9−3
クルアーンと呼ばれていた女性は、奴隷の装いから王宮の女性たちがまとう一般的な衣装に着替え、プロセルフィナやジーク、そしてルウの前に跪いた。
七年前に出会ったという彼女のことは、ジーク以外のアルとレギンも覚えいていたようだ。ふたりとも目を丸くし、二十歳間近と思われる彼女を呆然と見つめ「どうしてこんなところに……」と呟いている。
キュロは座るように命じられ、おずおずと着席すると、苦しげに胸を押さえてしている。彼女にとってもこれは思ってもなかった事態なのだろう。
彼女が支度をしている間にプロセルフィナは七年前の出来事を詳細に聞いた。その祈りの旅路は、シェオルディアと神法期間の司たち、ロイシアから派遣されてきたオルフ公爵を筆頭とした護衛騎士、そして途中から加わったジークたちの三人で行われたという。その中で最年少だったのが、今はクルアーンと呼ばれている司見習いのキュロだった。
「どうしてプロセルフィナがシェオルディアだと思ったんだ?」
「字が同じでした」
思ってもみなかった答えだったがジークは納得している。
「そういえばお前たちはよく筆談をしていたな……」
「はい。シェオルディアの書く字には少し癖がありました。それがプロセルフィナ様からいただいたお手紙の字と同じだったんです。この、字です」
札遊びで『王』を意味し、棋譜でも王者を示す一字だ。プロセルフィナの癖字では斜め十字になっており、書き始めと始末が植物の蔓のように巻いている。それが花びらのようだったから覚えているのだとキュロは言って、心細そうにプロセルフィナを見つめた。
キュロの瞳は辛苦を嘗めただろうに歪んだり卑屈になったりしない、素直な目だった。その目に羞恥を覚えて答えられなかったのを代わったジークが、別の質問をぶつけた。
「旅が終わった後、お前はエスフォス島で修行すると言っていたはずだ。なのにどうしてここにいる?」
キュロはきつく唇を結び、一つの決意とともに語り出した。
「アイデス様のおっしゃるとおり、わたしはエスフォス島におりました。ちょうど一年経った頃、ホメロス司兄がロイシア王国へ戻られるお話を聞きましたが、わたしは島に残ることを司兄やプルート司長にお伝えしたんです」
「それが何故奴隷に?」
「……正確なところは、わたしにもわかりません……」
しかしキュロはわかる範囲で答えた。彼女の中で何度も思い返されて整理された過去だったのだろう。
その夜キュロは同じ見習いの少女たちを探して本殿に行った。彼女たちはキュロを閉じ込めて逃げていき、一人になったキュロは島の神法司たちが受け継いでいる、島の秘密を探った手記を読んでいたが、そこに記されていた呪文を口にした途端、見知らぬ場所に立っていた。進んでいくと謎の小部屋があり、その祭壇には魔具と思われる《死の庭》の護人の任命書が置かれてあったという。
「任命書に浮かぶ文字を読んでいたら頭を殴られて意識を失いました。気が付いたら檻の中で。人買いの船に乗せられていたんです」
船はいくつかの島を回って南下した。南方国に到着した船は商品を売りに出し、キュロたちは何人かまとめてアルガ王宮の侍従の部下のさらに部下という人間に飼われ、後宮入りする娘にあてがうための奴隷にされた。キュロはクルアーンという名を与えられ、ウィタルという夫人に仕えることになった。そうして時間が過ぎていったのだという。
「エスフォス島に人買いの船が近づけるとは思えません。だから多分……高位の神法司に人買いとつながりを持つ人物がいるのだと思います。わたしが売られたのは都合の悪いことを知ったからだと、そう思ってきました」
ジークの表情は重かった。室内の沈黙もまた。
(……なんてひどい話だろう)
神法司になるはずが後宮の奴隷として生きることになるなんて。売り買いされる道具になったこともきっと彼女の心を傷つけただろう。未来が永遠に閉ざされて望みを失ったからこそ、あんなに悲痛な声でシェオルディアを呼んだのだ。彼女が望む救いではなかったかもしれないけれど、駆けつけることができて本当によかった。
「世界を守護するはずの神法司たちが、恐らくはエルテナに関する何かを隠匿している。その任命書とやらが《魔具》なら部屋は動力機関だろう。最初のエルテナの時代に次のエルテナを見つけられるよう魔法の技術をかき集めて作ったものだ。さて、そこに入った者を殴り倒して奴隷にして売るということは」
ルウの言葉をジークが引き継いだ。
