8−3

 旅の汚れを落とし、正式な夜会服をまとうとジークが迎えに来た。日が落ちるとあっという間に暗くなったが灯火の数は眩いほどだ。宴の間はきっと華やかなことだろう。宮殿にいる人の数もかなり増えていた。

「ここでは夜は宴会と決まっている。外国の客を迎えるとなると、一族総出でもてなすんだ。この国は昔から政務は親族間で行われがちだから、宮殿にいるのは皆同じ一族だと考えるといい。一族っていうのは家族として受け入れたものとその親類縁者という考え方をするから、その数は膨大になる」

「この時は女性もいるの?」

「ああ。言い方は悪いが、こういったところでは所有物として見せびらかせるために置かれる。男たちとは少し離れたところで飲み食いをするんだ。気をつけろよ」

「何を?」

 同性同士なら話ができるだろうかと考えていたのに呆れた顔をされる。

「表に出られない女たちの楽しみは噂話だ。例の悪魔のことは彼女たちも知っている」

「ああそのことね。大丈夫だと思うわ。私に危害を加えようとする人はこのお城で生きていけないはずよ。みんな女の人たちを馬鹿にしすぎだと思うわ。閉じ込められているっていうなら、なおさらルウ陛下のご機嫌をとるようにするでしょう」

 少なくとも自分はそうするだろう。はっきりとした立場が持てなかったヴァルヒルム王宮で、それでもジークに近しいことが自分を生かしたように、立場の弱い者は弱いなりに生き方を考えるものだ。

 ふとジークが手を伸ばした。化粧をした頬に触れたかと思うと、その手は首の後ろへ回り、プロセルフィナを抱き寄せる。

「……心配なんだ」

 ジークは風の匂いがする。ヴァルヒルムでは短い真夏の、北へ過ぎ去っていく風のにおいだ。腕の中にいるとどきどきして、嬉しい気持ちと怖い気持ちがめまぐるしく光る。

「ジーク……」

 震える息をこぼし、勇気を振り絞って言った。

「…………ここは外国のお城の、廊下のど真ん中よ?」

 救いを見出したかのように案内役の侍従が咳払いした。

 ジークが目を向けると何も見ていないし聞いていないという態度を貫く侍従だが、プロセルフィナは彼が先ほどから一生懸命目を逸らそうと努力していたことを知っている。

 深いため息をついたジークはプロセルフィナを離し、紳士らしく淑女が掴まるための腕を出した。それにつかまりながら、そっと囁く。

「……気持ちは同じなんだけれど、ね」

 役目もなく、場所も関係なく、ずっと抱きしめていてほしいし口付けてほしい。しかしここはヴァルヒルムではないし自室でもない。人目をはばかるべきだが見交わした目に重なる思いを感じて、笑い合った。

 宴の間に現れたのは自分たちが最後だったらしい。椅子に床にと埋め尽くすほど集まった人々が、国王に習って一斉に立ち上がる。その視線が突き刺さって一瞬足が震えた。

 プロセルフィナはこの国の女性とは違い、結える長さの髪を持たず、布を被らずに顔を晒している。否応無しに注目を浴び、無遠慮に眺められるとまるで罪を犯したかのような気持ちになった。だがここで背を丸めてはジークの恥になるのだ。

 意識的に胸を張り、微笑みを貼り付けてルウの前に膝を折って挨拶をした。そうして席に着くと、ルウの宣言で宴が始まった。

 見慣れない笛と弦楽器による、南の国のゆったりした音楽が奏でられ、衣擦れの音をさせて酌をする奴隷たちがあちらこちらとひらひら舞う。男たちが賑やかに話し、料理の皿も行き来し始めた。プロセルフィナの周りは王族と重心で固められているせいか比較的静かだったが、入り口近くからは賑やかな笑い声が聞こえている。一方で、薄布の向こうにいる女性たちは気配を殺すようにして静かだ。

 料理はどれもかなりの香辛料と果物を使っているらしい。こってりとした甘みがあるがぴりりとした辛味と塩気がそれを引き締めている。肉料理が多いのはジークを招いた席だからかもしれない。羊、豚、鶏。なんだろうと思ったら兎肉と説明された。芸術めいた繊細さはなく大皿に山盛りだったが、香ばしい匂いにつられてつい手が伸びた。ヴァルヒルムの宮廷料理が公式の晩餐で味わうにはちょっと疲れる代物でもあったせいだろう。

