7−6
活気にあふれていた王宮は、次第に元の静穏さを取り戻そうとしていた。会議と祝祭日を終えた貴人たちが自国、あるいは領地や屋敷へと帰っていくのだ。
外に出ないよう厳命していたプロセルフィナにもようやく散歩を許可することができた。早速庭に出てきた彼女はオルフの姿を見つけて声をかけた。
「オルフ様。ごきげんよう」
彼は少し悲しそうに微笑んだ。
「ごきげんよう、プロセルフィナ様」
「その格好は、そろそろお発ちになるのですね。お見送りはできないのでお会いできてよかったですわ。どうぞ、お元気で。女王陛下と公爵様のお幸せをお祈りしております」
「ありがとうございます。あなたもお元気で」
ジークはふたりに近づいていき「プロセルフィナ」と呼びかけ、その腕の中にばさりと花束を落とした。紫と桃色と赤の鬱金香。周りを彩る霞草の白い花が星のようにきらめいている。
「部屋に戻ってろ。すぐに行くから」
「ねえジーク。この花、誰が選んだの?」
「……庭師だが?」
プロセルフィナは何か言いたげにしていたが微笑して何も言わないまま、オルフに頭を下げた。
「それでは、公爵様。さようなら。お元気で」
ふたりで華奢な背中が見えなくなるまで見送ると、オルフが言った。
「時間を作っていただきありがとうございました」
いや、とジークは首を振った。用があるのはこちらも同じだった。
プロセルフィナがいたせいか、中庭にいた者たちの視線を集めていたことに気づいて移動することにした。
祝祭日の冥魔襲撃の被害は最低限に食い止められた。サンクティアの伝説は覆されることになったが、人々の関心は別のところにある。剣の力は諸外国の者たちに知れ渡り、今まで破天荒の乱暴者と名高かったジークとその愛妾の噂は別の物語に変わろうとしていた。魔剣の主と鎮めの歌姫という、《死の庭》に対抗しうる力を持つふたりに。
ヴァルヒルムとしては黙秘を続けているが、やがてこの国には剣を頼る者たちが押し寄せるかもしれない。剣そのものを手に入れようとする者や、ふたりがそれぞれに狙われる可能性もあるだろう。
そして、とジークは視線を落とすオルフを見た。別の理由でプロセルフィナに執着する者もいる。怒りとも悲しみともつかない目で彼女を見つめ、その心を揺らす男だ。
だがオルフは知っただろう。彼女の中にジゼルはいない。礼儀正しく別れの言葉を告げる彼女はプロセルフィナだ。
「……殿下は、鬱金香の花言葉をご存知ですか?」
「ああ」
目を遠くにやりながら答えると、オルフは息を詰まらせた。
「庭師に聞いた。紫は永遠を、薄桃は真実、赤は宣告を表すそうだな」
プロセルフィナはそれに気づいただろうか。どちらでもいい。これはけじめだ。ジークにとってプロセルフィナは花を贈る女になったというだけだ。
オルフは大きく息を吐くと、強くこちらを見据えた。穏やかな容貌にはめずらしい並々ならぬ決意とともに彼は言う。
「――殿下に、お話しせねばならないことがあります」
そして彼は七年前の真実を告白する。
ジークは衝撃を受けたまま、いつの間にかプロセルフィナの部屋に立っていた。愛にまつわる花言葉を持つ花を生けていた彼女が優しくこちらを見る。
大股で歩み寄る。
そして腕の中に細い身体を閉じ込め、抱きしめる。
温かい。髪は柔らかく、吐息は甘い。硬直しているのは驚いているからだろう。
だが彼女は抵抗しない。手を伸ばし、あやすようにジークの後ろ髪を撫でた。
感情が目の奥に集まる。
この手の、自分の何もかもを受け止めようとすることをどんな方法で報いればいいのかとずっと考えていた。親愛か慈愛か情愛か、そのどれでもあるしどれでもないような気がしていた。それでも彼女が必要だと思う心に偽りはない。
いとおしい。どんな形であれ。
(失いたくない)
『今からお話しすることは僕個人の告白とお聞きください』
オルフ・レスボスの声がよみがえる。
『プロセルフィナ様にお会いしたとき、僕たちが驚いたのは、ジゼルと瓜二つだからという理由だけではないのです……殿下は覚えていらっしゃるでしょうか。七年前、殿下がお名前を隠されて同行された、シェオルディアとの短い旅を』
覚えている。顔も名前も声も知らないというのに、ずっと忘れられなかったのだから。
(うるさい)
だがその声は止まない。
オルフは平坦であろうとしながら感情で声を揺らしてしまっていた。彼が抱えているのは懺悔だ。明かされなかった真実。神方機関が守る明かしてはならない秘事。
『シェオルディアが立った年、ジゼルが病で亡くなりました。ですが、本当は生きていたのです。けれど死んだとせねばならなかった……消えなければいけなかった』
ジークは腕の中の娘の名を呼ぶ。強く。
「プロセルフィナ」
『僕たちとともに祈りの旅路を歩んだシェオルディア。彼女の名はジゼルです。七年前に死んだとされ、本当は《死の庭》へ旅立った、ジゼル・ユリディケ王女なんです』
「ジーク?」と戸惑う声がする。
――プロセルフィナは、ジゼルだ。
