第4章 希望と影を抱いて
4−1
無骨な手が投げた網の中で魚が勢いよく跳ね回っている。小さな魚は海に返され、十分大きくとも獲りすぎれば海に戻された。朝の海風が吹いてくると彼らは顔を上げた。
「……ああ、今日も聞こえてくるな」
すっかり耳に馴染んでしまった少女の歌声だ。
「フィナの歌が聞こえねえと、漁の調子も悪い気がするなあ」
「今日は漁り歌か。あーあ、おっさんどもが好き勝手に教えるから」
「ははっ。フィナの覚えがいいからな」
老いも若きも混じって笑い、海から来た少女の歌声に合わせて歌い始める。
引け引け、漁火
裂け裂け、海波
俺が船は鯨
それとも海の花
陸の花にはそっぽを向かれ
海に帰れと言われるが
それでも俺にはお前だけ
汗の滲んだ額に風が心地いい。早朝の風の冷たさに震えていたのもつかの間、声を張り上げて歌い始めるとこめかみを汗が伝い始めるのだ。
北海岸に来て夜明けの海に向かって歌うようになって一ヶ月。覚えている歌の他、教えてもらった歌をこうして歌っている。漁師たちが酔って歌うときほど気持ちのいい響きがないお行儀の良すぎる歌になってしまうが、教わったときと比べて伸びやかに歌えるようになってきた。
「……ちょっとは上手くなった……かな?」
「ああいう歌は下手でも歌えるようになってるのよ」
突然声をかけられ振り向くと、リンデが肩をすくめていた。
「毎朝よくやるわよ。もう十分上手いと思うんだけど」
「もっと上手く歌えるようになりたいから」
戻って朝ご飯にしようと言われ、一緒に村に戻る。
リンデはきっと知らないだろう。最初はお祈りのつもりだったのだ。自分の歌に冥魔を鎮める力があるのなら、この歌が届く範囲はその脅威を遠ざけることができるのではないかと考えたこと。他の人たちにも歌の練習だと説明している。
(でも多分エルダと……ジークは気づいているわよね)
何の効果ももたらすことができなかったときに責任を負えないと考えていることもだ。
(弱虫。臆病者。中途半端)
心の中で自分を罵る。過去の記憶はまったくないが、その部分は昔の自分と何一つ変わっていないことには確信があった。そうして新しく手に入れた力を持て余している。
(何ができるというのだろう。こんな私に)
気づくとリンデが足を止めてこちらを見ていた。思わず立ち止まったが、彼女の視線は背後に広がる海に向けられていた。
「どうしたの?」
「船が来るわ」
言われて同じ方向を見るが船影は捉えられない。自分の五感が島人に劣っているのは承知しているが、この親切なリンデは特に第六感が強かった。警戒するように海を睨んでいた彼女だったが、しばらくしてあっと声を上げた。
「ゼップの船だわ! 帰ってきたんだ!」
「ゼップ?」
「外に出て商売をやってる島出身のおじさん。物を仕入れて定期的にこっちに戻ってくるの。早くみんなに知らせないと!」
その知らせは村にもたらされ、彼女の言うように本当に船がやってきた。
港に着いた大きく頑丈そうな船から降りてきたのは太鼓腹をした男性だ。あまり日に焼けていないが黒い髪と瞳という島民の特徴を持っている。
「ただいま、みんな。この前頼まれたものを仕入れてきたよ。でもまずエルダに挨拶しなくちゃな。子どもたち、駄賃をやるから荷を下ろすのを手伝っておくれ」
子どもたちが歓声を上げる。それを見るゼップの表情は優しい。
ぎしりと船が軋む音がしてそちらに目をやると、別の人間が降りてくるところだった。男が二人、外套に革の
「彼らは大陸から来たんだ。ジークの知り合いだそうだよ」
「うっわあ、本当に南国だ。あっちいわこの格好」
短い髪をした少年のような顔立ちの青年が手袋を外し、襟元を緩めて大声で言う。
するともう一人の青年は少し呆れたように片割れを注意した。
「レギン、言葉遣いに注意しなさい。皆さん驚いておられる」
無遠慮に眺め回していた者たちに彼らは笑いかけた。
「わたしはアル、こちらはレギンです。この島でジークがお世話になっていると伺いました。彼に会いたいのですが、どこにいますか?」
