4−2

 眩しい午後の広場が急に遠いもののように思えて、プロセルフィナはリンデに断ってその場を離れた。といっても行く場所などなく、たどり着いたのはヴェルの診療所だった。

「こんにちは、ヴェル先生。いらっしゃいますか?」

 開け放された扉から呼びかけるが返事がない。辺りを回ってみるが、どうやら出かけているらしい。しかし机の上に今日収穫されたのであろう果物と、魚の入った籠が置かれている。島の人がおすそわけに持ってきたがヴェルが外出していたから勝手に置いていったのだろう。この島で鍵のかかる部屋という概念はない。

(魚、傷んでしまう前に捌いてしまった方がいいのかしら)

 しかし勝手に触っていいものかということと、自分の腕の自信のなさに結局諦めて、なるべく日の当たらなさそうなところに籠を移動させておく。

 ささやかな作業を終えると、ふとヴェルが揃えている道具が目に止まった。

 鋏に羽根筆と墨、定規や虫眼鏡が置かれている。書物机のようだ。近くには本が乱雑に積み重ねられていて、頁の間に挟まった付箋がぺらぺらと昼の風に揺れていた。

 鋏を手に取る。重い鉄製のそれは使い込まれて真っ黒に変色していた。しゃきりと開いた刃先を自分へと近づけて……。

「――何をしてる!」

 響いた怒鳴り声にそれを取り落としてしまう。

「あっ!」

 慌てて拾い上げようとするとそれよりも早くジークがそれを蹴飛ばしていた。床を滑った鋏は勢いよく壁にぶつかって止まる。プロセルフィナは突如手首を拘束されて無理やりジークの正面に向き直らされた。

「馬鹿か! 助かったくせに死のうとするなんて、」

 燃えるような赤い目を見て頭が真っ白になりかけたが、慌てて叫んだ。

「ちょ、ちょっと待って! 誤解よ!」

「何が誤解だ、思い詰めた顔をして――」

「違うったら! 鋏を見ていたのは髪を切りたいなと考えていただけよ!」

 双方、動きを止めた。

「……髪?」

「そう、髪。長くて邪魔だし、ゼップが買い取ってくれると言うから」

 目を瞬かせ、ジークは深く、長く嘆息した。ようやく理解したらしい。呆れた。早合点にも程がある。

「金……何故金が必要なんだ」

「ゼップの市でいいなと思った品物があったんだけれど、私には手持ちがないから」

 正当な理由でしょうとジークを真っ直ぐに見て言ってやる。そこでようやく彼は解放してくれた。自身の髪を疲れたように掻き上げる。

「……欲しいものがあるなら買ってやってもいいが……」

「あなたに買ってもらう謂れがないから遠慮するわ。納得してくれた?」

 ジークは頷いた。プロセルフィナは落ちた鋏を拾って元の場所に戻し、彼に尋ねた。

「ねえ、切れ味のいい小刀か何か持っていない?」

 物言いたげに目を細められ、プロセルフィナは編んだ髪を首元から払って苦笑した。

「説明していて自分の気持ちがわかったわ。やっぱり髪を切りたい。お金がどうこうというよりも」

 罪悪感めいたものは、きっと忘れられた過去が震えているせいだろう。ならば余計に断ち切ってしまいたい。

 ジークは失態の直後で動きを止めていたが、ゆっくりと立ち上がると別室から小刀と幅広の布を持ってきた。

「行くぞ」

「え?」

「包丁で指を切るお前の腕前じゃ、耳を削ぎ落としかねん。……俺が切ってやる。来い」

(えっ、えええ……!?)

