3−2
神秘的に現れた娘の存在は、日々明朗に過ごしている島の住民にとって大きな事件だった。大人たちは立ち寄るついでに具合はどうかと尋ねるくらいだったが、子どもたちは様子を見たいと診療所に入り込んだり窓を覗き込んだりし、ヴェルかジークが摘まみ出すことの繰り返しになっていた。
「あんたたち! いい加減にしなさい!」
それを怒鳴りつけることで追い払ったのは、眠る少女の世話にきていたリンデだった。彼女はただでさえきつい目を更に吊り上げて、ジークとヴェルをも叱りつけた。
「ふたりも、もうちょっとしっかりしてよ! あの子が可哀想じゃない、ゆっくり眠らせてあげたいと思わないの!?」
少女の世話は島の娘が交代で行っていた。診療所に通っての仕事は面倒だと思うのだが、どうやら眠り続ける少女はなんらかの愛着を覚えさせたらしい。こうして集まる子どもを叱り付けるのはリンデだけではなかった。
リンデに留守番を頼み、ジークとヴェルは海岸に出た。世話をする者が来ていると彼女を着替えさせることもあって診療所にいられない。医者でないジークはその間海岸沿いをぐるりと散歩するのが習慣になっていた。
「何かわかりそうか?」
「いいや、何も。彼女が着ていたのが巡礼服だったってことくらいだ」
その巡礼服は絹布で仕立てられていた。それも溶液につけて精製した真っ白な絹だ。ああいう布を織るのは大陸北部の者たちで、この辺りの島人は通気性が高い麻布で衣装を仕立てるため非常に目立つ。だが十七、八の巡礼の娘が行方不明になったという事件はないようだと島の男たちが話していた。
「エスフォス島の神法司だろうか」
「それにしては遠すぎる。エスフォスからアレマまでどれくらいあると思ってる」
同じ大陸東側にあっても、エスフォス島は北、アレマ島は南にある。船で二日かかる距離であり、その間には《死の庭》による風と波という困難が立ちふさがっている。
どこからともなく現れて眠り続ける美しい娘とは、なんのおとぎ話だろう。
「心配なのは筋力が衰えることと脱水と栄養不足だ。口に運ぶと食べはするけどそれでは十分でないし、ここでは点滴もできないしな」
医者らしい観点でヴェルが考え込んでいる。
ジークは海を見た。――数年前、ああいう衣装を着た者を海に見送った記憶が蘇った。
(馬鹿なことを。あの旅から何年経ったと思ってる)
あの時すでにあの娘は十代後半だった。生きていたとしても二十歳を超えただろう。時間は流れている。自分は死に向かって生きているのだ。
――………………オォォォ……。
「……うるさい」
驚いたヴェルが振り返る。
「どうした?」
「何でもない」
不機嫌に答えた時だった。ぞおっと不穏な唸りをあげて風が吹き抜けた。
遅れて森が鳴り、波が騒ぐ。同じ方向に揺れることができないそれらがぶつかり合う不吉な響きが聞こえ、急激に雲が集まり太陽の光が遮られ、波は白く濁り始めた。
嵐がやってくるときの風だ。ヴェルが空を見上げ「また天気が変わった……」と訝しげに呟いている。
――オ、オオ、オオオォォオオ…………!
「ジーク!?」
雷鳴が響き渡ったと同時に脳髄が揺さぶられる叫び声を受け、ジークは耳を塞ぎ、膝をついた。
「ジーク、どうした!?」
動揺しながらジークを支えるヴェルは、絶叫を聞いていない。その声を聞く者は限られている。主であるジークと魔法の力を多少なりとも宿す者。この島ではエルダだ。
「……だ……、じょうぶ、だ……」
頭ががんがんする。歯軋りして呪詛の言葉を吐いた。
(化け物め、耳元で叫びやがった)
島の中央に赤黒い雲が渦巻く。普通の人間には嵐の黒雲に映るだろうが、あいにくジークの感覚は特別だ。彼らが感じない《死の庭》の腐臭も魔力が凝る冷気も、肌にびりびりと感じている。
この島にも《死の庭》の力が及んでしまった――冥魔が現れたのだ。
砂を蹴り、走り出した。
「ジーク!」
「島のどこかに冥魔が現れた。そいつを消しに行く!」
この島はエルダによる守護の力が働いている。巫女は医師であり呪い師でありかんなぎだ。だがそんな彼女の力を凌ぐのが《死の庭》から生み出される魔性のものたちだった。
――オオ、オオオオォォオ……!
「うるさい! 迎えに行ってやるから静かにしてろ!」
自身にしか聞こえない声に向かって怒鳴りつける。島に集まっていた鳥たちが鳴き声をあげて一斉に飛び立った。
村に入ると異変に気づいた女たちがジークを見つけて集まってきた。
「ジーク、今度は何なの!?」
「冥魔が出た。危険が及ぶかもしれない。エルダに従ってくれ」
女たちは蒼白になった。
そのとき駆けてきたのはエルダの身の回りの世話をしている見習い巫女だ。
「ジーク! エルダが、北海岸へ行けと言っている!」
「わかった、ここは任せるぞ!」
村を突っ切り、島の中心部にある森に向かった。警鐘のごとくけたたましく鳴く鶏たちが足元を走り抜けていく。やがて鳴り物をつけた縄が張り巡らされた領域に行き着く。普段なら巫女しか立ち入ることのできないそこを踏み越えた。
道なき道は泉へと至る。島の聖域である清い水場には、何かが吹き出す泡が忙しなく浮かんでいた。ジークは声を張り上げた。
「――来たれ《冥剣》。お前の好餌が現れたぞ!」
――オオオオオオオッ!!
