む村があるのどかな地域にあった。針葉樹の森の整備された道を走っていくと、厳しく古い建物が見えてくる。左右対称になった棟がどこまで続いているのか見えないほど広大で、灰色にけぶった壁と黒い屋根という色彩は公爵と呼ばれる人の孤高な誇り高さを示すかのようだった。

 家宰が出迎えに現れ「久しいな、コンラート」とジークが懐かしそうに声をかけた。

 招き入れられた屋敷の中は美しく磨き上げられていた。玄関広間から奥と左右に廊下が続き、さらに正面には二階へ続く大階段がある。天井に下がった硝子製の照明、床や天井の模様、壁紙の色彩の調和が見事で、思わず背筋が伸びた。

「公爵を呼んでまいります、応接間でお待ちください」

「その必要はない」

 かつかつかつ、と勇ましい靴音が奥から響いて、応接間に通されようとしていた一行を呼び止めた。やってくるのは毛皮のドレスの女性。一目見ただけで銀色のその衣装が素晴らしいものだということがわかる。

「久しいな、剣の君。無頼な我が王子」

「ノーヴス公」

 プロセルフィナは目を見張った。

 ノーヴス公爵と呼ばれた女性は化粧気がないのに勇ましさと晴れ晴れしさがある美しい人で、ジークの礼を手の甲に受けている。そうしてこちらに気づいて、にやり、と男らしい笑みを浮かべた。

「ご紹介します。書簡でお願いしておりました、プロセルフィナです」

 心臓がばくんと音を立てたが、懸命に覚えたことを思い出した。

「プロセルフィナでございます。お目にかかれて光栄です」

 膝を曲げて挨拶すると、ノーヴス公は緩やかに笑みを作った。

「私はエカテリナ。プロセルフィナ、早速で悪いが少し歌ってくれないか?」

 唐突な申し出のあまり理解が遅れた。「なんでもいい。短くて構わない」と続けて言われて、慌ててジークを見る。彼は頷いた。

 歌えと言われてすぐに出てこない。歌を忘れてしまったように口を開け閉めし、ようやく思い出せたものを必死に掴み取る。その歌声は屋敷の玄関から廊下へとよく響き、消えていく。

 ぱん、と手が打たれた。ノーヴス公爵が拍手をしている。満面の笑みだった。

「素晴らしい。いい声だ。社交界に出るような歌い手に育ててみたいが……要望はそれではないんだな、ジークハルト?」

「はい」

 公爵は応接間へと一行を招いた。プロセルフィナがすぐ後に続いたジークを追っていくと、近づいてきたレギンがこっそり耳打ちした。

「よかったね、気に入られたみたいだよ。公爵の趣味なんだ、才能ある芸術家を育てるっていう。特にお金がないとか事情があって学校に行けないとか、平民の子とかを援助してるんだ。だから評価が厳しくて。援助しても無駄だと思ったら話も聞いてくれないんだ」

 こそこそ喋っているとアルが早く来なさいと急かす。

 時を積み重ねた美しい家具が置かれた部屋で、ジークとプロセルフィナが長椅子に腰掛ける。騎士二人は目を伏せ、護衛らしくしかめつらしい顔をする。

 不躾だったがつい部屋の様子を眺めてしまう。椅子に貼られた織物は年月を経た風合いがあり、棚も飴色に光る美しい一品、時計ははめ込まれた硝子が宝石のようだ。

「手紙では、彼女を養子とし、後ろ盾となって教育を施して王宮に上がれるようにしてほしいとあったが」

「プロセルフィナには後ろ盾がありません。公のご厚情に縋るしかないのです」

「事情は聞いた。自分にまつわる記憶がなく、剣を鎮める力があるとか。私の印象を言ってもいいだろうか」

 プロセルフィナとジークは同時に姿勢を正した。

「何か気になるところが?」

「言葉や立ち居振る舞いは、お前が指導したわけではないのだろう?」

「いえ、多少は……お恥ずかしくない程度に」

「付け焼刃か? ふむ、なお奇妙だな。お前たちが並んでいるのは違和感がなさすぎる」

(どういう意味だろう。何がおかしいのかわからない)

 ジークも同じことを思ったらしく「教えてください」と公爵に請うた。

「言い方が悪くなるが、例えばこの辺りの村娘をプロセルフィナと同じ格好をさせて座らせてごらん。私は見ただけでその娘が高等教育を受けていないことがわかるだろう。私が言いたいのはそういうことだ」

 プロセルフィナは息を詰めた。それはつまり。

「貴族の娘かもしれない、と?」

「可能性の話だ。関係者が現れたら厄介なことになるかもしれないぞ、ジークハルト」

 縁者が貴族で、プロセルフィナがヴァルヒルムの王宮に上がったとするなら。必ずプロセルフィナを利用してジークやその周囲の人々と関わろうとするだろう。勝手な主義主張を押し付けて利益を得ようとするかもしれない。

 ちらりとジークを伺う。彼は何か考えるように視線を落としていたが、息を一つ吐くと公爵に向き直って強く言った。

「それでも彼女は俺に必要な人です」

 どきりと胸が鳴った。顔が赤くなる。

(違うわ、ジークが言いたいのは、私が剣を鎮められるということよ)

