4−4

 ジークが作った朝食は、卵焼きに、魚と野菜と麦団子の汁物だった。素材の味が感じられる程よい塩加減で、レギンに勧められるままについ食べ過ぎてしまった。

(でも肉をつけろっていうのは余計なお世話だわ)

 もっと太った方がいいよ! と彼はプロセルフィナの胸元を見ながら言ったので、アルに頭をぽかりとやられていた。そのアルが生真面目に謝罪するものだから怒っていいのか笑っていいのかよくわからなくなっているとジークも笑い、不躾だと気づいて表情を隠していた。別に咎めたりしないのに、と思い出した今は苦笑してしまう。

 そうした話をしていたせいで、今朝のことはうやむやになった。プロセルフィナもわざわざ話題に出さず、聞かなかったことで決着がつきそうだったが、いずれ問題として浮上するのは間違いない。

 彼らと島を出て行くべきなのか――それとも。

 ヴェルの診療所を出た後、リンデのところへ行って戻りが遅くなったことを詫び、仕事を終えると夕方になっていた。することがないので散歩でもしようとこうして一人海岸を歩いている。誰もいないのでずいぶん静かだ。

 さくり、と誰かが砂を踏む音がした。

 ムントだった。仕事から戻ってきたのだろう。

「ああ、おかえりなさい、ムント。どうしたの?」

 彼は近づくなり何かを押し付けた。今度は綺麗な貝殻だった。宝石のような薄桃色、夕日のような橙色、太陽に似た黄金、雲がかかったような暗褐色、そして光沢のある白色と、滲むように色が移り変わるものだ。

「ムント……こんなにたくさん綺麗なものをもらっても、何も返すことができないのよ。私、何も持っていないから……」

「貰ってくれるだけでいい」

 めずらしく口を開いた彼の声に息を飲む。他には何も求めない、という真っ直ぐすぎる瞳に、プロセルフィナの方が恥じ入ってしまう。見返りを、報いなければ、という気持ちが彼の厚意を踏みにじってしまったように思えた。

「でもこういうものはあなたの大事な人にあげて。私にはその資格はないでしょう?」

「島の人間になればいい」

 なんてことはないという率直な提案に言葉を失う。

「島の人間になれば、海も空も風も、島のすべてが君のものだ」

 ムントが示してみたそれらは世界そのもの。優しく大らかで、記憶のないプロセルフィナを包み込んでくれる安寧そのものだ。

 けれどこの時浮かんだのはジークのことだった。彼はどうするだろう。そして私はどうすればいいのだろう。

「フィナ」

 当惑して顔が強張った。これから告げられる言葉がわかってしまったからだ。

 そしてムントは言うのだ、低く響く海鳴りの声で。

「俺のそばにいてほしい。――歌ってほしい、俺のために」

 プロセルフィナは震え、怯えているのだとわかった時には身を翻していた。

 エルダの住まいにある自分の小さな部屋に駆け戻り、扉代わりの布を隙間なく閉めたところでそれを握りしめたまま崩れ落ちた。

 この島で生き、料理や洗濯を覚えて、糸を紡いで布を織り、やがてムントのために服を仕立てるようになる、そんな想像が一瞬にして駆け巡るのに、記憶のない頼りない身で幸せを提示されたプロセルフィナが感じたのは痛みだった。

 泣きたくなるほどの恐怖と不安は、それが私に手に入れられるものではないとわかってしまったから。

 そうして息を乱していると、静かな足音を聞いた。顔を上げるとエルダが立っていた。彼女は皺に埋もれた目を一層優しく細めて、座り込むプロセルフィナの頬を両手ですくい上げた。

「わかってしまうというのは悲しいことだね」

 エルダは何もかも知っているのだと思うと、涙が溢れそうになる。

「お前には無数の選択肢があるが、それでも選べない道がある。ひとつきりの道、それを私たちは運命と呼ぶ」

 南の島の巫女はそう告げると、プロセルフィナの頬を撫でた。

「時の流れの末にお前はアレマにたどり着いた。魔剣が鎮められるこの島、剣の使い手が訪れるこの時期に。そしてジークと出会い、名前を手に入れたね。プロセルフィナ。よみがえりの娘。お前は失った過去の自分では成し得なかったことを成すために戻ってきたのだろうと、私は思うよ。そのように帰ってきた娘が南の果てで島人と結婚するだけの人生を歩むはずがないのだ」

 天啓のようにわかってしまったそれをはっきりと指摘されるのはやはり辛かった。

 何度か言葉を交わしてきたが、エルダとふたりきりで向き合うのは初めてだった。そうしてわかるのは、この人が深い海の底のような重みと大木と同じ積み重ねを持った、巫女と呼ばれるに足る力の持ち主だということだった。

「私は……何を成せるのかまったくわからないんです……」

 吐露したプロセルフィナをエルダは笑った。

「それは人間誰しも同じ。大なり小なり成したそれが人生だよ。私ですら何が成せたかと言われても、さてねと首を傾げるよ」

「エルダでも、ですか?」

 そうとも、と歯を剥き出して愉快そうに彼女は笑い声をあげる。

「私のことを千里眼か何かと勘違いしているようだが、私の仕事はこうして物事をさももっともらしく言うことさ。その点では南の島の巫女も神の法を教える司も違いはない。私が彼らと違うのは、私は海に従い、風の声を聞いて空の瞳を見ることくらいだ」

 神法司。エスフォス島に本拠を置く聖職者の記憶が引き出される。そういえばこの島には神法に関わるものが何もない。大陸の人間であるヴェルもジークも熱心な信者ではなく、この島の在り方に沿って暮らしているのだろう。

