7−5
そのまま付かず離れずの距離を保ったまま広場に出る。流れが拡散してようやく人心地ついていると、オルフが慌てて駆け寄ってきた。
「すみません! 手が離れてしまって」
「いいえ。無事にたどり着けてよかったですわ。あそこで待ち合わせをしているんです」
乙女像を指すと、見慣れた少女がきょろきょろしていた。急いで駆けつける。
「ごめんなさい、アリサ。待ったでしょう?」
「姫様! よかった、無事に合流できましたね。……まあ、レスボス公爵様ではございませんか? どうしてお二人がご一緒にいらしたんですの?」
「途中でお会いして送り届けてくださったの。ありがとうございました、オルフ様」
いえ、とオルフが微笑んだところで、急にアリサが腕をさらった。
「姫様! 早くしないと演奏が始まってしまいますわ!」
「あ、アリサ。まだお礼が途中……」
「十分ですわ!」とぐいぐい引っ張られ、円形広場の中央へ連れて行かれる。中央部は下へ続く階段になっており、即席の座席になる。底に当たる部分が舞台で、鍵盤楽器や弦楽器が準備されたところに演奏者たちが現れるところだった。最後にぴょこんと一礼した少年が、先ほど会ったジョアン少年だ。
例年通りなら演奏されるのは歌劇『冥界の女王』と『《死の庭》の乙女』のはずだった。
――とーん。
拍手と歓声を一つの音が鎮める。その音に合わせて楽器が調律を行う。再び鳴った音には歌い手が、次の音には三音階の声が発せられる。
音が途切れ、静かになった。そして、たかたーんと誇らしい和音が響き渡った。
流れるように音が奏でられる。螺旋階段を駆け下りる少年の幻が見えるようだった。どこまでも続く螺旋の下方、深い闇に向かって彼は恐ることなく突き進む。時折降ってくる光に勇気を奮い立たせ、闇の中にいるものたちの無数の瞳に狙われていても、ひたすら下へ。下へ。闇が深くなる。光が届かなくなる。彼は手を伸ばす。――光よ! 希望を灯せ。この願いが叶えられるのならば、闇に消えても構わない……。
光が絶えたそこに、闇を震わせる女の声が降る。低い歌声は闇の世界である冥界を統べる女王のものだ。
勇敢なる者よ 我の庭に何故来る
死者の眠りを妨げるなかれ
世界の理を歪めるなかれ
鍵盤の高い音は少年の叫び。戸惑い。お前は誰だと問う声だ。
闇の世界の女王に付き従う者たちが答える。
深く暗き淵より深く
眠りの果ての夜より遠く
暗色の海、星の絶えた世界の果て
その国の女王の名をお前は知っている
それが目指していた女王だと知った少年は叫ぶ。
――死した乙女をよみがえらせたまえ。
すぐ近くでオルフが息を詰めた。
この『冥界の女王』はある《死の庭》の護人の逸話を脚色し、悲恋に仕立てた物語だ。今も昔も《死の庭》は人々の脅威であり、生け贄である護人の悲劇性は、オルフのように誰かの心を掻き立てたのだろう。
冥界へ向かった少年はシェオルディアとして消えた少女を取り戻すべく、冥界の女王に掛け合った。女王は二人を引き合わせてやるが条件を告げる。
――では手を取るがいい、愚かな者よ。闇に付け入れられることなく、お前が決して振り向かなければ、乙女は光の世界へ返してやろう。
だが――彼は振り返ってしまうのだ……。
「誰か――誰か……――!!」
助けを求める登場人物が現れたのかと思ったが、違う。悲鳴に似た叫び声は、広場の入り口の方から聞こえてきていた。
異変に気づいた観客が何事かと辺りを見回す。演奏は異常な気配に止まってしまった。
次の瞬間、切り裂くような悲鳴が響き渡った。何事かと耳を澄ましても錯綜して聞き取れなかったが、誰かの声が舞台にはっきりと反響した。
「冥魔が――!」
広場は恐慌の海と化した。どこに冥魔がいるかもわからないのに舞台から人々が逃げ出していく。押され、ぶつかり、蹴られる中でプロセルフィナはアリサの手を取った。
――キイイイイイァアアア!!
