6−2
必死な顔で走ってくる女性は、着ているものから見るに王宮の女官だろう。彼女がやってきた道なりには何人かがへたりこんでいる。彼女たちが追いかけているのは……。
「……猫?」
首に鈴を結わえた猫が駆け抜けていく。裾をもつれさせ髪を振り乱して半泣きになる彼女たちを笑うかのように、立ち止まって尾を揺らし、再び走り出した。すばしっこく足元を駆け抜けられ、見物していたはずの女性たちも悲鳴をあげる。
「誰か! あれは王妃様の猫なのよ!」
泣き声で叫ぶ人間たちなど意に介さず、猫は茂みに突っ込んで消えてしまった。
プロセルフィナは日傘を畳んだ。
「フィン」
「あの猫がいなければ予定が狂ってしまうのではありませんか? これから『偶然お会いする』のはその王妃様なんですから」
「だからといってお前が裾を汚して猫を探す必要はないだろうに」
「単純に好奇心です。庭を探検してみたくって」
猫を探すことを言い訳に庭園の隠された場所を見て回り、運良く猫が見つかれば王妃と親しく出来るのではないか、という打算だ。公爵は呆れたため息をついて腕を組んだ。
「適当に切り上げろ。日が暮れる頃に戻ってくるなんてもってのほかだぞ」
「承知しました。では行ってまいります」
ずいぶん走り回させられたらしい女官たちは可哀想なくらいへばっている。プロセルフィナは小走りにに近づいて、猫の名前を聞き出した。大変でしょうと同情の言葉は、彼女たちを見ていれば自然と出てきた。王妃の猫を逃がしてしまったと知られたら罰を受けるかもしれないと心底不安がっていた。
「猫はアランというのね。私も探すのをお手伝いします」
「そんな。姫様のお手を煩わすわけには」
名前を知らない娘、だがここで初めて見るということは恐らく噂の渦中の、と考えている彼女たちを笑顔でいなし、プロセルフィナは猫が消えた茂みの方へ歩き出した。アレマ島で毎日のように突っ切っていたから、こうしたところは慣れている。
「きゃ!」
「まあ、申し訳ありません。失礼いたしました。不躾で恐れ入りますが、猫をご覧になりませんでしたか?」
たまたま茂みの陰で涼んでいた女性たち三人の前に出てしまって詫びる。あっちに行ったと言われて礼を言って立ち去った。
「あの方はどちらの……? 初めて見る顔ですわ」
「あの『死狂いの王子』の……」
「しっ。その呼び名、王子に聞かれたらどうするの!」
人の声が遠ざかるほどに濃くなる緑に触れると、身体の中が洗われるような気がした。だが奥まったところも庭師によって整えられていて、野薔薇の棘まで除かれてあった。この庭の植物はそれを愛でる人々とよく似ている。顎を逸らして誇らしげにしているような澄まし顔だ。美しいし嫌いではないのだが、こうはなれないということを考えてしまう。
「アラン? アラン、どこに行ったの?」
驚かすことのないようゆっくり歩きながら呼びかける。
やがてゆるく道が下り始め、東屋の屋根が見えてきた。
(なるほど、ここを突っ切ると西翼の奥に出るのね)
庭の様子も違っている。先ほどまでいた東翼は貴族たちが談笑するのにふさわしい、薔薇の花や鬱金香の咲き乱れる一画などがある華やかな場所だったが、西側の奥まったこの場所は同じような花があっても、軍隊や聖職者のように統制された咲き方はしていない。適当に種を蒔き、球根を植え、強いものだけが残りながらもぎすぎすした様子はなく、花々は自由な生を謳歌している。紫丁花、躑躅、苔桃。甘い、けれどきつすぎない芳しい花木は、誰かの夢みる小さな世界のように優しい。
蔓薔薇の絡みついた飾り門を抜けると、東屋にたどり着く。そこに人がいた。
「……あら」
黒々としたすぐりの実のような瞳を瞬かせている。髪も同じ色、肌は少し浅黒い。プロセルフィナが知っているアレマ島の人々とはまた異なった、金色の粉をふく肌の色だ。
「どうしたの、迷い子?」
異国的で艶やかでありながら少女めいた容貌の美しい女性は、立ち尽くすプロセルフィナに優しい声で問いかけた。風が吹き、彼女が机に広げていた本がはらりと頁をめくる。ついそれを目で追ってしまっていたが、はっと我に返った。
「申し訳ありません、こちらに猫が来ませんでしたか?」
「猫?」
