終章2
ジークが目覚めたとき、そこはアレマ島のヴェルの診療所だったそうだ。エルダはすでに他界しており、見習い巫女だった少女がエルダと呼ばれるようになっていたという。自分が《死の庭》の封印を施してから二年が経ったことを知り、その間の知識の遅れを埋め、ゼップの船に乗ってヴァルヒルムに帰ってきたのだった。
久しぶりにジークを部屋に招き入れると、まるで初めて訪れるかのように物珍しげに室内を見回している。無事だったならすぐに連絡しろと実父や義理の母や、幼馴染みの騎士たちにさんざん責められたそうなので、プロセルフィナはもう言わないことにしていた。
「さて何から話すか……まずは伝言だな」
「伝言? 誰から?」
「顔貌は覚えていないが女だった。……《死の庭》で剣を使った後、俺は何もない闇の世界にいた。どこに行けばいいのかわからないでいると突然その女が現れて、あちらに行けと導いてくれたんだ。やっと光の見えるところまで来たらここでお別れだと言って、お前に伝えて欲しいと言われた」
伝えるジークもよくわからないようで首をひねっている。
「『恋の歌が好きよ』」
プロセルフィナはきょとんとした。
「……それが伝言?」
「いや、続きがある。『あなたの歌が大好き。歌ってくれてありがとう』」
息を詰めた。ジークのために歌ってきたけれど、もし誰かのために歌うなら、それは。
ジークも心当たりがあるらしい。ゆっくりと頷いたのを見てこみ上げるものがあった。
「そう……そうなのね。私の歌を好きでいてくれたのね」
どうして真の《死の庭》の護人というのかわかった。〈彼女〉が宿っていたからだ。
〈彼女〉――《冥剣》はもうジークのそばにはない。封印となって《死の庭》を閉じ、どこかへ消えてしまった。きっともう二度と会うことはないだろうけれど、〈彼女〉がここではない美しく穏やかな場所で、なにものにも侵されない安らかな時間を過ごしていることを祈った。
「私も話したいことがあるの」
隣室へ行って持ってきた肩掛けを見て、ジークは苦笑した。
「まだ持っていたのか」
プロセルフィナは黙ってジークの身体にそれをふわりと巻きつけた。
見つめ合う。何もしなくとも微笑みが浮かぶ。照れもある。嬉しい気持ちも。言いようのないもどかしさも。すべてはやはりひとつの言葉にしかならない。
「愛しているわ」
プロセルフィナは言った。
「あなたをひとりにはしない。運命をともにするわ。……もうきっとあなたは覚えていないだろうけれど」
ジークは何かを手繰るようにして自身に触れる布を撫でた。何度も確かめるようにして手のひらでなぞる。そして、ちがう、と小さな声で言った。
そう、ちがう。
これはプロセルフィナが彼からもらったものではない。
フレイたちが彼の私物を整理させようとしたとき、立会いを求められたプロセルフィナが見つけたもの。それを見て思い出した。
あのときも、私は、あなたをひとりにしたくないのだと思ったこと。
――深い夜、死の風が吹く森。お互いの顔も見えない闇の中で名前も交わさずに出会って別れた。名前を告げられない旅路を経て。一度死に、戻ってきてあなたに名前をもらった。
「お前は……」
ジークの声は震えていた。目が真っ赤になっている。
「お前は、誰だ?」
手を伸ばす。触れて、抱きしめる。
思えば最初から自分は彼を夢に見ていたのだろう。深い闇、魔法の剣、赤紫色の雷。自分が死ぬ不吉な予兆。自分を抱く彼の強さと確かさに支えられて、恐怖や不安、時には痛みを伴うその夢をようやく乗り越えることができたのだ。
笑った頬に雫が流れた。
「私はプロセルフィナ。でもジゼルと呼ばれていたこともあったの」
*
聖堂の扉が開かれると同時に鐘が鳴り響き、高いところから花びらが撒き散らされ、プロセルフィナの身にまとう婚礼衣装を彩った。姿を現した王太子夫妻を祝福する人々の声が波のように押し寄せ、その歓喜が自分に向けられているということが嘘のように思えた。だが頭上に頂いた華奢な宝冠は、プロセルフィナがヴァルヒルム王太子ジークハルトの妃になったことを示している。
「手を振ってやれ」
ジークの囁きに従って手を振ると、ますます声は大きくなった。小さな子どもたちからお年寄りまで目を輝かせているのが嬉しくて、一人一人に手を振ってしまいたくなる。
(必要とされないことに怯えなくてもいい。いつか出会う人を待てばいいから。もし見つからないときには、ゆっくり周囲を見回して、関わり方を変えてみればいい。けれど一人でいることもまた、人生に大きな意味を持つ大事な時間なのだ)
「どうした?」
プロセルフィナの視線に気づいてジークが問いかける。声はいつになく優しく温かい。
「忘れないでいようと思って」
幸せな時間を過ごす今、過去の痛みや別れた人たち、未だ癒えぬ憎しみや消えない愛はあるけれど、自分の一部であるということを忘れてはならない。鏡を見て確かめるように、自分の中に始まりも終わりもあるのだということを覚えていなければならないのだ。
(――それでも、私は私)
溢れたものを口ずさむ。心のままに広がるそれは、ヴァルヒルムの流行歌である恋歌だった。人々の耳に届いた歌は、多くの声で唱和されていく。
出会いの意味を知って
鼓動はまだ鳴り止まない
無数の言葉を重ねていった
刹那でさえ光に変わる
聞こえない 聞こえない
歌っていて
愛を
歌い続けて……
繰り返される歌の中で、プロセルフィナは言った。
「これからもあなたのために歌うわ。聞いてくれる?」
もちろんだとジークは頷いた。
「歌ってくれ。俺のために。――俺と生きるために」
望んだ東の空に雲はない。
――《死の庭》の乙女はこれより二度と選び出されることはなかった。
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