端正な美形の青年に目を合わせられてしまった女性は真っ赤になって口を開け閉めし、助けを求めて周囲を見回していた。誰の手も借りられないことを知ると裏返った声で「ヴェル先生のところだよねぇ!?」と尋ねている。
「あ、そうなの? えっと、ヴェル先生って……」
レギンが屈託無く村人に話しかけている隣にいたアルは周囲に目を配っていたが、プロセルフィナを捉えて動きを止めた。白い肌と金髪が目立ったのだろう。
小さく会釈すると彼も目礼を返してくれた。礼儀正しい人物のようだが、一瞬顔が険しくなったようだ。
(……あんまりよく思われていないみたいね)
エルダの元に向かう三人を見送り、プロセルフィナとリンデは食いはぐれる前に朝食を摂りに向かった。
漁を終えた漁師たちがそれらの道具を手入れしたり、自身の家を修繕したりするのに対して、村の女性たちの一日は仕事とおしゃべりとともにある。飯を炊き、子どもの世話をし、衣服に関する仕事をし、水汲みを欠かさず、畑仕事にも精を出す。島の外に売り出される工芸品を作る者もいるが、多くはこの島で事足りる生活だった。必要なだけ採って食べ、それ以上は求めない。
「フィナ! 手元見て!」
鋭い注意の声に手が固まった。ざくりと音を立てて芋に包丁が食い込み、どっと汗が出た。下手をすれば指を落としていたところだった。
「まだ慣れないんだから、集中して、ゆっくりやって」
「ごめんなさい……」
島での生活の中で、プロセルフィナは島の女性たちに首を傾げられてばかりだった。
何故か料理ができない。刃物で何度も手を怪我した。火を熾すこともできず、井戸で水を汲んだところ、自分が持てる重さがわからず桶を取り落としてしまったときにはさすがに自分でもおかしいと思った。けれど針仕事は不思議と得意。刺繍の腕前に女性たちは首をひねったが、服は仕立てられず布も織れない。洗濯はできるかと思えば、手が遅い上にきちんと洗えず絞れない。
「いったいどこに住んでたの?」とリンデに呆れ混じりに言われたが、それを一番聞きたかったのはプロセルフィナだ。日常生活を送るのに必要な技術が身につかない暮らしを送っていた自分が怖い。もしかしたら貴族なのかとも考えたが、貴族の娘は海で溺れたりしないだろう。
みんなには苦笑いされるが、何より堪えるのはジークとヴェルの真剣な表情だ。
島外の人間だという彼らは注意深くこちらを観察して、プロセルフィナが何者なのかを探ろうとしていた。島の中で私事というのは通用しにくいようだから、日常的な失敗も彼らの耳に入っているだろう。
さすがに何もできないでいるのは困るので、仮住まいのエルダの住居からリンデの家に通ってて家事を習っている。幅広の包丁はこの馬鹿みたいに役に立たない手には余った。
落ち込みため息をついたそのすぐそばに、人影が差した。
「おかえり、兄さん!」
リンデの兄であるムントは細かく編んだ髪をひとまとめにした、島の若者の中心にいる青年だ。魚の入った籠を渡されたリンデは「今日は鰯ね!」と言って早速捌きに行ってしまう。それでもまだムントはそこに留まってじっとプロセルフィナを見下ろしていた。
「おかえりなさい、ムント。どうかした?」
無口な彼は座っていても大きく仰がねばならない長身の持ち主だ。身体を反らすと、つい安定を欠いた。後ろに倒れそうになったところを、大きな掌に支えられる。
近くで見つめ合っていても、やはりムントは無言だった。
「ご、ごめんなさい。ありがとう」
すると彼は持っていたものをプロセルフィナに握らせた。固い感触に手を開いて見てみると、美しい桃色の珊瑚の欠片だ。
(綺麗……でもこれって)
それに目を奪われた隙をついてムントは外に出て行ってしまっていた。慌てて追いかけるがもう姿が見えない。
仕方なく家に戻ってリンデに珊瑚のことを説明すると、彼女は呆れたように笑った。
「貰ってやってくれる? ムント、あんたのこと気にかけてるみたいだから」
