4−3
広げた翼で触れてください
その優しい光をください
眩く輝く強さの前で
失うことを恐れ うずくまる私を
どうか
知っている旋律は多くはないので、聖歌に創作詞をつけて歌ってみる。気恥ずかしくて恋歌は作れなかったので、世界に捧げる光を讃える歌になった。
いつもの習慣を終えて村に戻る。北海岸から村に行くには中央を突っ切るのが早い。人がやってこない時刻の森を歩くのにもずいぶん慣れた。
「…………」
ふと話し声が聞こえて足を止めると、薄闇の中に三人の人影があった。
「……もう二ヶ月になりますよ。そろそろ帰ってくれませんか。わたしたちがここに来た意味がわかっているでしょう?」
「そうそう! さすがに俺たちもお目付役としていい加減仕事しろーって叩き出されたんですから! もう『剣の休日』はいいでしょ? 他に何があるっていうんです」
アルとレギンならもう一人はジークだろう。黙って彼らの言い分を聞いているようだ。
「……あの少女ですか?」
低めたアルの声が自分のことを指しているのだと気付き、息を殺す。
「島の住民から、記憶がない上に不思議な力を持っていると聞きました。嵐を静めたと言っていましたが、何かを隠しているようでしたがいったい……」
「《冥剣》を鎮めたんだ」
アルとレギンは沈黙し、やがて何か呟いたようだ。恐らく「まさか」と言ったのだろう。だがジークは何も言わない。信じないのならそれでいいと突き放すように黙っている。
「……わかりました」とアルが折れた。
「ならば早々に彼女と話をつけましょう。身寄りがないのなら身辺整理も早い。国に戻ったら適当な身分を用意して……」
「信じるのか、その話を」
「剣に関することであなたはつまらない嘘はつきませんから」
どういうこと、とプロセルフィナは眉をひそめた。
(私を連れて行こうと算段しているみたいだわ)
「本人の意見を聞いていない」
だがそれに異を唱えたのは中心にいるジークだった。アルが鋭く息を飲んだ。
「何故連れ帰らないという選択肢があるんです!? 《冥剣》を鎮めるなら彼女は剣の守人、あなたが欲した存在です! あなたはこのまま、歴代の剣の使い手のように死、」
「アル!」
レギンの警告にはっとすれば、三人の目がこちらを向いていた。プロセルフィナは後退りしながら言った。
「……おはよう。ごめんなさい。……それじゃ」
即座に駆け出す。失敗した。気づかなかったふりをして通り過ぎるべきだったのだ。まさか殺されるなんてことはないだろうが、三人が島人を避けてこの時間に話していたのは明らかだった。
「おーい、フィナ! だっけ!」
背後から呼びかけられる。緊迫した場から追ってきた割には伸びやかに呼ばれ、恐る恐る足を止めた。短髪のレギンが大きく手を振ってやってくる。
「ねえ、今から村に戻るの? 送っていくよ」
話したいことがあるのだとわかったので、頷いた。
彼はとても紳士だった。プロセルフィナの半歩前を歩いて道を作りながら村に向かってくれたおかげで茂った草に傷つけられることなく森を抜けられた。だがその間にも彼がこちらを探っているのがわかる。目が合ったので問いかけた。
「もしかしてこの髪、おかしい?」
「ううん。すっごくかわいいなって考えてた」
だから見ていたとばかりに笑顔になる。レギンは子どものように髪を短くしているせいか、屈託無く笑われると年下の弟という感じがした。口調が距離を置かないせいもあるだろう。どうもありがとうと礼を言った。
「ジークが切ったんだよね、それ。無愛想なくせに器用な男だよねえ」
呆れ返ったような言い方にプロセルフィナは顔をほころばせた。険しい雰囲気をまとっているジークをそんな風に言う相手がなんだか嬉しかったのだ。
「あなたとジークは昔からの付き合いなのね?」
「うん、俺とアルとジークは幼馴染みなんだ。俺とアルは従兄弟で実の兄弟みたいに育ったんだけど、ジークと出会ってからはいつも三人一緒。同じ学校に行ったり留学したり」