繰り返す彼女こそ猫のような大きな目をしている。はい、と答えようとしたプロセルフィナだったが、足元にさわりと何かが触れて飛び上がった。
にあー、と可愛らしく鳴いて身体を擦り付けるのは、その猫だった。
「アラン?」
声が重なった。
プロセルフィナが抱き上げた猫を、小走りに近づいてきた女性が受け取った。その顔には苦笑ともつかない呆れが浮かんでいる。
「またあの子たちをからかって遊んだのね? 後で嫌味を言われるのはわたしなんだよ」
目を細め、アランは大欠伸する。彼女はやれやれと肩をすくめながら、慣れた手つきで猫を腕に抱いた。
「ごめんなさい、この子を探していてくれたんだね。ありがとう。とんだいたずらっ子なんだ。女官たちを困らせるのが大好きなの」
プロセルフィナは女性を見つめ、猫を見つめ、これまでの言動を思い返して恐る恐る問いかけた。
「失礼ですが……シェーラザード王妃陛下でいらっしゃいますか?」
「はい。わたしがシェーラザードです」
蒼白になって膝を折った。
「存じ上げなかったとはいえ、大変失礼をいたしました!」
猫を通じて親しくなれればと画策しておきながら、予想外の展開に直面して膝が震えてしまう。プロセルフィナの怯えを見て取って、シェーラザードはため息をついた。
「知らないんだろうなと思ったわ。ああいう風に声をかけてくる人なんて、この城にはいないもん。見ない顔だけど、もしかしてノーヴス公爵様がお連れになる方ってあなたのことだったのかな?」
立って立って、と促され、頭を垂れながら名乗る。
「プロセルフィナ・ノーヴスと申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「シェーラザード・ユーノ・ヴァルヒルムです。もっと仰々しいちゃんとした挨拶をする予定だったんだろうけれど、せっかくここで会ったんだから省略してしまいましょう。わたしの話し相手にしてほしいということだもの、仰々しすぎるよりはいいと思うから」
柔らかく、だが強い意志を持って話すこの人はジークと同じくらいか、もしかしたら年下かもしれない。ドレスの襟ぐりから見える肌は若くて瑞々しい。
王妃とつながりを持つことになったのは、ジークが王太子といえどもただの公爵の養女を王宮に置くことは簡単ではないということからだ。王宮を掌握するのは王族の務め、ならば王妃の保護下に入れば危険は軽減されるだろうとジークと公爵は考えたのだった。そしてジークがプロセルフィナを愛妾にするつもりがない今、王妃の話し相手がプロセルフィナの王宮での役目や立場となるものでもある。
プロセルフィナも、ジークのそばにいるからには彼の両親である国王夫妻に認められなければならないと考えていたから、シェーラザードに対する態度はいつも以上に慎重になる必要があった。ジークの実母が亡くなった後に王妃となった人であっても、今は彼女が宮廷を掌握しているのだ。
「プロセルフィナは、ジークハルト殿下とはどういう関係なの?」
「はい。…………ええと……」
返事をしたものの適切な表現が出てこない。
友人、というような関係ではないし、知人という呼び方ほど遠くもない。恋人、将来を誓い合った仲でもない。アルとレギンのように主従関係にもない。だとすればどうしてここに来たのかということになる。
自分の足元がとても不安定だと気づかされる。プロセルフィナがそうであるなら、ジークも同じであるはずだった。
(恋人だと嘘をつくことは簡単だわ。でも嘘はつきたくない……)
彼にはまだ想う人がいる。忘れられない人が。その気持ちを蔑ろにしたくない。
どうしようと俯いたままでいると、くすりと笑われた。
「そんなに困らないで。意地悪したみたいになっちゃうじゃない。でも、殿下が無理をおっしゃったわけではないわよね? あなたの意志を無視するようなことをしてここに連れてきたとか」
「違います! それは絶対にないです!」
叫んでから高貴な人に対する振る舞いではないと気づき、頭を下げた。
「申し訳ありません。失礼な物言いをしてしまいました……」
「くだけた話し方の方ががわたしは好きよ。この後の予定では、わたしがあなたをお茶に誘うことになっていたわよね? 続きはそこで聞かせてちょうだい」