「でも何もお返しができないわ。いつもそう言ってるのに……」
「お返しができないって言いながら、お弁当を作って持って行ったり、縫い物を手伝ったりしてるじゃない。それにもらってくれるだけでいいと思ったから何も言わないのよ、あいつ。だからいいのよ」
それでも困った。何も持っていないプロセルフィナは生活に関わるすべてのものを好意で融通してもらっていた。ムントにはいつも木の実や、綺麗な鳥の羽や花、こうして珊瑚や真珠などをもらっている。何も持たない身がますます辛い。
「リンデ! ゼップが市を開くから午後から広場へ来いって!」
隣家の娘が覗きがてら知らせていった。
「ゼップの市では自分の持っているものを売るか、同じ価値の品物と交換するのよ。フィナの刺繍した手巾は綺麗だし、その珊瑚なんかもいいんじゃない?」
「そうね……」と考え込んだ。美しい南国の珊瑚は高価だろう。しかしもらったばかりのものをすぐに手放してしまうのは気が咎める。
「まあゼップはしばらくここにいるし、どうするかはもうしばらく考えるといいわ。とりあえず夕食の下ごしらえをしてしまいましょ」
プロセルフィナは頷き、止まっていた手を再び細心の注意を払って動かした。
無事に支度を終えると、プロセルフィナはリンデに連れられて村の広場に来た。すでに市が始まっており、敷物の上に並べられた大陸の品を人々が興味深そうに手にしている。
(あ……また)
プロセルフィナの無意識が、商品を『大陸のもの』だと判別している。以前見たことがあるものや知っているものに触れるとこうなる。だからおそらく大陸に住んでいたのだろう。その他のことは思い出せないがそれが小さな手がかりだった。
リンデは一直線に友人たちが集まっているところへ近づいていく。彼女らの手に輝くのは、美しく磨かれ象眼された宝石や金銀の細工物だ。限られた装飾品でめいっぱいおしゃれする彼女たちにとって、ゼップがこうして市を開くことは小さなお祭りのようなものなのだろう。お互いに見繕い合って笑っている。
首飾りは首にぴったり沿う帯状のもの、鎖骨のあたりに小さな宝石が輝くもの、胸元まで長く垂れるもの。二重に巻くために飾り玉を長く連ねてあるもの。腕輪、耳飾り、指輪もある。プロセルフィナが目を留めたのは、水仙を象った留め具だった。花びらの部分が透かし彫りになっていて、中央には黄色い石が嵌められている。
「フィナ、こんな地味なのがいいの? こっちの耳飾りにしなさいよ」
覗き込んだリンデは、赤く艶やかな羽が花を模している耳飾りをプロセルフィナにあてがう。プロセルフィナは首を振り、それを彼女の耳に当てさせた。
「それはリンデにこそ似合うと思うわ。それに私は手持ちがないもの。リンデが褒めてくれた刺繍は商品になるようなものではないし……でも見ているだけで楽しいわ」
「だからさっきの珊瑚を売ればいいじゃない」
「……手持ちがないのかい?」
穏やかな声で問いかけたゼップは、プロセルフィナに商売人の朗らかな笑顔を見せた。
「すまない、話が聞こえてしまってね。エルダから君のことを聞いたよ。大変だったようだね。プロセルフィナ、だったかな。君、髪を切るつもりはないかい?」
「髪、ですか?」
「長さがあるからかつらが作れる。かつらは結構需要が高くてね、君のような見事な金髪ならきっといい値がつくよ。ああ髪を切るのに抵抗があるなら無理しなくていいからね」
「いえ、それは……」
地面に擦るほど長く、毎日まとめることも時々洗うことも大変な作業だ。邪魔に違いないのに切ろうとは考えたことがなかった。どうしてだろう。
(なんだか、ざわざわする)
編み込んだ髪に触れると何かが思い出せそうな気がするのに形を作ることができない。切りたい、けれど、と何かがプロセルフィナの行動を制限しようとしているようだ。
(過去の私には、髪にまつわる何かがあったのだろうか……?)
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