第6章 あなたのものになりたい

6−1

 目を覚ましたプロセルフィナは支度を整えて庭に出た。

 王宮内の片隅、王侯貴族が滞在する庭付きの部屋だ。まだ日は高い場所にはなく、かすかに付き従う者たちが働いている音が聞こえているが、近くに人影はない。夜明けまで続いた宴のせいでまだみんな眠っているはずだ。

 ほ、と吐いた息は白くならなかった。今の時期ロストフでは雨の日の早朝や山中では息が白くなるから、王都は暖かいということなのだろう。

 ヴァルヒルム王都サンクティア。聖なる都という名の北国最大の都市。南に向かって幾筋も伸びた街道がこの街の商業を支えている。都市内部の道は石で舗装され、ぐるりと壁と堀が囲む。この街がヴァルヒルム王国以外の国のものになったものはなく最も堅牢で安全な街と呼ばれているのは、歴代の王が常にまします王宮があることと、冥魔に襲われたことが一度もないからだということを、プロセルフィナは学んでいた。

 夜明けを迎えて。

 ジークと再開したプロセルフィナだったが、彼が女官に風呂と着替えを命じたところで公爵がやってきたので、そのまま別れてしまっていた。だがそのまま話し込むのは難しかっただろう。彼はしなければならないことがたくさんあったのだろうし、プロセルフィナはプロセルフィナでいったい誰だと疑わしげな人々に愛想よくするのに忙しかった。

 朝食は軽く果物だけを摂った。公爵はお茶だけだ。

「あまり寝ていないだろう。休んでいいぞ」

「疲れているはずなんですが、妙に目が冴えて眠れなくなってしまって。やっと王宮に来たんだと思うと、胸がいっぱいになってしまったみたいです」

 公爵は微笑んだ。心配することはないとでも言いたげだった。

「魔法の夜の宴に現れた乙女……歌うお前に気づいたとき、私にも鳥肌が立ったし多くの者がそうだっただろう」

 曖昧に微笑み返してふと気づく。ジークもそうだったということだろうか。再会したときの目が覚めたときのようなまばたきを思い出し、もしそうなら、と勇気が湧いた。

「午後になったらジークがこの部屋の前を『たまたま』通りかかる手筈になっている。そこで殿下は昨夜の美しい乙女と再会する、という脚本だ」

 面会の時間を作って話をすることも不可能ではないが、『意図的な偶然』を演出する方が基本だと以前公爵に説かれた。比喩、見立て、含意。そういった回りくどいものを重んじるのが王宮であり、王侯貴族といった人々だと言いながら、馬鹿馬鹿しいがなと言い添えるのがこの人らしいと思ったものだ。

 だがそれが必要なことだというのなら、演技でもなんでもやってみせよう。プロセルフィナが公爵から学んだのは、堂々と胸を張り笑うことだ。

「どういう渾名がつけられるか楽しみだな。『妖精の女王』か、はたまた『魔女』か……それとも遊び心のない『お部屋様』かな」

 優雅で愉しげな笑みはその数刻後、崩れることになる。


 ぱぁん! と叩きつけられた白磁の手がみるみる赤く染まっていく。反対に瞳は刃のように鋭く冷たくなっていた。傍らで聞いていたプロセルフィナが息を飲んで冷や汗を掻くほど公爵の怒りは激しかったが、ジークは静かにそれを受け止めていた。

「寝言を言うのも大概にしてもらおう」

「至って正気です。……プロセルフィナを愛妾に迎えるつもりはありません」

 息苦しいほどの怒りが部屋に満ちる。

「ここまで来てどういうつもりだ。お前はフィンを求めていたのではなかったのか」

「どういうつもりも何も、最初からそう決めていました。仰る通り、彼女は俺に必要な存在です。ですがそのためだけに縛り付けておくつもりはありません」

「……恋人でも愛人でも妾でも側室でも、もちろん正妃にも迎えんと?」

「はい」

 がっと鋭い音がして机が傾いた。重い木製の机は一本足ゆえに傾いだものの、ひっくり返るには至らなかった。ドレスから伸ばした右足で机を蹴り飛ばした公爵は、じりじりと燃えたぎる声で尋ねる。

「では何故フィンを呼んだ。お前は自らが生き残るために力を尽くそうとするこの娘に何も与えず、利用するだけというのか」

「エカテリナ様、私は、」

「この子は何も望まない。お前の力になりたいとだけ思ってここまで来たのだぞ。その子に見返りを与えないとお前は言う。責任を取るのが筋だろうが!」

 口を挟む隙もなく公爵はジークを詰った。取りざたされているプロセルフィナ自身が小さくなってしまうのに、ジークは感情を乱さない。怯まず、逸らされない瞳に彼の固い決意が見える。

「だからこそ一生捕らえておくつもりはないのです」

 すうっと感情の炎の色が変わった瞬間、プロセルフィナは叫んだ。

「エカテリナ様! ジークの言うことには私も承知しています。地位は望みません、ここにいられるだけでいいんです!」

「お前たちはそれでいいかもしれない。だが周囲は何と言うか。お前たちは互いに清い関係でいるという自己満足を得られるだろうが、事実はどうあれプロセルフィナは王子のお手つきだと思われないわけがない。それがプロセルフィナの未来を閉ざし踏みにじる結果を呼ぶかもしれんのだぞ!」