「鍵になるのは任命書。それを見られてはならなかったというのなら――護人の任命が正しく行われていない可能性がある」
今度は熱と光が失われたような静けさが訪れた。
ごくりと息を飲むと石を飲むように喉が痛んだ。寒気とめまいを覚える。
勇敢なキュロがおずおずと頷いた。
「私もそう思っていました。権王陛下のように魔法や《魔具》について詳しいわけではないのですが……」
「発言をお許しください」とアルが手を挙げると、ルウが頷いた。
「もしそうだとすれば、神法機関の目的はなんでしょうか? 彼らは己の行動が危険につながるとわかっているはずです」
「神法司は魔術師の末裔だというが、再び魔法の力を取り戻したいとは考えているかもしれん。だが護人を捧げないことで魔法を得られるというわけではなかろう。魔法で世界を支配するどころか危険にさらしている」
「ならやっぱり世界を滅ぼそうってこと?」
レギンが信じられないといった様子で呆れている。
そこまで聞いてもプロセルフィナは何も言えないでいた。自身の過去につながるものに行き着いたというのに、自分が身代わりで《死の庭》に送られたのかもしれないと思うとうまく考えることができなかったのだ。
考え込んでしまうのを吹き払うように、ジークが口を開いた。
「エルフォスの連中がキュロのことをどう考えているのか知りたい。それから任命書の偽造が可能かどうか。任命書がどのように手渡され、誰が任命を知り得ているのか」
続く言葉はプロセルフィナに向けられていた。
「鎖はどこかでねじれているはずだ。一つ一つ調べていけば真実が明らかになる」
はい、と騎士たちとキュロが力強く頷いた。
プロセルフィナも頷いた。握り合わせた手の中で様々な思いが渦巻いていた。不正を暴き正義を貫くべきだという思いとすべてが明らかになったときの恐怖、まだ知らぬ真実が隠されているのではないかという不安、けれど企みを持った何者かによって運命を捻じ曲げられたジゼルやキュロのような人間がいることの怒りがないまぜになっている。どうしてこんなにはっきりとしない気持ちになるのだろうと思ったときだった。
「すべきことが決まったようだな」
深い笑みをたたえてルウは言った。
「アルガはこの件には介入しない。神法機関との関係もよろしくないしな。下手につつくと宗教戦争になりかねん。この話は聞かなかったことにする」
ジークは立ち上がり、右手を差し出した。
「すまない。ありがとう」
「謝るのはこちらの方だ。戦友の手助けをしてやりたいが、こちらはもう自由に遠駆けするのもままならん。できる限りの助力はするがあてにはするな」
ここにアルガの国民がいたなら神法機関を打ち倒さんとする者が現れたかもしれない。しかしルウがここだけの話としてこのことを秘するのは、遊牧の民から戦士に、そして一国の主となった者の知恵と覚悟が平穏の尊さを知っているからなのだろう。
見えない強い絆で結ばれた二人は微笑み合っている。
それを見ているとほっとした。自分もジークも二人きりで世界に取り残されているわけではない。アルもレギンもいる。ルウも手助けしてくれると言った。そしてキュロも手がかりをくれた。
(私は一人じゃない……私が自分を見失ったとき、きっと周りの人たちが私の名前を呼んでくれる。まずはそれを信じればいいんだわ)
「それで、キュロの身柄なんだが」
息を詰めていた当人が緊張の面持ちでぴんと背筋を伸ばした。
「本人の答えにもよるが、望むならヴァルヒルムに引き取りたい。いいか?」
「ああ、構わん。どうする、クルアーン?」
「あの、……わたしは……」
即答しないところをみるとどうやら迷いがあるらしい。てっきり自由になれることを喜ぶと思ったのにと、意外そうな顔をする男たちを制し、プロセルフィナは言った。
「ジーク、私たちが発つのはもう少し後よね? だったらよく考えて答えを出してもらいましょう。ここで過ごした月日が長いなら、お別れを言いたい人もいるでしょうし」
「まあそうだな」
ジークもルウもそれでいいと言うとキュロはほっとしたようだった。ルウは、今日一日は奴隷として扱わないこと、だが答えを出す間は以前と同じように働くことを命じ、彼女は承知した。むしろ安堵しているように見えた。突然見知らぬ場所に連れてこられて奴隷の扱いを受けた彼女は、激しい変化を好まないようになったのかもしれない。
