7−2

 対策会議が行われるその日はよく晴れた、空の青が眩しい一日だった。

 サンクティアには各国の代表者と祝祭日の夜会に招待された人々の馬車が到着し、侍従たちは出迎えに追われていた。女官たちは澄ました顔で用もないのに廊下を歩いては、先ほど通った誰それは格好がよかったということを話しては楽しそうにしていた。あまりうろうろしてはだめよ、とプロセルフィナは彼女たちが大胆な行動に出る前に釘を刺しておく。浮かれているのは女性だけではないのだから。

 シェーラザードの愛猫アランを預かってくれないかと頼まれたのはそんなときだった。

「ごめんなさい。世話をする者が急に呼び出されてしまったの」

 王妃自らアランを抱いてそう言った。何度か部屋を訪ねたときに遊んだこともあって、アランは大人しくプロセルフィナに抱かれて喉を鳴らした。

「しばらくしたら迎えをよこすから、それまで見ていてくれるかな」

「もちろんです。いい子で待っていましょうね、アラン」

 アランの右手を振って王妃を見送った後は一緒に遊ぶことにした。小さな玉を転がしてみたり、羽をぱたぱたと揺らしたり、お腹をくすぐってみたり。アランが飽きると部屋の中を自由に探検させ、本を読みながら横目でそれを見守る。それにも飽きた彼はプロセルフィナの足元からよじ登ろうとして絹とレースの裾に爪を立てたものだから、女官たちが悲鳴をあげることになった。

 膝上でアランの毛を梳いてやると、気持ちよさそうに目を閉じている。こちらまであくびを誘われてしまう。

 最初に会った時より少し大きくなり、しなやかで伸びやかな青年猫になったアランだった。警戒心付きの好奇心が強くなったようで、人が出入りするたびに身を低くして顔を向ける。まるで番人のようだ。

 そのアランが急に身体を起こした。張り詰めた眼差しでじっと窓の外を見ている。

「どうしたの? 何か見える?」

 アランを抱いて窓に近づく。

 合間を見て世話をしている小さな庭が、さやさやと葉擦れの音を響かせている。羽虫が飛んでいるが特に誰かいるわけではない。

「今頃、お客様がたくさんいらしてるんでしょうね」

 話しかけながらアランの背中を撫でる。

(会議が何事もなく終わればいいけれど)

 あっと悲鳴をあげる。アランがするりと腕をすり抜けたのだ。

 そして運悪く扉を開けた女官の足元を走り去ってしまう。女官は驚いて立ち尽くし、プロセルフィナは「アラン!?」と悲鳴のように呼んで部屋を飛び出した。

 ちりりん、ちりんと首につけた鈴の音が離れたところから聞こえる。見えなくなったと思ったら姿を現すので、まるで行く先を知らせているかのようだ。

(こんなときに逃げるなんて……それとも、こんなときだから、かしら?)

 アランは頭のいい猫だ。女官たちを困らせるのが好きだというのは、シェーラザードに言わせれば、飼い主をよく思っていない者たちを懲らしめたかったのだろうということだった。あの子は人の言葉がわかっているみたい、とも。

「アラン! そっちはだめよ! 知らない人がたくさんいるんだから!」

 にゃあと声がする。本当に人語を解しているなら、表に出ないようにしているプロセルフィナの立場に配慮してくれそうなものなのに。そう思って角を曲がると視界が開け、庭に出た。

 躑躅の花が満開で、赤い百合と薔薇があちこちで大輪を開いて香りを撒いている。離れたところでは国内外の招待客が立ち話をしており、彼らとプロセルフィナの間には境界を引くようにして青い紫陽花の茂みがあったが、アランはそこに潜り込むところだった。

「こら! 捕まえた!」

 ぐねぐね身体をよじってアランは抵抗したが、赤ん坊を抱くようにして封じ込める。早く戻らなければと思ったとき、この一連の騒ぎを見ていた人物に気づいてしまった。

 相手はぽかんと立ち尽くしていた。

 金色の髪に青い瞳の男性、着ている衣装は貴族がまとえる豪奢な仕立てのものだ。だが今までに見たことがない人物、ということは外国からの賓客か。プロセルフィナは一応外に出ても恥ずかしくない部屋着だったが、髪が額に張り付いたのではっと我に返った。化粧もしていなければ装飾品もない。走ってきたので髪も乱れている。秋始まりの風が短い髪をそよがせた。

 いつもなら何気ない挨拶をして平然に踵を返せばいいとわかるのに、相手がじっとこちらを見ているから何も言えなくなった。目と口を開き、信じられないものを見ているかのように呆然としている。

 相手が、一歩近づいた。プロセルフィナは引いた。さらに一歩。動揺したプロセルフィナが動けなくなったところで手を伸ばされ、引き寄せられた。

「――………………っ!!」

 悲鳴のような悲痛な呼び声がしたけれど何を言われたか聞こえなかった。

(な、に……?)

