第8章 永遠に廻る乙女
8−1
決死の告白を受けたジークは驚愕で目を閉じることを忘れ、よろめいていた。そしてそのままオルフを放って踵を返してしまった。我に返った彼はきっとオルフを殴っておけばよかったと思うかもしれない。
(殴られればよかったかもな)
オルフは自嘲した。殴られてしかるべきだ。ジゼルとプロセルフィナは同一人物かもしれないと告げておきながら、彼女が最後に放った呪いは未だオルフの胸の中だけにある。
「ジークハルト殿下と何を話したの?」
馬車を待つギシェーラが、前を向いたまま尋ねた。
「特に何も……お別れを申し上げていただけだよ」
「あの女性も一緒に?」
意外だった。彼女は頑なにプロセルフィナの話題を避けているようだったからだ。
シェオルディアが《死の庭》に消えた後、オルフが帰国してからの彼女の働きぶりは凄まじかった。ジゼルは元々彼女の執務を手伝っていたからその穴を埋めなければならなかったせいもあっただろう。常に動き回り働いていた。まるでそのことで妹を忘れようとしているかのようだった。
「そうだよ。さようなら、お元気でと言われた」
「そう。……ではやはり彼女はジゼルではないわね。ジゼルだったらあなたにそんなあっさりした挨拶をするはずがないもの」
やってきた馬車に妻が乗り込むのを見た後、オルフはサンクティア王宮を振り返った。やがてやってくる早い冬、雪景色の中に赤い石造りの宮殿は華やかに映ることだろう。内側にいる者を火のように守り温めることだろう。
そして、あの苛烈な炎は彼女を包む光になる。
「オルフ。早く帰りましょう。イムレが待っているわ」
「……ああ、そうだね。いい子にしているだろうか」
五歳になる息子を思ってオルフは心を和ませた。
たとえ少女の呪いが胸に焼こうとも、七年経っていた。すべては変わっていく。だから――もう遅いのだ、何もかも。
*
大陸北方と南方の文化を分ける境界線は、広大な高原地帯と針葉樹林帯だと言われている。かつてここにあった小国がヴァルヒルムに取り込まれると、少なくない数の民が南に流れ、独自の文化を形成した。その結果多数の遊牧民族が生まれ、アルガという国を作るものの礎になった。そうしてさらに南域の民族が合わさり、ヴァルヒルムとはまた異なった多数の価値観を持つ人々が集まったそれがアルガ王国だ。
アルガの主要な国民の特徴は、黒い髪と黒い瞳、黄色い肌をしていることだ。男性は帽子を、女性は布をかぶる。未婚女性は髪を編んで垂らし、既婚ならば結い上げるという。
乾いた土地、焼けるような日差し。ヴァルヒルムとは比べ物にならない太陽の力が強い国がアルガ王国だった。夜間は驚くほどに冷え込むというが、家々の入り口は開かれ布が扉の役割をしていた。きっと室内は暑いのだろう、人々は建物や店の影の中に座り込み、通りすがりのプロセルフィナたちにじっと黒い瞳を向けている。
宿に入って外套を脱ぎ、靴の中に入ってしまった砂を落とした後、何気無く部屋を出ると、入り口でジークが何かを考え込みながら立っていた。
ジークは昔アルガ王国に留学していたことがあるらしい。でもきっといい思い出ばかりではないのだろう。その背中に影が見えるのは、彼が戦場を駆けていた頃の記憶を思い出しているからにちがいない。
足音を忍ばせて近づいたが、彼はすぐに振り向いた。
「どうした」
「砂嵐を見に来たの。でもまだそんな天気じゃないみたいね」
誤魔化して笑い、隣に立つ。少し伸びた髪が首に触るのが気になって、軽く払う。日に焼けないよう気をつけていたが、皮膚が熱を持っているようだ。すると視線を感じた。
「なに?」
ジークは「いや」と言ったが顔を近づけて頬に口付けた。すぐに顔をしかめる。
「なんだこれ。苦い」
プロセルフィナは笑った。