 公爵は苛立ったように何度も机を叩き続けていた。まるでジークを殴れない代わりのように、しゃべっている間ずっとだ。ノーヴス公爵の言いようがあけすけに聞こえてプロセルフィナは咄嗟に言い返せなかったが、ジークは深く頷いた。

「承知の上です。そのことについては対策を考えています」

「……痴れ者が」

 吐き捨てて公爵は席を立った。そのまま部屋に戻っていってしまう。部屋主の公爵が消えてしまってはジークも長々と滞在できず、立ち上がった。

「悪い」

「いいえ。エカテリナ様はご存知なかっただろうけれど、私はきっとそうなるだろうと思っていたから大丈夫よ」

 別れ際の謝罪を微笑みで突き返す。

「忘れられない人がいるんでしょう?」

 ジークは後ろめたい思いを隠そうとしたのか顎を引く。

 プロセルフィナは身につけていた肩掛けを撫でた。それは彼に貰ったものではないが、あれの持ち主が彼にとって大きな意味を持つ人なのだろうというのは、あの時のことを思い出すうちに気づくことができた。

「後ろめたく思う必要はないわ。あなたには私が必要で、私はあなたに力を貸すと決めたもの。他の人が何を言おうと、私の一生まで負う必要はないと思う。私はここで私のしたいことを探すの。それでいいでしょう?」

 それに、と目を伏せる。ここから先は誰にも明かしていない。眩く華やかな公爵にはとても言えない本心だ。

「無欲なわけじゃないの。私はあなたに縋ってる。私を必要としてくれるのはあなただけだから。そのおかげで自分は意味のある人間だと思えるんだもの。だって私は……過去の私は……」

 必要とされなかったから何もかもを捨て去ったにちがいないのだから。

「フィン!」と公爵の呼ぶ声がした。どうやら怒りはまだ収まらないらしい。ジークと話しているのが腹立たしいようだ。女官が呼びに来たが、彼女はジークを見た途端びくりと全身を強張らせた。思わずジークを見たが、彼は皮肉げに笑っている。プロセルフィナは気づかなかったふりをした。

「お前だけじゃない。俺だってお前に……」

「え?」

 ジークは首を振った。聞き取れなかった言葉は教えてくれない。

「また来る。公には、明日も予定通りにと伝えておいてくれ」

 そう言って立ち去ってしまったのだった。


 翌日、プロセルフィナは公爵と庭を歩きながら、約束した人物の訪れを待っていた。

 王宮の庭園は、東の様式を取り入れて整然としている。中央の道で線引きするように左右対称に作られているのだ。濃い緑の木々と青々とした芝生が広がり、艶やかな花々が咲き誇っている。短い夏に最も美しく輝く緑の園だ。

 だがここも王宮の一部であり、茂みの陰や道から外れた木陰は男女問わず逢瀬や密会に使用される。プロセルフィナが日よけの傘を上げると、噂話に興じる女性たちが見えた。視界に入る縁台に座っている女性たちも同じく。

 目的のその人は午後の早い時間帯に必ず庭を散策するのだという。そこでその人が公爵を見つけ、声をかけてくる。その時にプロセルフィナが紹介される予定だ。

 だがその前に他の女性たちに捕まってしまいそうだった。夏至の夜の会で、王子に連れられて消えた娘。翌日その王子が部屋を訪れたという娘。どうやらジークハルト殿下は公爵の養女だというその娘に好意を抱かれた様子……というような噂がすでに広まっているのだろう。王宮に滞在していて感じるのは、プロセルフィナがどういう素性の娘なのかということを確かめたがっている雰囲気だった。傍にノーヴス公爵がいなければすぐに誰かが声をかけてきただろう。

 常日頃から声をかけづらい人ではあるのだが、今は全身にみなぎる怒りが、隣にいるプロセルフィナをも竦ませる。

「エカテリナ様……」

「なんだ?」と公爵は微笑を向けた。怒っているがそれはお前に対してではない、という態度に安堵と複雑な気持ちを覚える。

 言いたいことは様々あるのだが逆効果になりそうで口ごもった。ジークを庇えば火に油を注ぐ。自分はわかっている、何も望まないと説明しても「私は納得しない。あの馬鹿が考えを変えるまでは居座る」と宣言された。公爵が近くにいてくれるのは心強いが、これでは迂闊にジークに伝言を頼むこともできない。

 夏至の夜に歌ったとはいえ、剣の放つ唸りはかすかに聞こえている。

(でも日中にジークの部屋に行くわけにはいかないし、ましてや夜なんて絶対だめ。どうすればいいだろう……)

「フィン?」

 公爵が問い返すので慌てて言葉を探す。

「いえ、あの……これからお会いするシェーラザード様はどんな方ですか? 異国の方だとお聞きしましたけれど」

 プロセルフィナとそう変わらない若い女性だと聞いている。その苦労を慮っていると公爵の言葉にはその懸念が正しいという肯定が含まれていた。

「気さくな方だよ。その人柄と出自ゆえに顔が利くし頭がいい。大商人の娘だそうだ」

「それではきっと異国のことをたくさんご存知なんでしょうね。どんな方なのか楽しみです。どんなお話が聞けるでしょうか」

「誰か、捕まえて!」

 叫び声があがった。

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