泉に沈むそれを掴む手が燃えるように熱くなった。
水が一瞬にして沸騰し水底が露わになると、眠っていた剣が目を覚ます。赤黒い炎がジークの手の周りを舞い、剣は再び歓喜の声をあげた。
だが次の瞬間ぎゅうぎゅうと内臓を絞られるような痛みに膝を折ることになった。握られた心臓から無理矢理力を引き出されて、全身を覚醒させられる一方で思考が焼かれていく。その手にある赤紫色の力を振るいたいという欲求が目から噴き出した。
目を爛々と輝かせたジークは、そのまま北海岸へ降り立った。
波が引いていた。ぞぞ、と砂を張って逃げ去っていく白く泡立つ波間から、赤黒い影がこちらに向かって走ってくる。
――ギイイ、イイイィイイ……。
硝子を掻くような軋む声で鳴きながら、海蛇の姿を持った冥魔が海を黒く汚していく。牙をむくそれらにジークは剣を掲げた。
「――滅せよ」
しゃーん!
それは例えるなら、赤く焼けた鉄の輪を連ねて鳴らす音。
赤い閃光と、冥魔の断末魔が轟く。
じゅうう、と手のひらが焦げる痛みにジークは息を詰まらせた。歯を食い縛るあまり獣のような形相となって、荒い呼吸を繰り返す。
穢れた海は浄化され、元の青さを取り戻した。だが雲は暗黒の色をしたまま、凪いだ風も再び荒れ狂う。海の間に新たな冥魔が現れたが、ジークの剣の一閃がそれらを跡形もなく消滅させる。さらに現れた冥魔は狼の姿を取って砂浜を走ってきた。
――オオオッ! オオオオオオ!
際限なく来る餌に《冥剣》が笑い、光を放っては死を食らう。それに比例してジークの心臓は悲鳴をあげる。目眩が襲い、自分という思考が削り取られていく。血の色を帯びてきた目玉で滅するものを捉え、人形のように剣に言われるがまま力を振るった。
次の冥魔は上半身が人間、下半身はかぎ爪を持った鳥の姿だった。ただの影の塊に埋もれていた赤い目が愉快そうに笑ったかと思うと、空を仰ぎ甲高い声を響かせた。
――キイイイイイイェェエエエエ…………!
甘美さと醜悪さの極みという歌声に、ジークは殴打の衝撃を受けた。頭を掻き回すきりきりという音が神経を擦り、頭痛と吐き気をもたらす。取り落としそうになった剣を砂に立てて膝をついた。異形の冥魔は嬉しそうにキイキイと笑って、さらなる歓喜を歌う。
痛みに霞む視界に、ふと金色の輝きを見た。
(な……!?)
黄金の髪の眠り姫が、たどたどしい足取りでやってくる。
少女は透き通った青い瞳でジークを見つめ、数度、瞬きをした。
何も知らない無垢な瞳に息を奪われたのも束の間、振り向いた冥魔が笑い声を迸らせ、暴風に弄ばれるのに似た衝撃を再び脳髄に受けながらジークは叫んでいた。
「何してる、逃げろ……!」
剣に力を送る。島を襲う呪いを祓うために。娘が呪いを与えられる前に。
全身に鋭い痛みが襲う。
心臓、が。
(保たない、か……?)
冥魔が少女に覆いかぶさろうと飛びかかる。ジークは暴れ狂う心臓を押さえつけ力のすべてを振り絞った。
――死命よ。
剣の力が放たれる前に、黒と灰と赤だった世界に清廉な青白い光が生まれた。
冥魔はそこに留まっていた。少女もまた脅かされることなく立っている。
澄んだ響きが流れ出した。
死命よ。
あなたの名前を知っている。
あなたは生命。
あなたは原初。
わたしの紡ぐ夢を見るもの。
この世の安寧を追うもの。
彼方を求める殉教者。
ご覧、あれはあなたが恋う光。
歌、だ。
(神法機関の聖歌……)
すでに詞がつけられている旋律に、少女は自らの言葉を乗せている。
力を搾り取られて消えるはずだったジークは、その直前の姿勢のまま伸びやかに歌う少女を見ることを許されていた。擦りきれそうだった聴覚に少女の歌声は癒しの力となって響き、摩耗したものを優しく包んでいく。
あれだけ咆哮していた世界が動きを止めていた。海の冥魔、地上を駆けていた冥魔、襲いかからんとしていた冥魔すべてが、解き放たれていく歌声に耳を傾けている。
そして少女は笑った。
「《愛しき闇と恋しき死よ。
あなたがたに光あれ。》」
――シャリイィイン……!
ジークの手にあった剣がかつてないほど澄んだ音を奏でた。それは少女の声に寄り添う菫色の光となって島を包み込む。呪いがすべて青紫色の光に転化され、白い娘の手から放たれていく。ジークはふと剣に蝕まれていた自身が何かに守られているのを感じた。焦げ付いた手の痛みは和らぎ、吸い取られていた力が戻ってきているのだ。
(負荷が軽くなっている……?)
蒼穹と青い海が戻ってくる。太陽が差し、砂の粒が白く輝いた。娘の歌声の残響は溶けて消え、風と波は穏やかに打ち寄せてくる。
ジークと少女は見つめあった。初めて会うはずなのにどこかで見た気がする。懐かしく胸を締め付ける何かがある。
「お前は……誰だ?」
少女は澄んだ目で何かを探すように宙を見て、眉を寄せ視線を落とした。
「私は……」
少女は己の手を見て、足元を、砂に塗れる髪を、着替えさせられた島の娘の衣装に触れ、周囲をぐるりと見回した後、最後にぽつんと呟いた。
「私は……だれ?」
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