9−2

 リティ・エルタナには、美しい者に侍る光と穢れが集う影がある。表に出られない者たちは汚れや垢を落とすことができないまま、一生影に隠れて暮らすことを宿命づけられるのだ。後宮という場所は特に顕著だった。寵愛を受けることができない妾妃は奴隷と同じ、生きながらにして存在を無にされるかのような屈辱を味わう。

 しかし肉体労働を主とする征服奴隷よりはましだと言えるかもしれない。征服奴隷は家畜のように扱われることもめずらしくない。この宮殿を建てたのも征服され奴隷の輪を首にはめられた一族だったという。そう思うと、クルアーンが見上げる美しいエルテナ像にすら怨念がこもっているように感じられた。

 けれどエルテナは純粋で悲しい眼差しでもって彼らを赦しているのだ。

「クルアーン」

 同じ奴隷のファスが重い水瓶を抱えてやってきた。クルアーンもファスと同じように仕える後宮の夫人のために風呂の水を運んでいる途中だった。

 アルガ王国の人々は綺麗好きだ。街には公衆の蒸し風呂があるが、高貴な人々は湯船にお湯を張ってじっくり浸かる。だからこうして後宮奴隷は水を運ばなければならないのだった。

「クルアーンっていつもエルテナ像を見てるわよね。あなたってそんなに信仰が強かったっけ?」

「そういうわけじゃないんだけど……」

 仕事の最中に通り抜ける廊下の広い場所に、世界を救う永遠の魂エルテナの像が置かれている場所がある。ここを通りかかるとクルアーンはいつも足を止めてしまう。その眼差しが大切だった人を思い出させるからだろう。

 それを外に対する憧憬だと思ったのだろうか、憤然とした口調でファスが言った。

「外って冥魔がうようよしてるんでしょう? 後宮にいて正解よ。外なんて怖くて歩けやしないわ。歩きたいとも思わないけど!」

 行きましょ、と水瓶を抱えなおしたファスに続き、クルアーンも廊下を早足に歩いた。

 途中、同じように主人から仕事を命じられた奴隷たちとすれ違う。だが彼女たちは三人目の妾妃になると目されているユスカ夫人の奴隷だった。化粧を施した顔にいやらしい微笑みを浮かべ、横柄に顎を上げて廊下の真ん中を突き進んでくる。私たちはお前たちとは違う、道を譲れ、というわけだった。

 クルアーンとファスは内心でむっとしながらも、よたよたと端に寄って彼女たちを立てるようにした。だが聞こえてきたのはくすくす笑いだ。

「なあにあれ。みすぼらしい」

「お風呂に入っても、豚は豚なのにねえ」

 なにを、と思ったがぐっと堪えた。水瓶を抱き潰さんばかりにしながら彼女たちが行き過ぎるのを待つ。

 そうして静かになると、廊下の真ん中に出たファスの目もまた怒りに燃えていた。

「なにあれ! 主人が馬鹿なら奴隷も馬鹿だわ。馬鹿につける薬はないっての!」

「仕方がないよ。そういう人って悪運が強いから。……ウィタル様はわたしを引き取った時点で運がないようなものだもの」

「……そうよね。自由民の子のあたしを引いた時点でも運がないわ。すっごくすっごくいい方なんだけどね……」

 後宮で生き残るためには運命を引き寄せる力が必要だった。それは自分ではどうにもならない力で、生まれながらにして備わっているものとも言えた。どんなに人徳があっても運がない人間は後宮では立場を持てない。悲しい現実だ。

 二人で肩を落としたが、とにかく運をつかむためには主人であるウィタルには美しくいてもらわねばならない。張り切って水瓶を運ぶとあっという間に風呂の準備が整った。

 後宮では格が上がると個室を与えられる。王のお手つきになるということだが、部屋が与えられた後一度もお呼びがかからず忘れられる女性もめずらしくない。ウィタルはそんな風にして二十歳を超えてしまった人だった。

 決して醜い人ではない。クルアーンよりもずっと美しいが、美しい女性ばかり集められている後宮ではありふれた顔立ちとも言えた。

 湯船に浸かりながら、ウィタルは両腕を水の上に掲げる形で本を読んでいた。滑らかな肌に水滴が滑り落ちるのはたいへん美しいのだが、クルアーンかファスが呆れたように注意するのが日常だった。