「だから三人ともなんとなく似た雰囲気を持っているのね。故郷が同じってことね? どこの国かしら」
「ヴァルヒルムだよ。……わかる?」
言われて地図を思い浮かべた。
「大陸北部の大国ね。山岳地帯に古くから住む民族と、《死の庭》の影響を受けて東部から逃げてきた他地方の民族、様々な人種が入り混じってるんだったかしら。芸術に秀でた人たちが多くて、芸術文化が花開いたのよね?」
「へえ、そういうのは覚えてるんだ」
自分でも不思議な感覚だが、突然情報が浮かび上がってくるのだ。しかし自分にまつわる背景は一切思い出すことができない。誰から聞いたのかどこで見たのかまったくわからないというのに「わかる」という感覚は、夢が現実になった時の当惑と驚きに似ている。
「じゃああなたたちはロイシア王国の港から船を出したのね」
「ううん。そこまでは行かずにアイラス港から来たんだよ」
「アイラス? ……ああ、あそこはアレマリス諸島に属する飛び地だったわね」
「え?」
レギンがきょとんと目を瞬かせた。
「アイラスはずいぶん前にヴァルヒルム領になったよ? あそこに港を作るのは《死の庭》のせいで東部諸国みんな嫌がったんだけど、ヴァルヒルムが『整備してやるから譲れ』ってごり押しして。アイラス港が完成して、北部から東海に出るのが楽になったんだよね」
「……ヴァルヒルム領になった?」
記憶から呼び覚ました地図に齟齬がある。プロセルフィナは自分の思いつく限りの国や土地の名前を拾い上げた。ヴァルヒルム、アイラス、ロイシア、アレマリス……その記憶が間違っているというのならそれが意味するのはなんだろう。
「……そのアイラス港の完成ってきっと大きな話題になったわよね?」
「そりゃあ、ヴァルヒルムが東海に手を伸ばしたってことだから、東部諸国も南方国もざわざわしてたよ。人と物の流れがよくなるって商人は喜んだけどね」
「私……それを知らない。思い出せない。アイラスがアレマリス諸島の一部だったことは覚えているのに」
そう言った時、はっとレギンが息を飲んだ。眉を寄せて何か考え込み始める。
「……ひらめいた。行こう!」
ぐいと引っ張られ戻るはずの道を逸れて向かったのは診療所だった。開け放たれた入り口から飛び込むと、お茶を飲みかけた姿勢でヴェルが固まっている。
「ど、どうした!?」
「地図!」
ヴェルは困惑の表情を浮かべた。
「世界地図! 持ってるでしょ、出して! そしてフィナはここにいて!」
そう叫ぶとプロセルフィナを置いて飛び出していく。しばらく過ぎ去った嵐を眺めるように瞬きしていたが、ようやく我に返ったヴェルが「何なんだいったい……」と言いながら部屋の奥へ消えていく。ごそごそと音がしているから、きっと言われた地図を探しているのだろう。
「お手伝いします」
「ありがとう。でも何があったの、フィナ?」
「私の記憶にどうやら間違いがあるみたいなの。何か気づいたみたいなんだけど教えてくれる前に出て行ってしまったわ」
二人で埃まみれ、砂まみれになって一抱えある世界地図を引っ張り出した頃に、レギンはジークとアルと連れて戻ってきた。どうやらだいぶと急かされたらしく、ふたりとも顔を赤くして肩を上下させている。
問答無用で机の上にあったものを移動させ、その上に地図を広げる。
右に先を向けた
「北方国ヴァルヒルム。ここがヴァルヒルム領アイラス。ロイシア、フラン、アルール。アレマリス諸島。南方のアルガ、イシュラ、リュディア、エディア……」
「これが何なんだ、レギン」
「フィナ、気になったことを言ってみて」
面食らったが、レギンには確信があるようだ。何に引っかかったかを見透かしている。だからそれを素直に口にすればいいのだろう。
「……アイラスはアレマリス諸島の一部だと思っていたことと、リュディアとエディアの辺りってメレディアという土地ではなかった? それからアルガ王国。こんなに広くなかったように思う」
