7−3

 聖句を読み上げる神法司の声が神殿に反響している。列席者は厳かに目を伏せているが、ジークはそれに倣って俯きながらあくびを堪えていた。

 冥剣を持つジークにとって、一般の神法職が紡ぐ聖句になんの力もないことはわかりきっている。本当に力を持つ者はこんなところで呪文を唱えたりなどせず、剣を持って旅をし冥魔を倒す祓司になるのだ。王都などで行われる行事を執り行うのは、大体が貴族の縁故者だった。

 締めくくりの言葉を一同で唱えると鐘楼の鐘が鳴る。儀式が終わって人々が神殿を後にする中、金髪を油断なくまとめた女性の後ろ姿が見え、静かにその隣に並んだ。

「ギシェーラ女王。この後の予定は?」

 猫のような目をこちらに向けて、笑みもこぼさずロイシア女王は答えた。

「シェーラザード妃陛下からお茶会に誘われています。その後はフレイ陛下も交えて他の方々とともに晩餐を」

「では俺と話す時間もない?」

 半分からかった口調で言ったせいか、ギシェーラは顎を上げて「ええ、申し訳ありません」と淡々と答えた。

「レスボス公も同じく、か?」

 離れたところにいたオルフに声をかけると、妻とは対照的な人懐こい笑みで答えた。

「女性たちの憩いの場を邪魔するわけにはいきませんし、追い出された者で集まろうと誘ってもらっています。殿下にもお声がけしようと言っていましたよ」

 気が向いたらといつもの返事をしかかったが、「面白そうだな」と言っておいた。本心としては交流どころか何もしたくない。プロセルフィナのところはきっと静かだろう。うたた寝をしても許されるだろうし、子守唄を聞かせてくれるはずだ。誰もいないところであの声を聴いて眠りたかった。

「……その、あの方はどうしていらっしゃいますか?」

 そんなことを考えているとオルフが囁いた。

「プロセルフィナか。彼女なら部屋にいる」

「ご病気ですか? もしかして身体が弱くていらっしゃる?」

 本気で案じている様子に苛立った。どうしてこの男が彼女を心配するのだ。

「いや、そんなことはない。いつも溌剌としている。何故そんなことを?」

 オルフは言葉を濁したがぴんと来た。プロセルフィナを、身体が弱かったジゼル王女と重ね合わせているのだ。

 そこまで似ているのだろうか、と先でシェーラザードに呼び止められているギシェーラの横顔にその面影を探した。凛とした稀に見る美女だが、知的というよりも理性的すぎて女性らしさを損なっているように思える。しかしその頑なな立ち姿とは裏腹に、身体つきや声やまとう香りが艶やかで、妙に危うい印象だ。

(オルフ・レスボスに御せる女ではないように思えるがな……)

 しかし彼女らの故国ロイシアは、ヴァルヒルムとは違って女性も権力を有している場合が多い。それでうまく噛み合っているのならいいのだろう。

 ともかくギシェーラはプロセルフィナと似ていなかった。共通点といえば髪と目の色くらいだが、プロセルフィナの方が穏やかな色をしているし、顔つきも正反対だ。

「ずいぶんあの娘を気にするのだな、レスボス公」

 オルフははっと息を飲んだ。

「ご気分を害されたなら申し訳ありません。やはり……ジゼルに似ているものですから」

「そんなに似ているのか。そこまで言われると会ってみたかったな。確かあのときジゼル王女は臥せっていると言われたんだ」

「……ちょうどジゼルが亡くなった年でしたか、殿下がロイシアにいらしたのは」

 ジークもまたジゼル王女について調べていた。まずはアルとレギンに記憶がないかと尋ね、引っかかったのがロイシア王国への訪問のことだった。ギシェーラの即位に際して挨拶がてら催された夜会に出席したのだ。そのとき妹姫には会っていないとアルが答えた。

(また七年か)

