第10章 対峙
10−1
プロセルフィナの出立の日が近づいた頃、キュロは自身の今後について回答を出した。
「お暇をいただきたいと思います」
ジークが出発したため、外交官主導のもとプロセルフィナが責任者となって帰国準備をしていた。そこにキュロが加わるということだ。
「お暇といっても休暇をいただきたいのです。わたしは今お仕えしているウィタル様にご恩があります。でもシェオルディアをお助けしたいという思いもあります。ですからお許しがいただけるのならしばらく里下がりのような扱いにしていただけないでしょうか?」
それを聞いてルウは面白そうな顔をした。
「どうする、プロセルフィナ?」
「権王陛下とキュロがそれでいいと思うのなら、そうしてください」
不安そうなキュロに微笑みを浮かべてみせたが、彼女はかすかに笑っただけで強張りを解くことはなかった。きっとプロセルフィナが彼女の知るシェオルディアと重ならないせいだろう。そのことに安堵を覚えながら申し訳ない気持ちも抱いた。
「ではクルアーン。お前に無期限の休暇を与えよう。満足した頃にリティ・エルタナに戻ってくるがいい」
そうしてジークとその護衛数名を除いたものにキュロを加えた一行は帰途についた。
砂漠から高原までの道は念のため大陸中央寄りの道を選んだおかげか、冥魔に襲われることなく無事にヴァルヒルムに入ることができた。一足先に領地に戻っていたウラァ子爵ならびに公爵の邸宅で宿を取った際、彼らからヴァルヒルムの状況を聞いた。
「フレイ陛下はロイシアやフランにも救援隊を派遣したそうにございます。またヴァルヒルム国内は東からの難民で少々治安が悪くなっているとか。どうぞお気をつけて」
さらに北に向かい草原地帯に入ると、がらりと風景が変わった。すでに雪が見られる。紫色の雪だ。
ヴァルヒルムはすっかり冬支度を整え、冷たい季節の只中にあった。遠くに見える連峰は帽子をかぶり、草原には溶けきらない雪の塊が転がっている。だが《死の庭》の穢れが混じり、今まで見たことがないような赤紫の禍々しい色に染まっていた。心なしか雪雲も暗い紫に染まって見える。冷たく澄んだ風にさらされ研がれたように輝く緑も、肺が痛くなるような清々しさはない。こんな不穏な景色は見たことがなかった。東側はもっとひどいにちがいない。ジーク、と案じる声は胸に落ちた。
「……プロセルフィナ様、は……紫色の雪を見るのは初めてですか?」
馬車の中で向かい合っていたキュロがぽつりと口を開いた。
「あそこまで染まったものは初めて見るわ。あなたは?」
「わたしは……雪をずいぶん久しぶりに見ました。昔はあんな濃い色じゃありませんでした。ロイシアの東でもあんな色は見たことがない」
言ってから「あっ」と口を押さえた。
「わたしっ、また不安にさせるようなことを……」
プロセルフィナは笑みをこぼした。年上の女性にかしこまられるのには慣れたつもりだったが、キュロにそうされると距離を感じて寂しい。『また』と彼女は言ったけれどその記億がないせいもあるのだろう。
「大丈夫よ。悪いことばかりを想像するのはよくないと思うけれど、覚悟はできるもの。そう、《死の庭》の影響はどんどん強くなっているのね」
少しずつ強さを増しているのに、その積み重ねに気づかないでいたところに、それが弾けたのだ。膨らみきった異界が封印を超えて広がり始めている。
もしかしたら七年前の《死の庭》の乙女が正しくなかったばかりに。
そのときふと思った。
「……《死の庭》の護人が偽物だということには誰も気づかなかったのかしら」
キュロは頷いた。
「護人は仮面をつけて声を封じるのが習いです。神法司だけが仮面を外すことができますが、それ以外はずっと顔を隠しますから、気づかないのも無理はないように思います」
「……ねえキュロ? ジゼルが本当のシェオルディアじゃなかったとしたら、そのとき初めて身代わりを立てることにしたのだと思う?」
キュロはきょとんとしていたがみるみる蒼白になった。そんな、と言葉をもつれさせて恐れるように何度も首を振る。
「ありえない話ではないでしょう? 仮面をつけていれば誰も身代わりに気づかない。知っているのはそれを企てた人物だけ。もしかしたらこれまでも身代わりを立てたことがあったのかもしれない」
「神の法に則って世界を守護するのが神法司の役目です! 世界を危険にさらすようなこと……司兄たちが、そんな。そんな……」
考えたくもないと声を萎ませるキュロの中で葛藤が吹き荒れていた。膝の上で震えるほど握りしめられた手が痛ましく思えて、そっと手を伸ばす。
「そんなに爪を立てないで。唇を噛むのもだめよ。痛みで何かを堪えるのはよくないわ」
彼女の手に自分の手を重ねる。すると拳を固めていた力がゆるゆるとほどけていくのが感じられた。
ひとりじゃない。大丈夫。それはプロセルフィナ自身がずっと誰かに言ってもらいたかったことだ。それを誰かに言えるようになったのはジークのおかげだった。
ジークがいない今、プロセルフィナは彼の力を借りずに背筋を正して前を向き、誇らしく胸を張って立っていなければならない。彼が信じた自分をなくさないようにして、彼が戻ってきたときに迎えられるように。
「力を貸してね、キュロ。やることはたくさんあるわ。ヴァルヒルムの現状を把握すること、東方諸国の被害状況を知ること、《死の庭》の雲がどこまで来ているか。神法機関がどのように動いているか目を光らせていなければならないし、あなたの尊厳を踏みにじった人を見つけなければ」
「……わたしの?」
