9−4

「ジーク! フィナ……」

 シグは顔を輝かせたが顔色が悪く今にも泣きそうにになっている。ムントはこちらの立場を慮ってか目礼だけだったが、強行軍だったのだろう、彼もまた青ざめていた。

「ふたりとも何があった。それによく俺がここにいるとわかったな」

「エルダが教えてくれたんだ。ジークはアルガの王宮にいるって。ジーク、ジーク……おれたちどうしたらいいか……」

 涙ぐんで俯いたシグの細い肩をムントが抱き、一同を見回して話し始めた。

「二週間ほど前から海で魚が獲れなくなった。そのうち島で病が流行り始めた。諸島全域に広がっているらしかった。そうして一週間前、東に紫色の雲が立ち込めるようになると、冥魔が現れて多くの漁師が犠牲になった。冷たい風のせいで緑が枯れ。作物が育たなくなったりしている。噂によると諸島北部の島がいくつかその雲に飲まれて消えたらしい」

「消えた?」

「空から海まで紫の雲に包まれてしまった。それに触れると消えてしまうという噂が広まっている。雲は今も島に向かっているんだ。いずれは大陸にたどり着くと思う」

 そのとき焦った様子で別の侍従が現れ、ルウに耳打ちした。内容を聞いたルウは険しい顔になった。

「ジーク。ヴァルヒルムの使者が来た。ウラァ子爵と名乗っている。通してもいいか?」

 ジークとプロセルフィナの視線が交わった。記憶が確かならば高原地帯を領地としている公爵の息子だ。そんな人物を使者に立てるのだから危急の用件のはず、もちろんだとジークは頷いた。

 ウラァ子爵は三十代。ヴァルヒルムから来た者らしくここでは厚着に思える格好をしている。口の周りに濃い髭をたくわえた顔に見覚えがあるのは、いつかの夜会で挨拶をしたからだ。ルウと並んでジーク、プロセルフィナが待っていたためか、彼は恭しく膝をついて礼を失することを詫びようとした。

「挨拶はいい。何があったか話してくれ」

「同盟に従いロイシア王国よりヴァルヒルム王国へ救助の嘆願が参りました。数日前より東海に紫色の雲が出現し、沿岸地域では冥魔出現による被害が深刻になっているとのこと。また冬季に流行するはずの病が急速に人々の間に広がっているようです」

 子爵の報告はムントたちの言葉を裏付けるものになった。フレイから預かったという手紙を受け取ってそれを読み終えたジークは、無意識だったのだろう、低く呟いていた。

「《死の庭》が侵食してきているということか……?」

 呪いの色である紫の雲に覆われた島が消えるというのは、それがかつてそこにあった大陸を飲み込んだ《死の庭》と同じ状況であることを示している。

「子爵。神法機関はどのように動いている?」

「エルフォス島の司が動いたという話は聞いておりません。王宮お抱えの神法司たちは、ロイシア、その南のフラン、エディア、リュディアの辺りだと祈祷だ浄化だと動き回っているようです。今回の件でフレイ陛下が代表してエスフォス島に使者を送られたそうですが、返答はまだないと」

 神法司が動いていないのかもしれないという状況は、先ほどの話と照らせば不審を抱くに十分だった。

(このままではエスフォス島も雲に飲まれて消えるというのに、神法司は動かない。……神法司が動けない理由があるのかもしれない。エスフォス島の司しか知らないことが関係しているのでは?)

「ジーク、どうしよう。俺たちの島が」

 シグがたまらないといった涙声で叫ぶ。島が消えてなくなるかもしれないという不安を持ったまま、エルダから送り出されてきたのだ。家族や親戚や友人たち、島の人々がどうなったのか、助けてほしいと願うのは当然だった。

「エルダは何と言っていた」

 ジークが問う。そうだ、あの島には巫女がいる。そんな希望を打ち砕くようにムントは苦しげに言った。

「……ジークの剣が必要だと言った。剣があれば結界で少しの間雲を食い止めることができるが、そこからどうなるかはジークにかかっていると」

「殿下。東沿岸国に被害が出ている現状、お二方にはヴァルヒルムにお戻り頂きとうございます。《死の庭》の影響が出ている状況でおふたりが狙われることは必至。御身の安全を確保することが第一でございます」

 焦った様子でウルァ子爵が声を上げる。一方で自らの立場を理解している少年はぐっと押し黙り、涙目を隠した。

 ジークは一度目を閉じた。

「――アレマリスへ行く」

 殿下、ジーク、と相反する声が上がる。

「ただし、プロセルフィナはヴァルヒルムに戻す」

 目を見張った。彼はこちらを見ずに早口に言う。

「冥魔に対抗しうる者が固まっていてはもしもの時に困る。俺は大丈夫だ。アレマには聖域があるから、歌がなくともぎりぎり剣は暴走しない」

「だからって……あなたの身が危険だわ。剣の力はあなたの命を糧にするのよ!」

 言ってから言葉の重さが感じられ、舌がうまく回らなくなった。

 今。ジークは、プロセルフィナの力は必要ないと言ったのだ。

《死の庭》が広がりつつある東海で剣を使うことは危険だと考えつかないはずがないのに、ジークはルウたちと打ち合わせを始めた。やがてその顔色を案じたルウによってプロセルフィナは退出を促された。

 震えているしかない自分が悔しくてたまらず、部屋を出る。

 必要ない。そう言われただけで動けなくなる。ジークが大事な人だからという以上に自分の存在が無意味なものにされることが恐ろしいと感じている自分に腹が立った。

(何か私にできること……何か……)

 自分が持っているものはひとつだけ。だから、決めた。

 時間が経ってレギンが言伝を持ってきた。ジークは先んじてアレマリス諸島に向かい、プロセルフィナはヴァルヒルムに戻る。話が続くので今夜は遅くなるということだった。

 それが別れの儀式になるのだろう。ふたりはアルとレギンも交えて互いの杯に酒を満たし、武運と運命を祈り合うのだろう。そこに自分の居場所はないとわかっていた。

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