 七年。その数字がこの半年ほどやけについて回る。

「あの後すぐに亡くなられたのだな。今更だが、お悔やみ申し上げる」

「いえ……」

 オルフは表情を曇らせて口を閉ざした。

 秋風が直に吹き付けてくる。すっかり冷たくなった空気に、初雪の訪れを予感する。ノーヴス公爵が戻ったロストフの穀倉地帯はとっくに収穫を終えているだろう。プロセルフィナの髪の色に似た金の穂麦の海を想像し、わずかに目を細めたときだった。

「プロセルフィナ様は……殿下と結婚の約束を?」

 夢から覚め、とっさに答えられずオルフを見る。彼は視線を合わさず、妻の後ろ姿を見つめていた。

「彼女は殿下の寵愛を受けていると聞きました」

「……ああ、そうだな。そういうことになるか」

 愛妾。寵姫。愛人。呼び名はあるのにジークはそれ以上のものをプロセルフィナに与えていない。王宮に部屋を持つが名ばかりの愛妾で、名前以上の関係ではない。彼女自身何もかも承知の上で「それでもいい」と言ったつもりだろうが、ジークにしてみれば、それが本当にどういうことなのかを知らずに言っているようにも思える。

 男女の情念は狂おしいものだ。ひとたび囚われれば身を焼き尽くす恐ろしいそれを、多分プロセルフィナは理解していない。

「歯切れの悪い答えですね」

 オルフが目を細める。そこにあるのは敵意だ。

 ジークは眉をひそめて真っ向から対峙する。

 後ろを歩いていた他の参列者はとっくにジークたちを追い越し、寒いと言い合いながら世間話に花を咲かせていた。だがこちらに気づいたギシェーラが振り返るが、シェーラザードに呼び止められて立ち止まることを余儀なくされている。

 相手の瞳の底に凝るものを捉えて嗜虐心が疼いた。顔を歪め、言い放つ。

「俺はあの娘の運命を受け取った。彼女が『あなたのそばにいられるのなら、なんだって構わない』と言ったからだ」

 オルフがぐっと歯を食いしばったのを見て気が済んだ。

(義妹に似ているから何だ。プロセルフィナは、俺の……)

 オルフを置いてその場を去る。本来なら口にできるはずのその台詞を言えなかったのは己の咎だとわかっているのに、苛立って仕方がなかった。


       *


 鐘の音が高らかに鳴り響いていた。王侯貴族は祈りの儀式に参列し、諸国の人々もそれぞれに《死の庭》に旅立った護人と、初代の乙女に感謝を捧げただろう。そして鐘が終わると粛々としていた雰囲気は、賑やかな祭りの空気へと変わっていく。外出の予定がないプロセルフィナはそんな非日常の空気をわずかに感じていたが、再びベリル子爵夫人の訪れを受けた。子爵夫人は立派な身なりの少年を連れ、深々と頭を下げた。

「プロセルフィナ様。先日は本当にありがとうございました。この子がわたくしの息子、ジョアンです。おかげさまで、本日の聖儀の演奏を務めることになりました」

 頬を紅潮させたジョアンは、プロセルフィナの手を取って挨拶の口づけをする。どうやらノーヴス公爵は王立音楽院の不正をただしたらしい。

「私は何もしていませんわ、子爵夫人。ジョアン様。今日の演奏が素晴らしいものになるようお祈りしております。どうぞ頑張ってくださいね」

「はい! あの、それでお願いが……ぼ、僕の演奏を聴きに来てくださいませんか!?」

 真っ赤な顔をした少年は母親にぱしりと背を叩かれて姿勢を正し、叫んだ。

 プロセルフィナは眉尻を下げた。

「殿下のお言付けで部屋にいるように言われているんです。せっかくのお誘いなのに申し訳ありません」

 でもせっかくだから、その祝祭日の演奏を聴いてみたいという気持ちもあった。名だたる詩人や演奏家、音楽院の優秀な学生が、《死の庭》の乙女のために奏でるそれは聖儀と呼ばれ、ヴァルヒルムで行われる祝祭日の最も大きな催し物だという。