レギンの目がきらめいた。
「ヴェル。アイラス港の就航は何年?」
「えっ。ええと……星陽暦なら百二十四年、のはず……」
「リュディア、エディアの南北分断は?」
「百二十三年。四年前の冬だ」
試験の解答をさせられているかのようで、ヴェルは目を白黒させているが、プロセルフィナの疑問を解消しなければならないということはわかったらしい。他の問いについても答えてくれる。
「アルガ王国は数年かけて少しずつ領土を広げている。いつどのくらい大きくなったかっていうのはさすがに覚えてないな……」
「もう一つ思い出したわ。フランの後継者問題はどうなったの? 兄と弟が争っていなかった?」
四人が顔を見合わせた。
「どちらも病死して、生き残った幼い王女が継いだんだったよね」
「黒気病という病が東で流行ってかなりの死者が出た。フラン王国の後継者問題が泥沼化する前に兄弟のどちらも病死、現在妹姫は女王となって在位五年」
「黒気病が流行ったのは今から六、七年前のことだったはずです。肺を冒す病で《死の庭》の風が原因だとして、ロイシア王国の女王が対策をしようとしていた覚えがあります」
「その頃だったか、《死の庭》の乙女が出たの」
ヴェルの一言でそれまで饒舌だった三人がぴたりと口を閉ざした。不自然すぎる態度にヴェルは首をひねり、プロセルフィナも彼らの顔を見比べた。
「まさか知らないってことはないだろう? この島にいる僕でさえシェオルディアが発ったのに《死の庭》が鎮まらないって聞いたんだから」
ジークは何故か顔を硬くしている。どこか遠くを見るようで、不安を掻き立てられた。彼は私ではない何かを見ている。でもそれが何なのか、彼自身もわからないようだった。
「フィナは《死の庭》の乙女のことも知らないのか」
ヴェルに問われ、プロセルフィナは頷いた。その時感じたぼんやりとした焦燥が何なのか確かめる前に、レギンが空気を変えるように大きく声を上げた。
「これでわかった。フィナにはだいたい七年間くらいの記憶の欠落があるってことだ」
七年。けっして短くはない時間だった。だがその空白が何を意味するのかまでは誰にもわからない。抜け落ちているだけか、それとも外の情報を手に入られない環境にあったのか。そしてプロセルフィナの心には波が立った。ジークの張り詰めた表情。《死の庭》の乙女が何故彼を緊張させるのか、やけに気になったのだ。
だがいくら探っても、思い出すこともひらめくこともできない。じりじりと夏の虫の鳴き声や波の音だけが漂っている。
だからプロセルフィナは手を叩いた。ぱん、と音が弾けると、緊迫していた空気がふっと緩んだ。
「とりあえず、朝食にしない? 私たちみんな、朝ごはんを食べていないわよね。今大事なのは私のことじゃなくてみんなの生活の方。そうでしょう?」
しかし彼らが見せたのは困惑顔だった。せっかく明るく振舞ってみたのにと、少しむっとする。そこでふっと息を吐いたのはジークだった。
「思い詰めても仕方がない。不安がっても前に進めないことはあるんだ。プロセルフィナの言う通り、食事にしよう」
「じゃあヴェル先生、お台所、借りますね」
ヴェルの許可を得て台所に行く。すると次の瞬間、ジークがすっ飛んできた。
「こら! 刃物を持つな! 炊事なんてできないくせに!」
「あら、これでも色々経験してる途中なのよ」
「自分の食事も用意できないのに五人分も用意するなんて不可能に決まってる。いいから出てろ!」
あっという間に追い出されてしまい、一部始終を耳にしていた三人に見つめられ、肩をすくめた。
「あんな言い方しなくてもいいじゃない。ねえ?」
ヴェルとレギンが噴き出し、あのアルも口元を押さえて笑いをこらえていた。
その後ろから、卵を焼くいい匂いがしてきた。
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