階段を上がっていくと声がつんざいた。あれほど澄み切っていたはずの空に渦巻く雲が見える。地上に満遍なく落ちた暗い影の中で人々が逃げ回っていた。悲鳴、怒声。親とはぐれた子どもの泣き声。無残にも踏みにじられた祭りの跡に呆然とした。街のどこまでこの騒ぎが広がっているかわからないが、この人出なら死傷者が出てしまう可能性がある。
だがどうやってこの混乱を鎮めればいいのか。
立ち尽くしてしまったプロセルフィナの腕をアリサが引いた。
「立ち止まってはいけません! 姫様に万が一のことがあっては、殿下に顔向けできませんわ!」
ジーク。プロセルフィナは呼んだ。
(ジーク、どうか――来ないで)
「行きましょう、僕が先導します! 周りに気をつけて……――っ!!」
オルフは帯びていた剣を抜いた。前方に闇が凝る。じわじわと形を作っていく影の狼。果敢にも彼は剣を向けるが、冥魔はすぐに動こうとはしなかった。何故かはすぐにわかった。獲物を追い詰めるために同胞が現れるのをじっと待っていたのだ。周囲にどんどん冥魔が出現し、アリサが手を引いた。広場の入り口ではなく舞台のある下方へ。
「姫様、こちらへ!」
自分も恐ろしいだろうにアリサは懸命にプロセルフィナを誘導する。階段を下りきると焦った呼吸と靴音がわんと響いた。そこが舞台だからだ。
そのとき、自分のすべきことがわかったような気がした。
「アリサ、あなたは逃げて!」
声が嵐を予感させる風に拡散されていくのを耳で捉えて、この気づきがおそらく正しいのだと思わせた。
「危ない!」
アリサに体当たりされ、よろめいたすぐ近くを冥魔が転がり落ちていく。プロセルフィナは体勢を崩した彼女を抱きとめたが、蓋が開けられたままの鍵盤楽器に強く背中をぶつけた。がぁん……と鈍い音が響く。
痛みに耐えながら身体を起こすと、冥魔が目を光らせてこちらを狙っていた。
「ひめさまっ……」
「しっ」
アリサを庇いながら背後を探る。鍵盤に指が触れた。
――とーん。
指が沈む。音合わせに使われるその音を鳴らす。とー……ん。ゆっくりと、冥魔に聞かせるように。動かないのが偶然なのか、音が鎖になっているからかはわからない。だから明瞭な命令を下した。
「《去れ》」
ぐう、と苦しげな唸り声がした。
「《立ち去りなさい。お前が喰らっていい命はここにはないから》」
苦しむように後ずさりする冥魔に、自身の力を確信する。
今すべきこと。それは力ある歌声を街に響かせること。
たとえそれが自らの危険につながったとしても、ここで歌わずになんとしよう。
息を、吸い込んだ。
広げた翼で触れてください
その優しい光をください
眩く輝く強さの前で
失うことを恐れ
うずくまる私を
どうか
腐臭が漂っている。吸えば肺から身体を侵す、冷たく凍える、けれど熱い毒。《死の庭》の脅威にプロセルフィナの背筋が粟立つ。
自分のしていることはなんて非力で弱い行いなのだろう。この声は世界中には響かない。だから私は、世界を救うことはできない。
それでも歌い続けた。何も考えず祈るように。この地に現れる死の影よ、去れ。誰の命も奪わずあるべきところへ還れ。
冥魔は消えないが動きを止める。歌い続ければきっと人々が逃げる時間を作ることができるはずだ。目を見開くアリサに頷き、逃げるように促した。笑みを作れば乾燥した唇がひび割れ、口に血の味が広がる。どうやらこれは思ったよりも難しい仕事のようだ。
(でもお願い、ジーク。あなたは来ないで。どうか)
だが耳に届いたのは剣の唸り声だった。
階上で外套を翻す影を絶望的な気持ちで見上げる。
ジークが剣を携えてやってくる。まるで地の底へ降りるかのように階段を踏みしめてくる彼の右腕は青紫色の光に取り巻かれている。雷が鳴るようにぱりぱりと弾けるそれは、生命力を糧とする魔法の力だ。
(だめよ、ジーク!)
歌っているがために警告は声にならない。
(今のヴァルヒルムには諸外国の賓客が滞在している。あなたが冥魔を消滅させる魔剣を持つのだと知られたら何が起こるか。あなたは剣だけでなく、その力に縋る人々の思いに喰われてしまうかもしれないのよ!)
それは最も恐ろしい未来だった。欲望を持った者たちがジークに群がることになれば、彼は命を燃やし尽くしてしまう。求められるままに剣を手に、己を削ってこの世からいなくなってしまうに決まっている。
けれども、わかってもいた。
冥魔が現れたこの街。彼の王国の都で、彼が剣を使わない理由はない。
ジークは、笑った。晴れ晴れと、穏やかに。
「歌え、プロセルフィナ。俺のために。俺を生かすために」
その微笑みに、覚悟を見た。
プロセルフィナは手を伸ばし、彼の左手に己の右手を絡めた。しっかりと手をつなぐと最後に向かって旋律を紡ぐ。節を終えるまでに決意を固めた。
死命よ。
あなたの名前を知っている。
菫色の光が空を裂き、闇は滅され、蒼穹が戻る。
つながった手は熱く、プロセルフィナは思った。
――世界は守れなくとも、彼のために歌う。
彼を生かすために。
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