7−4
通用門から街へ降りる。目的は円形広場で行われる聖儀の演奏だ。ベリル子爵夫人の子息ジョアンがそこで演奏するはずだったが、そこにたどり着くには簡単でないとわかるほど、街はすごい人出だった。
「姫様、はぐれないようにお気をつけくださいまし!」
付き添いのアリサと身体をくっつけ合うようにして、じりじりと進む。
髪や胸に花を飾った女性が楽しそうに笑っている。あちこちから聞こえる歌は聖歌から酔っ払いたちの歌う流行歌に変わっていた。祝祭日は稼ぎどきと見た商人や流浪民が店を出し、見世物小屋を建てたり、路上で芸を披露したりと道を占拠している。囲いができたその間を人々が縫っていくので、広いはずの通りはごった返していた。
甘辛い香辛料と肉の焼けるにおい、麺麭の温かな香り、芸人の火吹き芸が何かを焦がすなど、空気の動きもめまぐるしい。砂糖の甘い匂いが漂ってきて思わず頬が緩んだ。甘く苦い香りは心を落ち着かなくさせる。ふらふらと彷徨いだしてしまいそうだ。
屋台や見上げものの店が出ているが、どこでも目につくのは護人像だった。普段売り買いされるのは石膏像だが、祝祭日だけは薄い紙に描かれた乙女の姿絵になっており、これを一日身につけた後、花飾りとともに海や川に流すと良いとされる。夜はまた荘厳な雰囲気だというが、今は日中なので花が舞い、酒や菓子を片手に人々が歩き回っている。
美しい声が聞こえてきて足を止めると、頭布をした女性が歌を披露していた。
歌い慣れた豊かな声。声は風を震わせて、彼女の身につけた鎖に連なる飾りをしゃらしゃらと鳴らす。目深にかぶった布で顔を隠していたが、こちらを見て笑ったようだった。
魔法がかかるよ きらめく魔法が
お前の願いを叶えてあげる
「姫様、いけません。見るならもう少し行儀のいいものになさいませ」
ヴァルヒルムは他民族の流入で他国よりましだとはいえ、流浪民の地位は昔と変わらず低いままだった。土地を持てず一ヶ所に長期滞在できないなど差別と偏見の対象だ。魔法の力を未だに持っており魔性とのつながりが深いと言われるのが嫌悪される理由だった。それを恐ろしいとは思わないが、微笑みながら歌うその歌姫には、確かに人々がすでに失ってしまった魔法の力が宿っているように思えた。
教えてごらん
思うだけでいい
お前の本当の願いを私が叶えてあげるから
(《死の庭》の乙女の祝祭日って、こういうものだったかしら……?)
記憶を失ってもある程度の常識はあるようだと言われていたが、どうも祭りの記憶が浮かんでこない。こういうものだろうとは感じられるのだが、既視感を覚えるほどぴたりとはまるものがないのだ。
けれど祭りの熱の中を漂うのは楽しかった。ここにジークがいればいいのにと思う。
「《魔法がかかるよ きらめく魔法が》……」
気づけば先ほど聞いた歌を思い出しては口ずさんでいる。
「姫様ぁ……!」
アリサの声が遠いと思ったら人波に分断されてずいぶん離れてしまっていた。慌てて追いかけようとするものの、団体になっている若者たちが邪魔をして足止めされてしまう。プロセルフィナは片手を大きく振って叫んだ。
「待ち合わせ場所で待ってて!」
こういうときのために円形広場の乙女像の前で待ち合わせしようと決めていた。聞こえるか不安だったが「わかりましたわー!」と声がした気がしたのできっと大丈夫だろう。あらかじめ集合場所を決めておいてくれたアリサの機転に感謝だ。
一人になったのでゆっくりと見物しながら歩いた。見物客を交えた演戯を見ていたら帽子を奪われ、小道具の帽子と交換するはめになるなんて、アリサがいたら絶対に経験できないことだ。西方で被られる深い円筒につばがついた黒い帽子を頭に乗せたのは風変わりに見えるだろうが、今日はそれほど目立たない。
ふと周囲が空を仰いだので、少し大きい帽子のつばを上げてみた。
通りに面した建物の窓に現れた女性たちが花びらを撒き始め、わっと歓声が上がった。子どもたちが高く手を伸ばす。
だが人が常に動いているところで立ち止まっているのは非常に危険だった。プロセルフィナは後ろからやってきた人にぶつかられ、つまずいたところでまた人にぶつかり、謝って後退したところで人の足を踏んだ。がつん! と硬い感触があって慌てて振り向く。
「ごめんなさい! あっ……!?」
相手はロイシアのレスボス公爵だった。
「……どうしてこんなところに?」
それはこちらの台詞だったが、目を丸くされるのも仕方がない。愛妾が一人で出歩いているなんて何をしているのかという話になる。プロセルフィナは恥じ入って、淑女のものではない帽子を外した。
「少し街を見物しようと思ったんです。決して公務を蔑ろにしたわけではないので……」
困惑した様子が居心地悪くて、プロセルフィナは言い訳にしかならない説明を続けようとしたが、どん、と後ろから押されてつんのめった。
「あ!」
帽子はどこかへいってしまったがしっかりと受け止められる。思ったよりも近くに公爵の顔があって驚いた。
「も、申し訳ありません! ありがとうございます」
「……立ち止まっていると危険だ。端に寄りましょう」
腕の中に抱え込まれながら道の端に誘導される。歩き疲れたらしい見物客が壁にもたれていたり、出店で買ったものを食べたりしていた。彼はそれを視界の端に入れると「落ち着かないですね」と呟いた。