退出を命じられたキュロは下がったが、ジークが追っていった。シェオルディアという声に応えられなかったプロセルフィナの事情を説明するためだ。
まだ子どもだったと彼女は語ったけれど、あんなに悲痛な声でシェオルディアを呼んでいたのに、返事をしてやることができなかった。同時にキュロが思い出の人の年齢を超えていることに時の隔たりを感じてしまう。本来ならば自分は彼女を甘えさせてやれる年齢だったはずなのだ。
これからもそんなことが続くのだろう。プロセルフィナにできるのは、望まないことにならないように心を強く持つことだった。
「アル。レギン。もし私の字がシェオルディアと同じものなら、そのシェオルディアだったジゼル王女のものと比べることはできないかしら?」
騎士たちは顔を見合わせた。
「公文書なら署名があるでしょうし、私的な手紙などがあるなら鑑定してみる価値はあるでしょうね」
「なら問い合わせ先はロイシアか。でもあの女王陛下、俺ちょっと苦手なんだよね。応じてくれるかなあ、今までシェオルディアが妹だったことを秘密にしていたんでしょ?」
ギシェーラ女王はやりきれない思いで妹を《死の庭》に送り出し、その悲嘆をなんとか押し込めてきたのだろう。そこへ七年も経ってからあの時と変わらない姿でプロセルフィナが現れたのだから、その驚きはすさまじかったはずだ。だから信じなかったのも無理はないし、もう妹は死んだのだと拒んでしまうのも仕方がない。こちらもジゼルであることを証明せよと言われても自信がないのだ。
「……そう、ね。きっと歓迎はされないでしょうね」
「でしょう? 君がジゼル王女だって証明されれば、王位継承権を主張してるって思われる可能性だってある」
「プロセルフィナがどうしたいのかで決めていいと思うがな」
石を放るようにルウが言う。深く座した彼はなんてことないように笑っていた。
「俺が言うのもなんだが、見ないふりをするという選択肢もある。シェオルディアの任命が正しくはなかろうともあなたはこの世に戻った。そして神法機関はそんなことを知らずに間違いなくまた護人を立てるだろう。もうそれはあなたには関わりのないことなのだから、知らないふりをして幸せに生きるという選択肢を選んでもいいのではないかな」
震えたのは本心が叫んだからだ。
このままヴァルヒルムに戻り、ノーヴス公爵の養女として、ジークハルトの妃になって生きる。彼を助け、少しでも彼の命が長く続くように歌う。そして子どもを産んで育てて母になる。彼を想いながら生きて一生を終える。
それは幸せで、どんなものと引き換えても望んでしまう美しい夢であり、口にすればジークが叶えてくれるであろう願いでもあった。
でもそれを望むのは。
「正しくあり続けるのは難しくて苦しい。いつまでもそうあろうとするならなおさらだ。すべてに誠実であることは不可能に近い。不幸になりたくなければ卑劣になるべきだとみんなわかっているからだ。犠牲の上に幸せがあることを、この世界の人間はずっと昔から知っている」
彼の目は言っていた。――それでもお前たちは苦しい道を行くのだな、と。
そうしてはっきりしなかった思いが一つの形を作る。
善に従うか卑怯者になるか問うたときに選ぶものは決まっている。何故なら自分の過去を殺したのが不正だったなら、今の自分を生かすのは正しさだからだ。
(私はみんなが自分らしく何者にも脅かされずに生きられることを願っているんだわ)
世界に捧げられることも、誰かに未来を奪われることも、剣に命を食われることもない、その人自身が自分の思いに従って生をまっとうすること――それが、私が自分に求める人生。私の願いなんだ。
部屋を出たはずのジークが、ナルグテイを引き連れて戻ってきた。彼らの張り詰めた表情に異変を悟ったルウが問いただす。
「何事だ」
「アレマリス諸島から巫女の使者と名乗る者が参りました。権王陛下とジークハルト殿下にお会いしたいと申しております。二人組の若者たちです」
「ムントとシグだ」
ジークが言ってプロセルフィナは立ち上がった。アレマ島の彼らがエルダからの使者として来たのなら、それは緊急事態にほかならない。
謁見の間までを歩きながらジークもルウも先ほどとはまったく別の顔をしていた。為政者としての顔だ。それに知人がここまで来たことに嫌な予感を抱いているのを隠している。
入室すると跪いていたふたりが顔を上げた。
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