 問い返すことができないまま相手に抱きしめられていた。きつく、強く。

 やがて耳元で呼ばれているのは名前だと気づく。でも誰の名だろう。プロセルフィナは知らない。

「何事なの、オルフ…………」

 そのとき現れた女性がこちらに気づいて言葉を止める。

 美しい人だった。金の髪と醒めるような青の瞳、金細工と青い宝石の輝きを放つ彫刻のような美女だ。首元には宝石が輝いているが、彼女の華麗さには金剛石も霞む。

 さらにその後ろから現れたのはジークだった。

「ジーク」

 それは掠れた悲鳴のようになった。はっと鋭く息を飲んで男性はプロセルフィナから飛び離れ、その間に割り込むようにしてジークが立った。彼の背中に庇われていると「これは夢……?」と呆然と呟く女性の声がした。

「これは……これは、どういうことなんですか、ジークハルト殿下!」

 厳しい声で男性が問う。

「彼女は……彼女は、ジゼルだ! どうしてジゼルがここにいるんですか!?」

 ――ジゼル。プロセルフィナに呼びかけられた名前だ。

 ジークは訝しい顔をし、プロセルフィナもわけがわからないでいる。だがめまぐるしい疑問の中でも状況を見ようと試みた。詰問した男性は青ざめ、女性はそれよりも蒼白で無表情になっている。ありえないものを見たかのようだ。そんな彼らに知らない名前で呼びかけられたということは。

 この人たちは、プロセルフィナの過去を知っているのだ。

「違うわ、オルフ」

 しかしその考えを砕いたのは硬い女性の声だった。

「この子はジゼルではない……御覧なさい、彼女は若いわ。まだ二十歳にもなっていないでしょう」

 威圧するほどの美貌の人の感情を律する声は厳しい。「この子」という呼びかけに何故か羞恥が沸き起こる。

「申し訳ありません、ジークハルト殿下。見知った者に似ていたので取り乱しました。あなたも、突然のことで申し訳なかったわ」

「誰に似ていると?」

 ジークは容赦なく追求した。女性は静かに答えた。

「妹ですわ。ジゼルといいました。……七年前に病で亡くなりました」

 しんとしたものはすぐにざわめきに変わった。騒ぎに気づいた人々がこちらをうかがっている。プロセルフィナは自分がいてはならないことを思い出し、慌てて言った。

「お騒がせいたしました。失礼いたします。殿下、また後で……」

 話を聞きたいという部分を濁したが、ジークは首肯し、戻るように促した。うろうろしていたアランを抱き上げ、略式の礼をして身を翻す。

 心臓が鳴っている。

 恐怖と不安、戸惑い。なのに抱きしめられたあの一瞬、妙に甘い痛みを感じたように思えたのはどうしてなのだろう。

(あの人たちは……あの人はいったい誰?)

 ただ今は何故か、泣きたかった。

 夜が更けた頃ジークが来た。駆け寄った自分がひどく情けない顔をしている自覚はあった。会議や接待に疲弊しているジークに無理をさせていることも。ただどうしても、あのふたりは誰なのかを聞かなければならなかった。

「女はギシェーラ・ジュディス・ロイシア女王。男はその夫、オルフ・レスボス公爵。どうやら女王の妹はお前とよく似ていたらしい。何度か会ったことのある知人だったんだが、俺は妹の方に会ったことはなかったから知らなかった」

「ジゼル王女ね」

 調べたの、と言うとジークは頷いた。図書室にも国家の歴史をまとめた本があるし、王宮勤めが長い女官たちから話を聞くこともできると知っているからだ。

「七年前、当時十七歳だったジゼル・ユリディケ王女が亡くなっている。元々身体が弱かったらしい」

 しかし思い返すとふたりの動揺はあまりにも激しかったように思える。死者とそっくりな人間が現れたのだとしたら、ギシェーラ女王のように結局別人なのだと納得するだろう。だがレスボス公爵はまるで亡くなった王女が戻ってきたかのようにプロセルフィナを抱きしめ、ジゼルと呼んだ。まるで彼の中でジゼルが生きているかのようだった。

「……私はジゼル王女なのかしら」

 ジークが眉をひそめた。

「何を言うんだ」

「妄想じゃないわ。……私の記憶には七年の空白があるのよ。ジゼル王女が亡くなったのも七年前だわ。蘇ってきたのかもしれない」

「墓を暴かねばわからん話だ。だが陸で死んだ王女が海から現れるか? …………いや」

 最後に何を思いついたのかジークは深く考え込んだ。まさかな、と呟くが困惑した様子だ。そしてプロセルフィナの想像を否定した時と同じように、眉を寄せて首を振った。

「とにかく……女王は頭の切れる人物だ。誤魔化しは効かんだろうと思って、身元不明の娘を引き取ったと話をした。力のことや記憶喪失の件は伏せておいたから、なるべく言わないよう努力してくれ。こだわっているのは女王ではないからな」

「こだわっている人がいるの?」

「なるべく表に出ないようにして、人が訪ねてきても会わないようにしろよ」

「ジーク」

 ジークは目を逸らした。

「……女王の夫が、ひどくお前を気にしているんだ。押しかけてきかねない」

「……? 義妹に似ている私のことが気になるのは当然じゃないかしら」

 なんとも言い難い沈黙が漂った。

 しばらくして気づく。

「もしかして、心配してくれているの? レスボス公爵が私に何かしないかって」

「はっきり言うな。我ながら馬鹿かと思ってるんだから」

 ジークが隠すように自分の顔を撫でる。

「お前だって馬鹿だと思うだろう? 束縛しないと言ったくせに、子どもじみた独占欲で他の男に近づいて欲しくないと思ってるなんて」

「馬鹿らしいなんて言わないで」

 きっぱり言って否定したが、微笑んでしまうのはどうしようもなかった。

「……嬉しいの、そう思ってくれること。だから……」

 だからの続きを口にすれば彼が困ることは明らかだったから、唇を結んで視線を落とした。ジークが片手を震わせたのが見えたような気がしたがその手はぎゅっと握られ、触れてくることはなかった。

「……そろそろ戻る」

「ええ、気をつけて。休めるときにはちゃんと休んでちょうだいね」

 おやすみなさいと見送ってから、久しぶりに就寝の挨拶をしたことに気づく。不安な気持ちは安堵に変わっていたし、ジークが妬いてくれたことを思い出すと嬉しかった。

(私は私。ジークのために歌う私)

 そう唱える。誰にも求められなかった過去の自分は、もういない。そのはずなのだ。

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