「どこか静かな場所に……、あ、いえ。他意はありません。誤解しないでください」
きょとんとしたが、すぐに意味を理解して赤くなった。誘い文句に聞こえるがそうではない。ただ落ち着けるところの方がいいだろうと提案してくれただけだ。
つまずいた動揺からかうまく頭が回ってくれない。隙を見せているように思われたくなくて、なんとか笑ってみせた。
「ここで構いません。供の者とは円形広場の乙女像の前で待ち合わせているので、すぐ向かうと言ってあるんです」
「お連れの方がいるんですね。安心しました。一人では危ないですから、お送りします」
よかった、彼は非常に誠実な人のようだ。安心して先導を任せる。
「公爵様はどうしてここへ? 女王陛下はご一緒ではないんですね」
彼は一瞬ひりついた表情をした。なんだろう、聞いてはいけなかったのだろうか。
「どうぞ、オルフとお呼びください。外つ国に来ているからでしょうか、儀式に緊張していたようで、気分転換をしたかったんです。いろいろお誘いをいただいたんですがふいにしてしまった。……殿下には申し訳なかったとお詫びしておいてください」
「ええ、伝えておきます。オルフ様、ロイシアでも祝祭日はこんな感じなのですか?」
「え?」
オルフは振り向いたが、プロセルフィナはちょうど通りかかった飴屋に目を奪われてしまっていた。棒についた白い飴がぐねぐね曲げられたかと思うと鳥の形になる。見物の子どもたちと一緒に拍手してしまう。
「他国の祝祭日を知らないのです。やはり賑やかなものなんでしょうか?」
質問が唐突すぎたのか、彼は一瞬視線を別のところへやった。だが答えるときには気遣いのあふれる優しい顔になる。
「ええ……似たようなものですよ。ただロイシアはどちらかというと豊穣の祭りや新年の方が活気がある気がします。ロイシアは《死の庭》が近いですから、神像に祈る方々が多いというのが僕の実感です。ヴァルヒルムは冥魔が現れたことがない恵まれた土地だと聞いていますから、こんな大きな祝祭日になるんでしょう」
ジークはそのことについて懸念していた。たまたま冥魔の被害に遭わず大きくなった街だから、何か大きな報復があるのではないかと思っているらしい。
ふっとオルフの姿が消えた。どこにいったのかと探していたら、目の前に小さな包みを差し出される。
「よかったらどうぞ。屋台で買い食いなんて、殿下に叱られてしまうかもしれませんが」
ふんわりと焼きあがった菓子だった。小麦を練って焼いて砂糖をまぶしてある。
「ありがとうございます、いただきます。実は甘いものが好きで。さっきから食べたいなと思っていたところだったんです」
オルフは破顔した。
「だと思った」
どきっとした瞬間、上からどーん、どーん……と鐘の鳴る音がした。空気が変わり、人の流れが広場に向かい始めた。
「もう聖儀の時間ですね」
「たいへん。私、その演奏を聴くために来たんです。急がなくては」
慌てていると、オルフが手を差し出した。
「はぐれては、いけませんから」
プロセルフィナはしばし迷ったが、そっと手を重ねた。高貴な人の手は、磨かれた宝石のように繊細で力強い。
いけないこととは思いながらもどきどきしてしまう。つながった手の熱が、まるで細い糸になって心臓を絡めていくような気がした。どうしてこんなに胸が熱くなるのだろう。掠める不安にプロセルフィナはおののく。
花が舞い落ちる。摘み取られた花びらは海となって最後には踏みつけられていくのに、それでも人は歓声を上げる。笑い声が、歌声が止まない。残響となって重なっていく。
(あなたは私を知っているの?)
彼が手を引いている私は、死んでしまったジゼル王女なのだろうか。不思議な出来事のせいでジゼルは七年のときを超えてプロセルフィナになったのだろうか。
わからない。わからないけれど、オルフはずっとジゼルを忘れなかったということが苦しく、何故だか胸を騒がせる。
プロセルフィナと名付けられる前の娘は、誰からも必要とされなかったから、記憶をなくしてあの南の島に流れ着いたはず。でも本当はずっと誰かに思われ、探され、求められていたのならば。
ジークは手を放してしまうかもしれない――。
(ジーク。あなたのそばにいていいのよね? あなたは私を求めてくれるのよね?)
束縛を厭い、曖昧な態度をとった彼のことだ。行くべき場所があるならば解き放つだろう。そしてたった一人、剣に呼ばれるままに力を振るい己の命を削り取っていく。
証が欲しいと思った。確かな約束が欲しい。そばにいていいと、いつまでも縛り付けると宣言してくれれば。
そうして、はっきりと感じた。
目がさめるように、目に見える世界に、何が必要で何が大切なのか。
貴公子然とした男性に手を引かれ、人並みの行き着く開けた場所に導かれながら、プロセルフィナが望むのはたったひとつ。
――ジーク、あなたのものになりたい。
オルフが振り向いた。怯えたその表情には、彼にとっても手を繋いでいるのが誰なのかという恐れと不安が浮かんでいた。視線の先にいたのがプロセルフィナだったのに驚いたのか、途端、するりと手が離れてしまった。
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