シェーラザードは本と猫を手に、プロセルフィナを連れて王宮に戻った。王妃と猫を認めた途端、女官たちから泣き声に近い歓声がが上がる。シェーラザードは彼女たちがアランを逃したことに文句ひとつ言わなかったが、女官たちは「困ります」「もう飽きたと言ってください」というようなことを遠回しに言っていた。
その間に知らせが行き、ノーヴス公爵が現れた。シェーラザードは公爵に対して深々と礼をしたが、当の公爵は苦笑している。
「妃陛下、そのようにかしこまらないでください。膝を折るべきは私の方です」
「わたしはたまたま王妃の冠をいただいただけで、公爵様の方こそ由緒正しい貴族でいらっしゃいますから」
そう言ってシェーラザードは上座を譲ろうとする。公爵がそれを固辞して次席に着いても、公爵が座らなければ着席しなかった。
「いつの間に出会っていたんだ?」
「猫がつないだ縁です」
「陛下がくださった猫なんです。でも元気すぎて困っています」
アランはおやつの小魚を咥えて顔を上げた。シェーラザードが笑いかけると何事もなかったかのように食事を再開し、ぺろりとたいらげた後は部屋を自由に歩き回っている。
そんな風にしてお茶会が始まった。どちらかというとシェーラザードは聞き手に回る方が多いようだ。話を引き出すのが抜群に上手い。
「そういう詩があるんですね! そういえば南国で、粘土の板に詩を記したものを見たことがあります。今は壁を作って守っていますけれど、巨大な石碑が砂漠にそびえ立っている光景はとても荘厳なんです」
「魔術大帝アーヴィクイドの叙事詩か」
「妃陛下は砂漠にいらしたことがあるのですか?」
プロセルフィナが尋ねると、彼女の目は生き生きと輝き始めた。
「ええ、父が商人だったから子どもの頃から旅暮らしだったの。物心ついた頃には西にいたわ。グランジアから南下して、南方国で暮らしていた時もあった。フランやアルール、ロイシア、そしてヴァルヒルム、いろんな国に行ったな。グランジアの巨大神殿、神々が住むと言われる険しい山々、フランの薔薇宮殿、水路が張り巡らされたアルールの街、リュディアとエディアの境界壁……もちろんアルガの叙事詩石碑群も見た」
書物でしか知らないようなものを挙げて、懐かしそうに言う。
砂礫を踏みしめ見上げた巨大柱の神殿と空、白雲に覆われた神峰の空気、薔薇の花香る典雅な城、船が行き交い、鳥が羽ばたく水の都市、人々の嘆きを吸う悲しい壁、砂が風となって吹き付ける渇いた大地の巨石群。白い雲、霧の冷たさ、雨の重さ。雪の強さ。風の匂い。砂を踏む感触。咲く花の種類。人の姿――プロセルフィナは想像力をたくましくしてそれらを想像し、ため息をついた。
「なんて豊かな経験なんでしょう。うらやましいです」
「ではヴァルヒルムで見たものを挙げるなら何になさいますか?」
「そうですねえ……。サンクティアの赤い宮殿は他にはないものだし、ロストフ平原の雄大さも驚かれると思います。王都にある美術館や博物館もめずらしいでしょうし」
「失礼いたします、王妃様。フレイ陛下とジークハルト殿下がお渡りになられました」
女官が告げ、プロセルフィナとノーヴス公爵は起立した。しばらくして侍従が現れ王妃に来訪の辞を述べると、その後ろからジークと精悍な男性が現れた。黒に近い赤い髪、顎鬚を生やして、威風堂々とした覇気が滲み出ている。ヴァルヒルム国王フレイ。ジークの実の父親だ。こうしてふたりが並ぶと髪や目の色以外共通したところがないように思えるので、ジークはきっと実母に似たのだろう。
「邪魔するよ、シェーラ。めずらしいお客が来ていると聞いてね」
「はい、陛下。ノーヴス公爵様とご息女のプロセルフィナ様をお招きしていました」
プロセルフィナは膝を屈めて礼をするが、公爵は唇を歪めて素っ気なく「やあ」とだけ言った。だが国王は不敬だと怒りはせず、同じように「やあ」と気安く返す。
「私も同席していいだろうか。今日はめずらしくジークハルトも一緒でね」
もちろんすべて予定に入っていることなので異を唱える者はいない。そうして女官も侍従もすべて下がらせてしまうと、部屋には五人だけになった。
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