 プロセルフィナの酒杯はジークが注いでいたが、その当人はというとひっきりなしに挨拶にやってくる人々から酒を受けては飲み干すことを繰り返している。その間にもこちらの飲み物に気を配っているので、思わず言った。

「ジーク、一人で飲んで食べているから、気にしないで」

「ここで害が及ぶとしたら飲み物からだ。料理は大皿から取り分けているから比較的安全だが、……まあさすがにそんな真似はしないか。一応俺たちは客なんだから」

 彼はこの国でまだ戦の多かった頃に少年期を過ごしていたせいで、昔のように警戒心を強くしているのだろう。今のジークはまるで別の誰かが乗り移っているかのように思える。何十歳も歳を重ねた戦士のような顔に見えるからだ。

「……わかったわ。気をつける」

 そう言って彼の気持ちをなだめることを選んだ。気にしないようにしたが杯に口をつけるのがためらわれる。そろそろ水をもらった方がいいのかもしれない。音楽と人の声が混ざり合って混沌と感じられるくらいには酔っているようだ。人を呼ぼうと目をあげると、何人かが顔を背けるのが視界に入った。

 少し髪を気にした。北や東ではありふれた金髪だ。それも乾いた麦のような白っぽい光沢の、特別美しいというわけではない色。同じ金髪でもロイシア女王の髪は見事だった。蜂蜜と黄金を混ぜ合わせたらあんな色になるのかもしれない。理性的で強張った顔しかお目にかかることはなかったが、華やかな美貌は憧れるに値した。

(金の髪の、冥魔)

 頭の中がざわりとした。想像してはいけないと思うのに描き出してしまう――地を這う蛇のように長い髪。暗くなって判別できない陰になった姿。瞳だけが爛々として、同じ目を持つ冥魔たちが彼女に従う。彼女は笑い、命じる。

 ――呪われなさい、世界よ。

「っ……」

 吐き気がこみ上げた。落ち着かせようと杯に口をつける。金属製のそれは重く、波打つ飲み物は喉を熱く焼いた。普段はあまり好まない飲み物だけれど、頭の動きが鈍くなったのを感じる。

「最近はリュクナスの遺跡周辺か。そこでやつらは砂漠の狼のように襲ってくると」

「そう。群れをなして獲物を追い込んで呪いを放つらしい。商隊が行方不明になっているのは、後から本物の狼がやってきて食ってしまったんだろう。荷は物盗りが持っていく。古来の伝承にのっとると冥魔はエルテナの遺跡を穢すためにうろつくそうだ」

 周りに聞こえない声量でジークとルウが話している。

「……そろそろエルテナが現れる頃かもしれんな」

 エルテナ――アルガ王国で《死の庭》の護人を表す言葉。

 アルガ王国は北とは異なる宗教や文化を持っている。ここでは《死の庭》の護人は精霊の声を聞く守護者なのだ。その魂は《死の庭》へ行って生を終え、また新たな存在として生まれて護人となる。巡り続ける永遠の魂を彼らはエルテナと呼ぶ。南の人がエルテナといえば、《死の庭》の護人を指した。

 南方では、世界のあらゆるものには精霊が宿り、古き精霊は神に近しい力を持つという精霊信仰が一般的だ。これらすべての声を聞くのがエルテナだ。

 ジークがかすかにプロセルフィナを気にするように身じろぎした。

「前回からたった七年だぞ。間隔が短くなっているとはいえ、早すぎる」

 反論を聞きながら、急に冷たい水を浴びせられたかのように背筋が凍った。

(私がジゼルなら……《死の庭》から帰ってきたというのなら、それは生贄が捧げられなかったことを意味するのではないの?)