「姫様、お一人で出掛ける分にはよろしいのではありませんか?」

 ベリル子爵夫人とジョアンが残念そうに帰っていった後、今までずっと黙っていたアリサが突然言いだした。するとそれを聞いた他の者たちまで大きく頷いた。

「そうですわ。愛妾でなく一般市民としてお出かけなさるには問題ないですわ」

「殿下のおそばにいることが問題なら、お一人でいらっしゃればいいんです」

「せっかくの祝祭日なのに閉じこもっているなんて、殿下の仕打ちは酷うございます!」

 いきなり結託したように言い始めるのでぽかんとする。いったいどうしたというのだろう。ついにはギュリまでもが重々しく頷いた。

「でも、ジークが」

「殿下なんてどうでもいいですわ!」

 あまりの剣幕に面食らう。そして彼女たちの結束の原因は、ジークへの怒りにあるらしいと知る。だがジークが何かしただろうか。恐れられていることを知っているせいか、彼は滅多に人前に姿を現さないよう気をつけているようなのに。

「殿下は姫様を蔑ろにしすぎなのです」

「わたくしたちは存じておりますもの。姫様が、殿下がいらっしゃらない夜遅く、寂しそうに歌っておられるのを」

 困ってしまった。それは剣が手元にあるので歌っていただけなのだ。しかし事情を知らない彼女たちには寂しがっているように見えていたらしい。

「姫様が献身的にお仕えしているというのに、部屋から出るななんて。殿下の仕打ちはあんまりです!」

「立場上連れ歩くことはできなくとも、代わりに何かなさるべきですわ!」

「でも飾り止めをもらったわ」

「そんなものじゃだめなんです!!」と声を揃えられてひっくり返りそうになった。見返りに値するものをもらったつもりだったが、足りなかったらしい。

「姫様は欲がなさすぎるんです! ちょっと困らせるくらいでちょうどいいんです」

 そうですそうですと首肯する彼女たちは自分よりも場数を踏んでいるようで、そういうものだろうかとプロセルフィナは考え込んだ。その隙を突くように小悪魔たちが囁く。

「普段我慢しているということを思い知っていただかねば」

「懲らしめるつもりでお出かけなさいませ」

「わたくしたち頑張って、殿下に姫様のことを大事になさるよう申し上げますから!」

 気持ちは嬉しいけれどやはり問題になっては困る。だが厚意を踏みにじりたくはない。どうすればいいだろうとギュリに目で尋ねたが、彼女は頷いた。

「この者たちの言うとおりです」

 プロセルフィナは目を丸くし、女官たちは短い歓声を上げる。

「殿下には殿下のお考えがあること、姫様がそのご意向に沿おうとしていらっしゃること、重々承知しております。それでもやはり殿下は姫様のお気持ちを無下にしておられるように感じます。姫様、そこまでご自分を犠牲にせずともよろしいのではありませんか?」

 優しく言われて思い出す。彼女は幼いジークを育てた一人でもあったこと。母妃が亡くなった後アルガ王国に留学するまで、ジークは彼女に養育されたのだ。その彼女が言うのだから、どうやらジークの振る舞いは腹に据えかねるものらしい。

「みんなはそう言うけれど……そこまで甘えてくれるのならすごく嬉しいと思うのよ」

 眉を下げて微笑むと、ギュリはため息した。

「……殿下もよく姫様のような方を見つけてこられましたこと」

 ジークもジークなら、プロセルフィナもプロセルフィナということだろうか。呆れられたけれどなんだか温かいものを感じてくれているようで、笑った。そして女官たちに平服を用意してもらうように告げ、街に行く準備をしてほしいと頼んだ。

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