 必死に打ち消して沸き起こる喜びや羞恥を抑え込む。

 ノーヴス公爵は面白げに笑っていた。

「剣が鞘を見つけたか。お前がそれだけ言い切るなら、わかった。彼女を預かる」

「感謝します、ノーヴス公」

 手紙で承諾の返事をもらったと聞いていたが、改めて了承を得られるとほっとした。これでジークのそばにいるための第一歩を踏み出せたのだ。

 プロセルフィナにはすでに部屋が用意されているということで、コンラートの案内で自室となる場所を見ることになった。

 入ってみて小さく歓声をあげた。東棟の奥にある部屋は一人で使うには十分すぎるほど広い。柔らかな毛の絨毯が敷き詰められ、優美な猫足の机と椅子が一揃え置かれてある。机の上の陶器の花瓶には花が生けられてあった。書き物机は窓際に。鏡台があり、衣装箪笥が備え付けられている。そうした家具はすべて同じ細工師の手によるものらしく、金糸銀糸で織られた布絵がはめこまれてあった。寝台にはレース編みの掛け布と枕布。全体的に暗褐色と白色でまとめられているのは、これから自分の好みでどんどんと色を取り込んでいくためだ。

「部屋はどうかな。気に入ったか?」

 入ってきたノーヴス公爵に軽く膝を折る。

「落ち着いた美しい部屋で嬉しいです。窓辺に腰掛ける公爵様が見えるようですわ」

「ほう? 確かにここは私が娘時代を過ごした部屋だ。ものを見る目もあるらしい、これは思わぬ拾い物をしたかな?」

 嬉しそうに言って、ノーヴス公爵はプロセルフィナを連れ出した。東棟から西棟へと簡単に案内してくれる。使用人の数は絞っているらしく、朴訥そうな庭師やふっくらとした優しそうな女中たちといった屋敷の人々を、公爵手ずから紹介された。公爵が気難しいのは間違いないだろうが、ここでは彼女の決まりに則ったやり方が必要というだけで、名を覚えてもらっている人々には笑顔があった。

「自分でできることは自分でする、というのが私の信条だから、お前もそのつもりでいなさい。何もできないよりかはできた方がいいものだからね」

「はい」

「いい返事だ。衣装が揃う頃には教師も決まるだろう。それまではゆっくりと過ごしなさい。たまに私の話し相手になってくれると嬉しい」

「こちらこそ、公爵様とお話しできるのが楽しみです」

 屋敷を歩き回ったり、図書室の蔵書を確かめたり、厨房の料理人たちに頼んで料理の練習もできるわけだ。アレマ島とは使う食材からまったく違うだろうから新鮮な驚きが待っているにちがいない。裁縫もしたいし歌も歌いたい。きっと音楽室に楽譜があるはずだ。

 そんなことを考えていると、公爵が妙ににやにやしているので戸惑った。貴族の女性が浮かべるには少々不穏だ。

「お前、実は気が強いな?」

 前置きもなくそう言われて、は、と口を開けた。公爵はついと伸ばした指にプロセルフィナの短い髪を巻きつける。

「殊勝な態度を取りつつ、明日から何をしようかと考えていただろう。あのジークハルトが選んだだけはある。見た目通りに大人しいわけではないということか」

 ぎくりと顔を強張らせると公爵は軽快に笑った。

「賢く才能ある人間は好きだ。お前が気に入ったよ、プロセルフィナ」

 その声はどうやらジークたちにも聞こえていたらしい。彼らは屋敷に宿泊せずそのまま王都へ発つことになり、見送りに出たプロセルフィナに「よかったな」と安堵の笑みを浮かべたのだ。

「ただではいかない人だが、あれほど心強い味方もいないだろう」

 だが見透かされそうで怖いところがある。公爵自身はどうやらそうした本音と建前を見て取りながらも面白がっているようだから、上手く立ち回れる人間が好きだということなのかもしれない。ジークたちが公爵について説明しなかったのがわかった気がした。事前に説明を聞いていたら、素直な態度を取ることができなかっただろう。

「どんなことを教えていただけるのか少し怖いけれど楽しみだわ。素敵な方ね、勇ましくて堂々として。あんな風に振舞えれば、王宮に上がるのに相応しいと言われるかしら」

「公爵と同じようになるのはやめてくれ。あの人は規格外なんだ」

 軽口を叩いている間にも時間は過ぎていく。夜になると危険が増すため、彼らはそろそろ出発しなければならない。名残惜しいがこれからしばらく別れることになる。

 ぐっと胸を締め付けるのはジークを案じる気持ちだ。

「……すぐあなたのところへ駆けつけられるようになるわ。だから無理をしないで。剣に侵されて倒れる前にここに来てちょうだい」

 ジークは瞳に静かな光を貯めてプロセルフィナを見つめている。返事を求めて名前を呼ぶが、彼はああともいやとも言わなかった。

「またな」

 それだけ告げて行ってしまった。

 甘い期待は抱かない。誰にも弱さは明かさないという頑なさがそこに表れているような気がした。彼は剣の侵食に耐えるだろう。毎日青ざめた顔をして眠ることができなくなっても、プロセルフィナのところへはやってこない。今までずっと耐えてきたのだからどうということはないとでも言うように。

(まだだめなのね。今の私では頼ってもらえない……)

 冷たい風が首元を撫でる。ジークたちの姿はすでに見えなくなっていたけれど小さく歌を口ずさんだ。


 そうして春から夏へと時間は過ぎていった。

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