「許すか罰するかはあなたの決めることだけれど、そうしないとなんだか気が収まらないの。私はあなたのことを覚えていないけれど、そうしろって心が言うのよ」
キュロは目を丸くした。
「私には過去がない。でも昔の自分がどんなだったかは想像できるの。運命に流されていることを自覚しながら、多くのことに目を背けて逃げて、弱虫で臆病で、でもなんとかしようともがいていたんでしょうね」
「そんなことは」
首を振る。
「だってそれは今の私と同じだから。今でも私はジゼルなのかと考えると震えるの。自分が自分でなくなりそうな気がして、考えることを止めてしまう。でもジークがいるからなんとか自分を保っていられる」
過去の自分と今の自分に違うところがあるなら、必要としてくれる誰かがいるということだ。流されるのではない、自分の願いを知ったということだ。
「キュロ。あなたは見知らぬ誰かから未来を取り上げられながら、誰にも負けずに自分の足で立って、私たちに手を貸してくれることを選んでくれた。私はあなたの強さに報いたい。あなたの望む『私』ではないかもしれないけれど、これは私の本当の気持ち」
ぽたり。落ちた雫がプロセルフィナの手の甲を叩いた。
キュロは声を殺して泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、一方の手で涙を拭う。肩を縮めてしゃくりあげる様子がまるで少女のようで、プロセルフィナは黙って彼女の手を繰り返しさすった。
キュロがプロセルフィナとジゼルを重ねていたとしても、彼女を癒したい、助けたいという気持ちは私のものだ。彼女の抱えていたものをジゼルでない誰かが解き放ったとして何の支障があるだろう。その気持ちをもらえるのはジゼルだけではないのだ。
一行はヴァルヒルム国内を北上し、王都サンクティアの大門をくぐり抜け、城に続く一本道を走る。王都周辺になると雪は白っぽくなっていたが、ここから東を望めば重い雲が立ち込めているのが見えた。遠からずサンクティアも飲み込まれてしまうかもしれない。
道が変わり、舗装された石畳を走る。車輪の音が静かになって城が近づいてきていることにほっとしたが、同時に気を引き締めた。
だがその気持ちは、後ろから近づいてくる騒々しさで波打った。気のせいかと思ったが、どど、どどどと響く複数の馬が駆ける音だった。
迫り来た馬車はあっという間にこちらを追い抜いて行ってしまったが、この道の先には城しかない。遅れて、馬車を追う騎兵が城へ走っていく。
プロセルフィナたちも王宮に到着したが、アルがしばらく出るなと待機を命じる。危険を感じるほどではないが門の前で押し問答が繰り広げられているようだ。
「お、お許しください。火急の件なのです! 陛下に! フレイ陛下にお目通りを!」
「まずは何者か名乗れ! ここはヴァルヒルム王の居城であるぞ!」
「話は別のところで聞く。後ろの馬車を先に通しなさい。道を塞ぐな」
すると高い声がした。
「お願いします! フレイ陛下に会わせてください! 僕はロイシア王国の……」
「門を突破しておいて国王陛下に謁見とは、よくも」
門番が声の主をつかんだらしい。しかし老いた声がそれを上回る勢いで怒鳴りつけた。
「その手を離せ! この方はロイシア王国の王太子イムレ殿下ぞ!」
驚いて窓を開けると外に出てきた白髪の老翁が門番を突き飛ばしているところだった。彼が庇った少年は身を竦ませてしまっている。
「た……助けてください、我が国を! 父と母を!」
それでも勇気を奮い立たせた少年が声を震わせて懇願する。「ちょっと君たちさ……」と見かねたレギンが口を出すのと、プロセルフィナが扉を押し開けるのは同時だった。
降り立った靴音がやけに大きく響き、彼らはこちらを見た。
肩をすくめるレギンとアルに苦笑で謝辞を示し、声を放った。
「ロイシア王国のイムレ殿下でいらっしゃいますか?」
びくん! と少年が震えた。その目がみるみる射抜くほどの鋭さを帯びていくが返事はない。不審に思ったが構わず名乗った。
「私はプロセルフィナ・ノーヴス。このお城でお世話になっている者です。フレイ陛下やジークハルト殿下に何の御用でしょうか? よろしければお話を……」
「……して…………」
俯いたイムレがかすれた声で何かを言った。
プロセルフィナは言葉を止めて彼を待つ。だが放たれたのは強い憎悪だった。
「どうしてお前がここにいるんだ!?」
「殿下!」
駆け出したイムレを老翁が慌てて抱え込もうとしたが間に合わず、彼の手はプロセルフィナに伸ばされたが、アルによって阻まれた。あっという間に護衛の騎士たちが彼を地面に押さえ込む。押し倒されながらも少年はぎらつく目でプロセルフィナを睨んだ。
「この国まで呪うのか! 母上や父上だけじゃなく、この国まで穢すのか!!」
「殿下、殿下は勘違いしていらっしゃいます! この方は……」
声を上げた老翁がひたとプロセルフィナを見つめ、目を潤ませた。プロセルフィナはうろたえた。嗚咽した翁が跪いたのだ。
「……お懐かしゅうございます、ジゼル殿下」
「ゲレールト先生! 僕は見ました、父上の部屋にこの女がいるのを! この女のせいで父上はおかしくなってしまった! こいつは魔女だ!」
どういうことだと一同は顔を見合わせた。少年はほとんど狂乱状態でプロセルフィナに掴みかかろうと暴れている。少年は目に不安と怒りと憎しみをちらつかせていたが、ゲレールトと呼ばれた翁は祈るような細い声でプロセルフィナを仰いだ。
「どうかお救いください、ロイシアを。我が国を覆う不吉な影から……!」
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