《死の庭》の護人の役割は、己を捧げることで《死の庭》を封印することだ。本当にプロセルフィナがジゼルならば、捧げられたはずの柱が立っていないことになる。

 それが《死の庭》の強い影響や冥魔の出現、《死の庭》の異変に関わっているとしたら、すべきことはひとつしかない――。

 不意に手を握られてプロセルフィナは身体を跳ねさせた。ジークは何も言わず、顔も向けずに見えないところでプロセルフィナの右手を握りこんでいる。その痛いくらいの強さに、ほっと息が漏れた。

 逃さないでいて。どこにもやらないで。

 ――私が救いたいのはひとりだけ。

「そういえば、鎮め手の力はどうやって発動させるんだ? そばにいるだけでいいのか」

 ジークの動きに気づいたルウが柔らかに尋ねた。

「効果的なのは歌だ。近くで歌を響かせることで剣の力が変わる。それから冥魔の動きを封じることができる」

「ほう……?」

 ルウはきらりと目を光らせた。歌程度のもので《死の庭》の呪いである冥魔を封じることができるなんて本当だろうかと疑うだろう。だがこの時のルウは、プロセルフィナの腕前を知りたくてうずうずしていたらしい。

「ぜひとも聴きたい。だめだろうか?」

 ジークは苦笑をこちらに向けた。

「歌えるか?」

 歌うことくらいなら造作もない。ここが外国で聴衆が多いのが不安要素だが、きっと今夜はジークと剣に歌ってやれないから、ここで済ませてしまえるならちょうどよかった。

「皆様の興を削がなければいいのですけれど」

「もしそうならジークが止めている。止めないならよっぽど自信があるということだ」

 にっこりと嬉しげに言うと、楽団に合図して演奏を止めさせる。すでに酔いが回った席ではほとんどの人は気づいておらず、飲み食いとおしゃべりに忙しそうだが、プロセルフィナが広間の中央に進み出ると、口を閉ざして手を止めた。

 プロセルフィナはルウに向き直り、歌手のように片手を閃かせて胸に当て、膝を折って微笑んだ。水を打ったように静まり返ったそこで、何を歌おうかと頭の中で曲をさらう。

(ここはヴァルヒルムじゃないし、この国では神法機関の教えは馴染んでいないから聖歌も今ひとつでしょうし、かといってこの国の歌を上手く歌えるわけじゃないし……)

 色々と考えていたがふと浮かんだ旋律があった。そして周囲を見回し、集まった人たちの立場が高貴なものであることを確認して、大きく息を吸い込んだ。


  勇敢なる者よ 我の庭に何故来る

  死者の眠りを妨げるなかれ

  世界の理を歪めるなかれ


 おお、と聴衆から上がった声は、自分の声に対する評価なのか選曲によるものなのか。気にしたのは一瞬、あとは歌を練り上げていく。


  フェルセフォーネ!

  死を従える貴方に希う

  ――死した乙女をよみがえらせたまえ!


 余韻が消える。

 深い闇の中で、死の国の女王は低く囁く。


  この手を取るがいい、愚者よ

  闇に付け入られることなく

  お前が決して振り向かなければ

  乙女は光の園でお前のために歌うだろう


 静寂すらも音楽の一部にして、最後の一節を響かせる。それは顧みた者の末路。信じきれなかった者の罪。


  裏切りは心に つないだ手の中に

  勇者は愚者に変わり 乙女は死の国に戻る

  子らよ もしも愛すべきものを失ったならば……

  お前は決して振り返ってはならない


 紡いだ音が身体から消えた。

 大きく息を吐くとようやく状況を見ることができたが、どきっとした。広間の誰もが、歌を所望したルウですらこちらをじっと見ているだけだったのだから。

 不興を買ったのかと思い、目でジークに助けを求めると、どうも様子がおかしい。彼だけが口元を覆ってにやついた顔を隠している。

 次の瞬間、どんと地面が揺れた。

 人々が歓声を上げ、手を鳴らし床を鳴らし、それでも足りないとばかりに立ち上がって大声をあげている。

 頬を紅潮させながらプロセルフィナは深く礼をした。口笛が鳴り、笑い声が溢れる中をルウがやってきた。人々はルウの言葉の目を輝かせて待っている。

「……稀なる歌い手を讃えよう。プロセルフィナ。素晴らしい歌声だった」

「勿体ないお言葉です」

 再び起こった拍手の中でその声は掻き消されてしまう。

 ルウに導かれて席に戻ると、ジークの笑顔に迎えられた。大きないたずらを仕掛けて成功した悪い顔だ。それに向かって、ばか、と口だけで言ったのは照れ隠しだった。

 そして次に女性たちの演舞が始まる頃に気づいたのは、歌うことで不安をひととき忘れさせようというジークの気遣いだったのだということだった。

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