「ウィタル様。お身体が冷えます。本はほどほどになさってください」

「んー……」

 小言に返るのが生返事なのもいつものことだ。

 身体や髪を洗い、湯から上がると布で拭いて、髪を乾かして梳り、全身に香油を塗って服を着せかける。その間ウィタルは本を手放さない。そうして支度が終わろうかという段階ではらはらと涙をこぼし始める。ファスは天を仰いで呆れ、クルアーンが苦笑していると、最後に本を閉じて深く長いため息をついた。

「……素晴らしかったわ」

 噛みしめるように言ったかと思うとかっと目を見開く。

「緋剣の主が姫に心情を吐露するところはすごく泣けた! またこの姫が美しいのに剣術の達人っていうのがいいの! 勇ましくってけど女性らしいところもあって……!」

「それはようございましたね」

「クルアーン! また新しい物語を読ませてちょうだい。北国のお話はとても面白いわ」

 無邪気に笑いかけられクルアーンは笑顔になった。自分が聞き知っている物語を書き写して冊子にしたものが近頃のウィタルのお気に入りだった。

「そう思っていくつかご用意しています。すぐにお持ちしますね」

「うん、ありがとう! クルアーン、こちらの言葉が上手になったね。私もヴァルヒルム語が使えるようになったし嬉しいなあ。ねっ、ファス?」

 無邪気なウィタルは、王に見向きされるかどうか以前に自分の世界に耽ることが好きな人だった。人と接することが苦手というわけではないのにまったく欲がないのだ。この様子だとクルアーンが北方から売られてきた奴隷ということも忘れているのではないだろうか。本来ならばクルアーンはウィタルにかしずかなければならないのに、こうして近しい友人のように接してくれる。

 幸運はどうして平等に巡らないのだろう。さだめられたように妾妃になる人がいれば、運が巡って寵愛を受ける人がいる。自由民に生まれつく者、市民権を得られず放浪する者がいて、運命に選ばれて生贄になるエルテナのような人もいる。

 クルアーンもまた数奇な運命に弄ばれた一人と言えるかもしれない。何の因果か行き着いたのが、アルガ王国の王宮の深く、鉄格子の扉を何重にも超えたこの場所。ここから出るには権王の許しを得なければならないが宮殿の飾り物として置かれた女たちにそんなことは起こり得ない。だからここがクルアーンの終着地なのだ。

(運命ってなんだろう。誰が決めているんだろう)

「ね、ね。これを見て! これ、ヴァルヒルムのお姫様からのお手紙!」

 ウィタルが明るく言って手にしたのは白い封筒だった。

「少し前にヴァルヒルムのお姫様からってお菓子が配られたでしょう。そのお礼に手紙を書いたらお返事がきたの。ヴァルヒルム語が上手だって褒めてくださったわ。クルアーンのおかげよ。とても綺麗な字を書かれる方でね、クルアーンの字にちょっと似てる。ねえ見てみてちょうだい」

 便箋から甘い香気が立ち上った。クルアーンは目を細めた。この香り。ヴァルヒルムやロイシアで咲く水仙の花だ。水辺に咲くあの花が見えた気がして懐かしい。

 そうしてファスと文面を覗き込んだが、クルアーンの思考は停止した。

「挨拶と手紙のお礼、この国の好きなところ……親しみのこもった文面だわ。きっとお優しい方なんでしょうね。とても綺麗な字。ね、クルアーン。……クルアーン?」

 目が一ヶ所に吸い寄せられる。

「……これ……誰が……」

「ヴァルヒルムの姫様っておっしゃったじゃない。王太子殿下の婚約者っていう方」

 しっかりしてよとファスが肩を小突く。

 まるで自分が粉々になってしまったかのように思えた。ばらばらになった身体は小さな自分を再構成する。記憶が巻き戻って、クルアーンは十三歳の少女に戻っていた。

 今でも覚えている――窓辺の白さ。冷たい嵐の吹く外をふたりで眺めていた。姉のような親しみを覚えたその人と文字を繰っていた、短い旅。たくさんの物語を書き写し、詩を読んだあの冬。