 海と風と空に守られた逃げ場所。それを楽園と呼ぶのかもしれない。

 この島の外はプロセルフィナの知らない世界。自分がしたいことは何かもわからず、それは本当に成せるものなのかも見通せない。不確定な未来と不安を手に入れた今、私はようやく生まれ落ちたのかもしれないと、プロセルフィナは思った。


       *


 ゼップが島に戻ってきたので、ジークは久しぶりに大陸の酒を味わった。アレマ島で飲める酒は穀物を醸造した濁り酒なので、不純物のない琥珀色の酒の味は懐かしく、つい杯を重ねてしまい、診療所はにわかに酒場の様相を呈していた。

「そろそろ国が恋しくなってきたんじゃないか?」

 同じ酒を飲みながらヴェルが揶揄った。ジークが答えず杯を揺らしていると、小さくため息をつく。

「プロセルフィナのことをどうするか……考えているのはそれか」

 夜をほの明るく照らす蝋燭の火に目をやり、ジークは答えた。

「あいつを見つけ、名前をつけたのは俺だ。だがそれだけで彼女の運命を決定付けていいと思うか? 俺は嫌だ。他人などに未来を決められたくはない」

「まだ何も選んでいない状態で新しい場所に連れて行ったところで、運命を決められたとは言わないと思うけどな、あの子は」

 ジークは鼻を鳴らした。大陸に渡ったその後のことを想像出来るくせに、無責任なことを言うものだと思ったのだ。押しつぶされ病んでしまうかもしれない。《死の庭》によっても、人の悪意によっても。ジークのいるところはそういう場所だった。

 ここにアルとレギンはいない。酒を飲んでいることは承知しているだろうが、起き出してくる気配はなかった。恐らくヴェルに説得を頼んだのだろう。彼らもまたこの島で一時の休息を得ているのだ。

「万が一プロセルフィナを連れて戻ったとして、その待遇はどうなると思う。理由なく側に置くことはできない。そういう意味で、俺はあの娘の運命を弄ぶ気はないんだ」

「お手つきならある意味箔がつくような気がするけど」

「ヴェル」

 低く呼ぶとヴェルはごめんと言って黙った。そういった世界を嫌って捨てた自分のことを省みたのだろう。

 それぞれに杯を干して新しく注ぎ、ヴェルは密やかに口を開く。

「……そういうところを踏まえて正直に説明してみたらどうだい? それに彼女がどんな反応を示すかによって、君の行動も決められるんじゃないか。それとも、側に置きたくないくらいフィナが嫌いなのか」

「ちがう。俺の問題だ」

「それはさっきから話して……、ジーク? まさかとは思うけど……誰か忘れられない人がいるなんて言うんじゃ……」

 信じられないというような驚きを持って問いかけられ、ジークはむっと顔をしかめた。ヴェルはああと呻いて両手で顔を覆ってしまう。

「喜ばしいと言うべきなのか、これまでの女性たちに同情すべきなのか……。君って別れると思い出しもしないのに……」

「俺が最低みたいじゃないか」

 反論するならば、かつて恋人であったとしても思い出す必要がないだけであり、いつまでも覚えていては現在その立場にある女性に失礼だと思うからだ。しかしくどくど説明すると嘘に聞こえそうだったので言わないでおく。

 だがヴェルも話題に飢えていたらしい。めずらしく身を乗り出してきた。

「どこの誰? どういう子?」

「さあな」

「さあなって」

「本当に知らん。顔も名前も。どこの誰かも」

 彼女は言葉を奪われていた。刹那想いを交差させたように思えたが確かめる術はなかった。そしてそう感じたのはジークだけだったかもしれないのだった。

「俺は一度彼女を切り捨てた。お前は俺に必要ない、俺の運命に沿うものではないと」

『ただの人だな。逃げることも選べない哀れな生贄だ』

 汚れのない白の姿。相手の顔を映し素顔を隠す仮面。細い肢体、華奢な指先。悲哀を秘めながら進むことを止めなかったが、何も変えられず消え去った娘。

「……なのに忘れられなかった。七年間ずっと。それでも、もうこの世にはいない」

 ――はずだ。

 なのにプロセルフィナにその影を見てしまう。あの娘に七年間の空白があると知ったとき、もしかしてと叫ぶ自分がいた。そんなはずはない。プロセルフィナはまだ十代、あの時海の彼方に消えた女と同じくらいの年齢だろう。彼女であるはずがない。

「――《死の庭》の乙女だったんだ」

 シェオルディア。

 世界を続けるための生贄は呪いのように未だジークの心を捕らえている。

 双方の杯が空になるほどの沈黙を経て、ヴェルがぽつりと問うた。

「だから……フィナを連れて行かないのか?」

「あの娘は箱庭や清らかな繭の中にいるようなものだ。目を覚ませと揺り起こし、苦しみのみちる世界に連れ出すことはしたくない」

「死にたくないくせに?」

 ヴェルが端的に言い、ジークは笑みをこぼした。

 忘れられない女がいるからといってプロセルフィナを連れて行かない理由にはならない。だからこれはジークのわがままなのだ。シェオルディアとプロセルフィナを重ねて、消えた娘が得られなかった平穏を与えるという自己満足だ。

「……じきにゼップが大陸へ渡るそうだ。その時俺も国へ戻る。プロセルフィナは連れて行かない。彼女を、頼んだ」

 馬鹿なことを言っているという自覚はあった。だが本当のことを言うのなら、あれほど求めておきながら、自分と運命を共にする存在が《冥剣》に囚われて死への道をひた走ることになることが怖かったのだろう。何故ならその存在は自分にとって愛さずにはいられないものになるに違いないのだから。

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