「汗止めの天花粉よ。対処しないのはよくないって、ギュリが持たせてくれたの」
食用ではないので苦いのは当たり前だ。だが心底まずいという顔をするのでおかしい。これで人目があるところで口づけしようとは思わなくなるはずだ。
「あなたはこの辺りには来たことがあるの?」
「ああ。北と南を行き来するにはこの街を通るのが便利だからな。……まさかお前を連れて南へ行くとは思いもしなかったが」
ジークは自分で言っていてうんざりしたようだった。
「アルガ王国の権王の要請とはいえ、まさか冥魔退治とは」
ジークとプロセルフィナの存在が噂になってから一ヶ月。ヴァルヒルムと縁があるアルガ王国のルウ・セチェン権王から書簡が届いた。
南方に冥魔が頻出している。至急救援を請う、という内容だった。
普段なら突っぱねるだろうが、アルガ王国からの要請だけあってジークもフレイも頭を悩ませたらしい。ルウ・セチェン権王はジークとその剣についてすべて承知しているからだ。元々剣はアルガにあったもので、《冥剣》と思しき伝説や伝承が色濃く残っており、剣の鎮め手のことも知られている。だから権王は連絡を取ってきたのだろう。プロセルフィナがいればジークの剣が暴走することはないと考えたのだ。
それだけに深刻な被害を受けていることが察せられた。覇権の象徴になりうる剣を手放しておきながら、再びそれを呼び寄せようというのだから。
「新婚旅行だね、なんて陛下たちはおっしゃっていたけれど」
「悪い冗談だ。蜜月にしては殺伐としすぎてる」
この旅においてジークは正式な特使として、アルとレギンをはじめとした騎士たちと外交官、プロセルフィナと世話係を加えた大所帯を率いており、常に誰かしら近くにいる状態だ。ふたりきりになる暇もない。
でもふたりになりたいと思ってくれているのだろうか。だとしたらずいぶんな変化だ。プロセルフィナの笑みを見咎めてジークが言った。
「なんで笑う」
「変わるものだなあって思ったのよ。ふたりになるのを避けていたのが嘘みたい」
ジークはむっとした顔のまま、腕を広げた。その胸の中でくすくすと笑っていると、向こうの空が黄色く染まっているのが見えた。砂嵐だと気づいた人々が急いで建物に逃げ込んでいく。ジークもプロセルフィナを中へと誘った。
南下した一行は、砂漠を越えて大首都ハノウに入った。ハノウの宮殿リティ・エルタナを見上げて、プロセルフィナは目を大きくする。
焼き煉瓦でつくられた赤いサンクティア宮殿とは違い、リティ・エルタナは大理石による建造物だった。丸みを帯びた屋根や壁には、細かな宝石や硝子が嵌め込まれ、色鮮やかに光り輝いている。
「アルガの人々は定住地を持たないから、一ヶ所に住むと決めるとこれでもかと豪華な家を建てるんだ。こういう大都市では裕福な人間がああした大理石の建築物を作らせる。だがそれは一部の者の話で、この辺りでは奴隷制が残っている」
水はけの悪い川ぞいにはそういった人々が暮らしている。貧しい者たちが暮らす区画もあり、壮麗な建物がある中心部との環境差は明らかだ。裕福な人間は人を買い、道具として働かせる。奴隷と思しき彼らのどことも知れぬところを見ている目は暗く、常に倦怠感をまとっているように思えた。
その風習の発端は民族間に征服戦争にある。戦いで勝利した一族は敗北した一族を吸収するが、これを使役して労働させる。その積み重ねが人を貶め、一族の勇名を消滅させ、子々孫々に至るまで奴隷になることを運命付けるという。
そんな国の頂点に立つ王とは、と思っているとアルガ王国の宰相が一行を出迎えた。宰相が従えるのもまた剣奴と呼ばれる奴隷出身の剣士たちだ。
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