第29話 皇帝の祈り・二
「……」
失望と安堵を同時に味わいながら、ティベリウスはのろのろと上半身を起こし、指を紙面から離した。あちらへ至る扉から離れたことにより、少しだけ吐き気と頭痛が楽になる。
ティベリウスは深々と息をついた。
やはり、アルビナータと二人で協力して盗人を退けたあの場面も、ティベリウスはまったく身に覚えがない。知らない記憶だ。
だからなのだろうか。ある意味では誰よりも信頼できる存在――――自分がアルビナータの味方で、彼女を慰めていたというのに、素直に喜べない。もどかしさや歯がゆさ、悔しさばかりが先に立つ。
感情の整理に追われていたティベリウスは、そこであることに気づいた。
「……?」
何故、過去のティベリウスはアルビナータを認識し、触れていたのだろう。彼女は、精神だけがあの時代へ飛ばされてしまっているはずなのに。だから彼女は目覚めず、ティベリウスは彼女の身体を部屋へ運んでくれとコラードに頼んだのだ。
「……」
嫌な予感を覚え、ティベリウスは慌ててアルビナータの部屋へ向かった。
扉代わりの布を開けると、寝台は空になっていた。それどころか、ティベリウスが張った結界すらない。机に置いておいた細い腕輪だけが、淡い光を放って残されている。
「っ……!」
アルビナータの肉体さえ失い、ティベリウスは叫びだしたい衝動に駆られた。何もできない無力感に打ちのめされ、膝がくずおれそうになる。
「神々よ…………どうかアルビナータを過去の時間に留めないでください…………彼女がいるべき時間はここなんです。彼女を家へ帰らせてあげてください…………」
両手を握りしめ、ティベリウスは頭を垂れて神に祈る。そうすることしかできなかった。
どれほどの時間、願い続けていたのか。静寂を、扉が開く音が打ち破った。
「ティベリウス! お前が言ってたやつ、持って来たぞ! おい、どこだ!」
扉が開く音がするや、コラードの足音と彼の声が続く。祈りを捧げていたティベリウスはばっと顔を上げた。歓喜が胸に湧く。
ティベリウスは慌てて紙と筆を用意し、部屋の外へ出た。それらの文房具と文字を記すことで、自分の居場所をコラードに伝える。
ティベリウスがそこにいることを知ったコラードはその場に座りこみ、背を壁に預けて疲れきった様子で、ティベリウスに頼まれていた物に目をやった。
「おいティベリウス。なんなんだよ、それ。そいつ入れてたガラスケースは粉々だったし、手に取った途端、目眩がするわ吐きそうになるわで最悪だったんだが。しかも途中から、心臓抱えてるみたいにどくどく脈打ちだして、余計に気持ち悪かったしよ。途中で吐きそうになったぞ俺。これもアルビが時空を超えた影響か?」
『そうかもしれない。僕も巻物に触れたら、この世界じゃないところへ精神だけ飛ばされてしまった。そこから先へは行けなかったけど、あの世界の向こう……僕がルディシ樹海へ視察に行った頃にアルビナータはいるはず』
「……つうことは、お前が失踪する直前ってことか。よくわかんねえけど……お前の推測は当たってたんだな?」
『うん。あの方法でいけると思う』
コラードの問いに、ティベリウスは即答する。それと同時に、暗澹としていた気持ちに光が差し込んだような心地になった。――――そう、まだアルビナータは救い出せる。
コラードは長い息をついた。
「ったく、オキュディアス一族もとんでもないもん作りやがったよな。要するにそれも腕の金細工もあの三部作の原本も、過去の時代を覗き見するための道具ってことだろ? そりゃどんな極秘事項も暴露できるよな。実際に起きたことをそれ使って覗き見して、そのまま書きゃいいだけなんだから。精神だけが飛ばされるなら、その時代の人間に見られる心配もねえだろうし」
『うん……でも、アルビナータの身体は消えてしまったよ。向こうで彼女が何かをしたみたいで……あの時代の僕にも姿が見えるようになっていたよ』
「はあ? ちょっと待て、それやばいだろ絶対!」
ティベリウスの報告に、コラードは顔色を変えた。
当然だ。現代の制服をまとったアルビナータは、あの時代では現代以上に珍しい外見をしているように見えるに違いないのである。しかも、見るからに大人しそうな顔をしている。奴隷商人やならず者にとって、格好の獲物だろう。
『わかっている。だからコラード、何が起こるかわからないから、下がっていて。できればアルビナータの部屋に』
「わかった。……頼むぞ」
そうコラードは真剣な表情でティベリウスにすべてを託すと、アルビナータの部屋へ避難する。それを見届けてから、ティベリウスは中庭と柱廊を除いた‘皇帝の間’全体に結界を張った。あの力に自分が抗えるとは到底思えないが、しないよりはましだ。
金細工は、あの領域に鎮座する扉を開くための鍵だ。巻物の木の軸は、扉の向こうを定める道標。だから、両方を知らず揃えてしまったアルビナータは、過去の世界へ精神を連れ去られてしまったのだ。そしておそらくあちらの世界で、また金細工を関わりのある品――巻物か金細工のあの時代での姿に触れさせてしまったから、今度は肉体を引きこまれてしまった。
ならば、こちらから同じことをすればいい。そのための道具は、コラードが揃えてくれた。
準備を終え、ティベリウスは自分の腕に反対の手の指を当て、力を乗せて胸元へ引いた。力の刃はティベリウスの白い肌を裂き、ティベリウスの身体は傷口を中心にかっと熱くなる。
「…………っ」
古代アルテティアは皇帝が治めるようになって以来、皇帝が軍の最高司令官と最高位の神職を兼任するようになっていた。ティベリウスも皇太子の頃から神官として神事に参加し、皇帝になってからも最高神祇官として多くの神事を執り行ったものだ。そのおかげで、ティベリウスはグレファス族の神事だけではなく、古代アルテティアの儀式についての知識も一通りは頭に入っていた。
グレファス族でも古代アルテティアでも、儀式には生贄がつきものだった。だがここに羊や山羊、牛はいない。ならば、多大な魔力を秘める自分の血を生贄の代わりにするしかない。
紙面にティベリウスの血がどんどんしたたり落ちていく。鮮血が紙面ににじみ、瞬く間に文すら見えないほど紙面を染めあげる。
でも、まだだ。まだ足りない。魔力を秘めているとはいえ、ちょっとやそっとの量では命の代替にならない。もっと血と魔力を注がなければ。
死ぬのは怖くない。アルビナータを救えるなら、命なんて惜しくない。
急速に血を失って頭の芯がじんと痺れ、思考が停滞しそうになる。それを意思の力で無理に動かし、ティベリウスは紙面に触れて唇を開いた。
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