ジゼルがあのシェオルディアで、ジゼルとプロセルフィナがそっくりならば、プロセルフィナは《死の庭》から戻ってきたのだ。生贄として差し出され孤独に旅立ちながら、いつかジークが切り捨てた無力さを捨て、運命を変える力を持ってこの世に帰ってきた。
その何もかもを抱きとめていたい。どこにも行くなと。消えるなと。
(守ってやりたい)
ひたむきにそばにいたいと告げる彼女を思うように生かしてやりたいと、ジークは心から思った。死とは暗く冷たく、光を奪われることであり、その先は何もないのだと知るからこそ、そこから帰ってきた彼女をつなぎとめてやりたいと思ったのだ。
七年前、旅をまっとうし《死の庭》へ向かった、その凍える場所へ独り臨んだ強さに自分は魅せられたのだろう。そして今、彼女がその過去を失ってここにいるのだとすれば――ここから始めるべきなのだと思う。
「愛している」
その思いを今ようやく告げることができる。
もうひとりで死に向き合わなくていい。
お前は俺の。この世でひとり。運命をともにする剣の鎮め手。
「――結婚してくれ、プロセルフィナ」
思い詰めた顔をしたジークは部屋に来るなりプロセルフィナを抱きしめ、唐突に求婚の言葉を口にした。プロセルフィナの頭は真っ白になったが、庭で別れた後オルフと話した彼に何かがあったのはわかった。
「レスボス公爵に何を言われたの!?」
「返事は」
「それは後よ。何があったか話して。そんなひどい顔をして求婚されても、少しも嬉しくないんだから」
そんな風にはね退けると、彼はさんざん迷った挙句、プロセルフィナが退かないと悟ってようやく口を開いた。
七年前に立ったシェオルディア、それがロイシア王国のジゼル王女であったこと。そしてプロセルフィナはジゼルだと考えたこと。
「……俺はシェオルディアを一人で行かせたことを、心のどこかで後悔していたんだと思う。《死の庭》の護人だった彼女は世界に拒絶されて孤独だっただろう。俺はそれを突き放しておきながら、《死の庭》に消えた彼女を忘れられなかった」
ジークはずっと秘めていた『忘れられない人』のことをそう語った。
(私が、ジゼル……)
けれど何も感じない。記憶も蘇らず、思い出せるのは目覚めたあのとき、アレマ島の海岸での出来事だ。南の島では強く輝いていたジークが今は過去に浸って俯いている。それを悲しく感じて、彼の顔を上げさせる。その瞳に映るのは誰なのかを確かめたかった。
「……プロセルフィナ?」
微笑む自分が見え、ジークの頬を包み込んだ。
「もし私が本当にジゼルだったとしても、存在を否定された過去は変わらないわ」
そっと言うと、ジークは目を伏せた。
「ねえ聞いて。私、過去を知るのが怖かった。だって私は誰からも必要とされなかったせいで、死を選んだのだと思ったから。でもねジーク、それでも、流れ着いた私をあなたが助けてくれたのも事実なの。必要とされたいと言って、縋るぞと言ってそれを認めてくれたのはあなたなのよ」
食事もお茶も口にせずに話を続けているうちに空には月の姿があった。アレマ島で見た満天の星空には遠いけれど、この国の夜空も好きだ。この夜に歌を響かせて、ジークが安らかに眠れるようにすることを嬉しいと思っている。
求められることは幸せだ。縛めにもなるけれど迷う自分を支えてくれる。生きていていいと思わせてくれる。『ジゼル』は求められなかった。でも『プロセルフィナ』は彼に求められる。
歌えと、ジークは言ってくれた。
「結局あなたは私を好きでいてくれるの? それとも、いなくなってしまった人と重ね合わせて好きだと思っているの?」
首を傾げて尋ねると、頬に包む両手を掴みつつ彼は答えた。
「……お前がジゼルでシェオルディアなら、俺は償いをしたいと思うだろう。だがお前がジゼルなのかどうかはきっかけに過ぎない。ただお前をつなぎとめてやりたいと思った。そばにいたいと、必要としてくれと叫ぶお前を抱きしめたかった。自分を犠牲にして俺をすくいあげようとしてくれるお前を、いとおしく思ったんだ」
「――そう言ってくれて、嬉しい」
プロセルフィナはゆるゆると顔を綻ばせた。
「私もあなたを守っていきたい。――ありがとう、ジーク」
彼の瞳に今まで見たことがない光を見て目を瞬かせる。なんだろうと思っているうちに唇が重なっていた。粗暴な振る舞いをするのに口づけは優しくて、一度呼吸を整える時間を与えてくれる。目を潤ませながら大きく息をしていると、再び口づけを受けた。泣きたいくらいの充足感が溢れた。
「……フィナ」
何を求められているのかがわかって顔が赤くなったが、こくりと頷く。
「……もう少し、一緒にいたいわ」
声が掠れてますます顔に熱が昇ったが、ジークは何も言わずプロセルフィナを抱き上げると寝室の扉を開けた。夜の密度が濃くなった気がして不安になり、服を掴む。ジークはそれをかすかに笑った。そして妙に優しい顔で、歌が聞きたいと囁いた。
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