「クルアーン!?」

 気づけば部屋を飛び出していた。

 暮れゆく太陽が宮殿を赤く染めていた。この国に馴染まないクルアーンの肌はこのときは一緒くたに赤い色を得る。薄い色の瞳には光が差した。まとわりつく熱気で息が切れて苦しい。嬉しいのか痛いのか、わからない。

 角を曲がった勢いで人にぶつかった。

「きゃあ!? ……何するのよあんたっ!」

 甲高い声で非難した奴隷はクルアーンにつかみかかられて悲鳴をあげた。

「あの人は……ヴァルヒルムの姫君はどこ!?」

「な……あ、あたしが知るもんですか!」

 彼女を突き飛ばして再び駆け出す。

 涙が滲んだ。

 本宮と後宮をつなぐたった一つの廊下に出たが、番兵と取次がいるそこは許可なしに超えることはできない。檻の唯一の出口、決して越えられない境目だ。

 ここに来たとき終わりだと思った。どこにも行けない、ここが果て、そう思って日々を過ごした。でも命を終えるときには先に行ってしまったあの人に会えると信じていた。

 ――特徴がありますよね……頭文字……花の絵みたい……。

 クルアーンという名は夜を意味する代わりの呼び名。本当の名は。

「お前、どこに行くつもりだ! 逃げることは許されんぞ!」

 番兵に突き飛ばされても食らいついた。門に向かって手を伸ばし、その先に行こうとする。だって向こう側にあの人がいる。

「その首輪、奴隷ではないか! 奴隷め、大人しくしろ!」

「お前は表に出ていい身分ではない! 縛り首になりたいか!」

 後宮を守る女性兵士たちはそう言ってクルアーンを押し返す。奴隷は後宮の人間の所有物であるがゆえに手出しできないのだ。だがついにその我慢が限界にきたらしい。振りかざされた拳と蹴りを受けて咳き込み、涙を流しながら叫んだ。

「……、ディア…………シェオルディア――――……!!」

 番兵は抜き放った剣を大きく掲げた。

 風紀を乱す者は処罰される。クルアーンが青ざめてぎゅっと目をつぶったときだった。

「待って!」

 澄んだ声が割って入る。

 白い廊下を、金の髪の女性が息を切らせて駆けてくる。

「待って! お願い、その人と話をさせてください!」

 兵士たちは不満そうな顔をした。

「ヴァルヒルムの姫君。ですがこの者は」

「権王陛下にこの方とお話しする許可をいただけるようお願いしてください。それから、ジークハルト殿下を呼んできてほしいのです」

 そして彼女は扉を開けるように頼んだが、そればかりは兵士たちも頑なに拒んだ。仕方がないという顔をして彼女はそこに跪き、伏したクルアーンに言った。

「『シェオルディア』。あなたがそう叫んだのが聞こえたわ」

 クルアーンは頷いた。その拍子に涙がこぼれた。

 金と銀を混ぜた光のような金の髪。白い指先。たおやかな仕草から滲む優しさ。この人だ。間違いない。

 なのに彼女は不安げな表情をしてぽつりと呟いた。

「あなたは私を知っているのね……?」

「プロセルフィナ! どうした、何があった!?」

 彼女と思しき名を呼びながら男性が駆けてくる。豪奢な装いをしているが、あの赤い髪と険しい眼差しをクルアーンはよく知っていた。

「アイデス様!?」

 全員が驚いて自分を見た。

 アイデスは歩みを緩めた。不審そうにこちらを見下ろし、はたと息を詰まらせた。

「お前……」

「覚えていらっしゃいませんか! 七年前、祈りの旅路に同行した私のことを!」

 その旅路でクルアーンが出会ったのは、優しく悲しいシェオルディアと、ロイシア王国のレスボス公爵たち、そして途中から同行することになった不思議な剣を携えた赤い髪のアイデスたちだった。

「キュロ……シェオルディアの世話係だった、司見習いのキュロか?」

 アイデスが呆然と告げた。クルアーン――キュロは一生懸命に格子の向こうに伸ばした指先は、プロセルフィナと呼ばれた女性にようやく届いた。

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