5−2
プロセルフィナは書物の手を止めた。手元をよぎったのは空を飛ぶ鳥の影。思い切って筆を置いて窓を開けると、近くの木に夏の鳥のつぐみが止まっているのが見えた。気持ちのいい風は樹林を抜けた北の山から吹くもの。きっと今頃中腹では
森や林が点在するヴァルヒルムは、それらが《死の庭》の風を遮って澄んだ気候が続く。それでもプロセルフィナの耳にまで国内に出現した冥魔とその被害の話は届いていた。そしてジークはそれを消滅させるための剣を振るったのだろうかと想像した。
(もう三ヶ月経ってしまった……)
あれから何度かアルかレギンが状況を確認するためにやってきていたが、ジークは姿を見せなかった。ノーヴス公爵など、ジークの別れの態度を聞いて「ありえん」と立腹していたくらいだ。
「自分に人生を捧げた女に『またな』で済ませるか? あれは南国で何を学んできたんだ」
生まれた時から婚約者が決まり、幼いうちに嫁いでいく南のアルガ王国だが、不倫という形で情熱的に恋愛をする人々も多い。未婚既婚問わず女性は家の奥深くに隠されて、家族以外の異性と言葉を交わすことを固く禁じているせいだ。そのため南国には有名な恋愛詩が多数ある。そんなに見事に歌うのだからと公爵に勧められてプロセルフィナも一通り読んだが、あまりに濃すぎて一編読むだけで酔ってしまった。
(ジークに恋愛詩みたいなことを言われたら笑ってしまうわ)
言えても仏頂面で嫌々だろう。嬉しくないあまり噴き出す自分が想像できてしまう。ジークには恋愛詩ではなく英雄歌だがそれもまた皮肉げに口ずさむのが目に見える。
そんなことを考えると実際に読みたくなったので、図書室へ行くことにした。
公爵は国内外を問わず芸術作品の収集に努めており、援助される人間はそういったものを鑑賞する力を養うことを第一としていた。プロセルフィナもその洗礼を受け、公爵の蔵書や蔵画を目にしたおかげで、知識も増えたし学習の合間のいい息抜きにもなった。
「フィン。こんなところにいたのか」
颯爽とノーヴス公爵が現れた。ドレスは夏服のさっぱりしたものに変わっている。だが装飾のほとんどないその服がかなり高価な品物であることをプロセルフィナは学んでいた。豪華なものは誰が身につけても豪華だが、質素で簡素なものを身につけた時にこそ滲み出るものが品というものなのだ。
「課題の作文は終わったのか?」
「いえ、もう少し残っています。集中が切れてしまったので何か読もうと思ったんです」
「そうか。ならお茶にしよう。話がある」
公爵の私室に招かれるとすぐにコンラートが茶器と軽食を乗せた台を押してきた。青い花の香りがするお茶を美しい白磁の器に注ぐと、ノーヴス公は満足げにため息をついた。
「いい香り、いい色だ。アーノルドはいい茶葉を作るようになった」
アーノルド氏は公爵から支援を受けて農業に従事している男性だ。実った作物を売って利益を出し、一部を手元に置いた後はノーヴス公爵に還元しているという。さらに収穫したものを季節ごとに送ってくれるのだそうだ。プロセルフィナも相伴に預かって美味な食材を味わった。料理長のスミスが「新鮮でなければ美味くならない」と言いながら嬉々として玉葱の塩漬けを作っていたのが印象深い。
しばらくお茶をすすり、野菜や薄切り肉を挟んだ麺麭を食べ、お菓子をつまむ。人心地ついてようやく問いかけた。
「エカテリナ様。お話とはなんでしょうか?」
公爵は茶器を置き、プロセルフィナを見つめた。
「ジークハルトから手紙が来た。夏至の夜、城で会を催すそうだ」
プロセルフィナは膝の上で手を揃え、公爵の射抜くようなきらめきを持った厳しくも優しい瞳を見つめ返す。そうだというように公爵は頷いた。
「その夏至の夜の会に、私はお前とジークハルトを引き合わせる手筈になっている。時が来たようだよ、プロセルフィナ」
プロセルフィナは深く頭を垂れた。
それはつまり公爵は教育が十分に行き届いたと判断した旨を知らせたということだ。この人に認められたという感動が胸を震わせる。
「大変お世話になりました。エカテリナ様にはなんとお礼を申し上げていいのか……」
「まだ終わったわけではないぞ。これから荷造りをして王都に移らねばならない。私は先に王宮へ入るが、お前には別邸に滞在してもらうことになっている。王宮に入ると存在がすぐに知られてしまうことになるし、物見高い連中の相手に追われたくはない。味方を作るのは悪いことではないが、それよりもお前の話題性を取りたいのだ。私とジークハルトの筋書きでは、お前は突如現れた謎の美少女という役どころだからな」
「美少女……?」