 まさか彼に切られることになるとは。悲鳴を飲み込んで後を追うと、すぐそこでアルとレギンに呼び止められていた。彼らはすでに分厚い服を脱ぎ捨て、ジークやヴェルが着ているようなさっぱりしたシャツを身につけていた。

「どちらへ?」

「海岸へ行く。髪を切りたいんだと」

「え? ジークが切るの?」

 レギンはぱちぱちと瞬きをし、アルの鋭い目がプロセルフィナを射抜いた。一瞬竦んだ硬直を解いたのはジークの声だ。「行くぞ」と声をかけて行ってしまう。プロセルフィナは彼らに会釈をしてから、大股で海岸に向かうジークを追いかけた。

 途中、ジークは子どもたちが遊びに使っている吹きさらしの椅子と思しき小さな台を拾い上げた。

 金の陽光は、青緑色の海に銀粉を撒き散らしている。乾いた砂浜はきらきらと白く輝いていた。不思議だ、並べられていた装飾品よりもこれらの方が眩く見える。

 ジークは浜に置いた椅子にプロセルフィナを座らせ、持ってきた布を巻きつけて頭だけを表に出すようにした。

「さて……どのくらい切るんだ?」

「ええと……肩よりも短く」

 ジークは黙った。

 どんな顔をしているのか知りたくて首を巡らせると、やはりなんとも言い難いという表情になっている。

「やっぱりみっともないと思う? 結うこともできない長さなんて」

 大陸では女性の髪は長いのが一般的だ。短くするのは聖職者か軍人が多く、罪人は裁きを受けるときに断髪させられる。短髪の女性はいるにはいるが、反社会的だと言われることを覚悟せねばならない。

「いや」とジークはプロセルフィナの髪に触れて答える。

「こんなに見事な髪を切るのはもったいないと思ったんだ。秋の沃野の色だな。絵の具だと他の色を混ぜるとくすんでしまう誇り高い色なんだそうだ。ああ、鳴き声が愛らしい鳥もこんな色だったか」

 そう言ってくすりと笑った。

「歌が上手いのが同じだな」

 プロセルフィナは赤面した。布が邪魔をして顔を覆うことができず、赤くなっているのに気づかれないようにと祈るしかない。そんなに柔らかい声で言われると、優しくされていると勘違いしてしまう。

「は、早く切って……」

「わかった。本当に肩より短くするぞ。いいな?」

 ジークが小刀を当てた。

 ……しゃきん!

 編んだ髪が落ちた。途端、頭が浮き上がるように軽くなる。自然と顔が上を向き、視界いっぱいに空と海を捉えた。

 天の高いところは深い青に、雲は珊瑚色に染まっている。水平線は黄金へと変わり、海に同じ輝きを投げかける。金の波がゆらゆらとして、風が吹くと細い糸が紡がれるようにさざめいた。息を吸い込むと海の香りで胸が満たされる。

《死の庭》の気配などこの世界には瑣末なもので、それらも本当はこの世の一部なのだと許すことができそうだった。そう思うと何故か熱いものが生まれ、目を閉じた。

「ジーク……」

「なんだ」

「……自分でもうまく言える自信がないから、手を動かしながら聞き流してほしいんだけれど。……私、ずっとこうして髪を切りたかった気がするの」

 しゃ、しゃ、とジークの小刀が髪を梳く。肌を傷つけないよう添えられた手が触れることがくすぐったいけれど――嬉しい。

「髪が自分を縫い止めていたように思える。どこかに行きたくて、でも行けなくて。昔の私は、別のものになりたいと思いながら同じ場所で足踏みをしていたんじゃないかしら」

 でも切ることができなかったのだろう。弱虫で臆病で中途半端な自分は思い切ることができず、縛られるがままになっていたにちがいない。

「……私は記憶を失う前と何も変わっていないんだって、なんとなくわかってる。でもきっとここは始まりだと信じてるの。何ができるかはまだ全然わからないけれど、少なくとも歌うことは私に与えられた使命なんじゃないかと思う」

 ジークは答えない。事前に言ったように聞き流してほしいのに、じっと耳を澄ませているのが伝わってくる。

 だから言えなかった。あなたのために歌えないか、とは。

「……できたぞ」

 ジークが布を取り払うと細かな髪が舞い上がり、あっという間に見えなくなった。椅子から立ち上がった身体は軽く、首元は寒いくらいなのに目だけは熱い。

「ありがとう、ジーク」

 けれど悲しいわけではなかったから笑って礼を言った。

 ジークはかすかに目を眇め、頷いた。しかしプロセルフィナの独り言には最後まで言及しなかった。

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