第38話 出会えてよかった・二


 けれど、そうして二つの気持ちに挟まれてしまったためなのか。沈黙の中、俯き加減になっていたアルビナータは唐突に気づいた。いや聞こえた。自分の心の奥底で呟く、違うという震えた声を。

 そう――――――――――――――――違う。


「……………………怖かった、です」


 心の奥底でわめく声に促されたように、ぽつり、とアルビナータは言葉をこぼした。


「どんなに話しかけても、誰も気づいてくれなくて、自分が空気か何かになってしまったようで……剣や長槍が当たり前にあって、男の人は皆すごくたくましくて強そうで……珍しくはありましたけど、やっぱりああいうのは怖い、です」

「……」

「でも、過去のティベリウスにも最初、気づいてもらえなかったとき…………考えたんです。ティベリウスも私と会うまでずっとこんな感じだったのかなって。そう思ったら、可哀想で……………」


 言葉を重ねるほどに過去の世界でいた頃の感情が思い出され、アルビナータの感情は高ぶっていく。さみしさ、恐怖、失望、同情。宿営地に置かれたたくさんの武器や、力に呑まれた盗人、犯罪を犯した兵士の裁判の様子といった、荒々しい力の具現もだ。

 いくつもの感情が胸に押し寄せ、締めつけ切り裂くようなあの痛みまでもがよみがえり、アルビナータに言葉を紡がせた。


「だから、早く帰ってくださいってティベリウスに言ったんです。どこにも寄らないでルディラティオへ帰ってくださいって」

「……!」

「言わずにいられなかったんです…………!」


 アルビナータは叫ぶように、過去を変えようとしたことをティベリウスに打ち明けた。


 過去の世界での、ティベリウスとガイウスのやりとりをアルビナータは思い出す。公の場では絵に描いたような主従であった二人が樹海で見せた、楽観的な主と口うるさい従者の構図。現代でクロノス神像を見下ろすティベリウスの切ない眼差しを裏付ける、確かな絆があの一場面にはあった。

 あの強い絆が断ち切られないようにしたかった。ティベリウスに、人間と断絶された悲しみを味わってほしくなかった。――――――――笑っていてほしかった。

 けれど、ティベリウスは今もこうしている。それは、アルビナータの行動が無意味だったことに他ならない。あんなにも叫んだのに。


 そう、アルビナータが過去の世界へ行こうとしたのは、自分がしてしまったかもしれない過ちを正すためだけではない。ティベリウスが親しい者たちと断絶され、人間とふれあえない日々に震えないでいられるようにしたいのだ。ガラスケースの中の朽ちた神像に、時空の彼方に失った絆を見出さなくて済むようにしたい。そんな、とても自分勝手な願望がある。

 それは、自分がこのドルミーレの学芸員にならないこと――――今の自分でなくなることであり、ティベリウスたちと会えなくなることだとわかっているけれど。


「…………いいんだよ、アルビナータ」


 ティベリウスは緩く首を振って、そう言った。


「確かに、君に会うまではさみしいというか……人間と関われないことが苦しかったよ。精霊たちはいつもそばにいてくれたけど、人間の目に僕の姿は映らない。話しかけても言葉を交わせない。触れることもできなくて……きっと運命の女神たちが何か気まぐれを僕に起こしたんだろうって諦めてはいたけど、本当はこの時代の人たちと話したかった。この時代のことでも、僕が皇帝だった頃のことでもいいから」

「……」

「そんなときに、君は僕を見つけてくれた。たくさん話しかけて、色んなことを教えてくれた。この世界のことも、文字も。僕の時代のことをたくさん聞いてくれもした」


 ティベリウスはアルビナータに手を伸ばすと、白い頬に触れた。繊細な指のひやりとした肌触りに、アルビナータは思わず息を飲む。


「僕は、君に会えてよかった。君と一緒にいた時間をなかったことにしたくないし、君やこの時代の人たちに、もっと僕がアルテティアにいた頃のことを知ってほしい。ガイウスやデキウスや父上……僕の大切だった人たちがどんな人だったのか、書物に記されていない彼らのことを伝えたい。それは、僕がこの時代にいなければできないことだ。だから……歴史をこのままにしていいんだよ。……してほしくないんだ」

「ティベリウス……」


 頬を包む手に自分のそれを重ね、アルビナータは顔をゆがめた。

 声や表情、重ねた手から伝わってくるのは、今までアルビナータが何度か彼に見出した諦めではない。温かく優しく、包みこむようで。どこか祈りにも似ている。


 アルビナータは、ようやくティベリウスの思いを理解した。

 ティベリウスはもう、皇帝だった時代――――親しかった人々との断絶を受け入れ、未来へ向かって歩きだしているのだ。過去を懐かしみ、我が身を憂うことはあっても、それでも彼はこの時間、いずれかの神にゆがめられてしまった人生を受け入れている。彼が過去を懐かしむことに囚われ、帰りたがっているのかもしれないというのは、アルビナータの思いこみでしかなかったのだ。


 ティベリウスは、この時代、この時間を望んでくれている――――――――アルビナータの願いは、とうに叶っていたのだ。

 その事実がアルビナータの肌から身体の奥深くへ、そして胸に伝い落ちていく。雫を受け入れた水面のように、アルビナータの心は震えた。

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