「夜会の日に現れた謎の少女に心奪われてしまったジークハルト王子、という趣向だ。あの乱暴者がとざわめかれるだろうが、意外すぎるところを狙う方が信憑性があるからな」
朗らかに説明されたが、はあとしか言いようがなかった。企みを持っている公爵は実に愉快そうなので、水を差すのも無粋だろう。任せるよりはほかにないので異論は唱えられない。しかし美少女とは。
(詐欺だと言われたら笑って誤魔化そう……)
「お前の淹れるお茶もじきに飲み納めだな」
ふと声の調子を落としてそんなことを呟くので、プロセルフィナは笑みをこぼした。
「いつでも、お呼びください。お茶を淹れるために参じます」
「お茶のためだけに都からここに来るのか? ふふ、それはそれで面白そうだな」
お茶の淹れ方、飲み方や食器の優雅な置き方。プロセルフィナがここで教わったことは数多い。すべてが身についたかと問われれば自信を持って答えることはできないが、最低限の準備は整えた。
「心配しなくとも、お前は城で十分やっていける。私たちが教え、鍛えて磨いた。服と菓子と男のことしか頭のない連中など目ではないさ」
「ひどい言われようですね。私は綺麗な服も美味しいお菓子も大好きですのに」
案じる気持ちを理解して公爵が茶化すので、くすくすと笑った。
「エカテリナ様には本当に感謝しています。得体の知れない私を養子にしてくださったばかりか、貴族としての教養を身につけさせてくださいました。本来ならここまでする義理はなかったはずなのに……」
「義理ならあったよ。これは私の贖罪でもある」
贖罪という言葉は、この華麗な女性には不釣り合いに聞こえた。だがその眦にかすかな老いを見て取って胸が騒いだ。
公爵は唇を湿らせ、ゆったりと話し始めた。
「――あるところに一人の女がいた。『優れた人間はなんびとであっても報われるべきだ』と考えていた。女は権威ある者に近づいては自らの力を蓄え、あちこちにいい顔をして恩を売ったと思えば、弱みを握って脅したりした。自分は優れた人間だと思い込んでいたんだ。だがその悪行が人の耳に入らないはずがない。噂を聞きつけたのは女の幼馴染だった。彼は言った」
――取引をしないか。
――俺には結婚したい女性がいる。彼女は身分の低い人間だ。お前には彼女の手助けをしてもらいたい。彼女は何も持っていないんだ。必要な教育も、人に侮られぬ立場も。
「彼は女を隠れ蓑にして恋人を側に置くつもりだった。その対価として女の行動を正当化し、立場を強めてやろうと言った。彼には白いものを黒いものにする力があった」
プロセルフィナは息を飲んだ。
(この話は……)
「女はその話を飲んだ」
平坦な口調で、プロセルフィナの境遇に似た誰かがいた物語を公爵は語り続ける。
「しばらくして召使いとしてその娘がやってきた。心根の優しい愛らしい娘で、賢く芯の強いところがあったから、女の教えることをみるみる吸収していった。娘が花開く様を見て女は喜んだ。楽しかった。教師と生徒、主従の役を超えて友と呼べるものになるほどに」
公爵は目を細めた。先ほどのように眦に皺ができる。プロセルフィナには触れることもできないような後悔がそこに刻まれていた。
「だが悲しいことに娘は身体が弱かった。順当に男の妻となり、子どもを産んだが……若くして亡くなってしまった。彼女は最後まで夫と子どもを案じていた。死に近しい彼女には、自らに取り付いた死が息子を取り込む予感があったからだ」
プロセルフィナは、ここにはいない人を見た。剣を携えて死をまとう彼の姿だ。
「そうして残された息子はただ一人の子どもゆえに大切に育てられ、健やかに成長できるように南の国に預けられた。だがその後しばらくして自ら殺戮と死の世界に飛び込み、その死の象徴である剣に囚われてしまうのだが……」
こちらを見た瞳の、温かな光。悲しみと後悔、慈しみと愛が差し出される。
「……その先の物語はまだ知らない。だが女はずっと悔いている。友の愛する息子を、死の運命から守りきれなかったことを」
プロセルフィナは、ただ頷いた。
「……はい」
「自分の持てる力を発揮するのだよ、フィン。あの筆不精の王子の度肝を抜いておやり。そしてあの子を幸せにしてやっておくれ」
公爵は戦いに赴く戦士を鼓舞するように励まし、母のように祈りの言葉を口にする。これから行く世界の過酷さと不自由さを持ってなお、自身が持つ力は尊く、願いと祈りに値するのだと言ってくれている。だから、はいと答える声は、自然と力強くなった。
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