第二章 皇帝の町

第11話 刻まれたもの・一

 窓のない、塗装が剥がれた煉瓦造りの部屋に、かりかりと音が響いていた。


『――――第八の月、美しい満月の夜。ルディシ樹海にあるグレファス族の集落にて、後のティベリウス・アウレリウス・ベネディクトゥスは生まれた。髪は青銀、瞳は鮮やかにして澄んだ青。小さな身からこぼれる力は只人ならぬほど。誰もが自然と頭を垂れた。樹海に住まう精霊たちもまた、尊き方が産まれたとささやきあい、喜んだ』


『彼が十歳のとき。グレファス族の集落を近隣のネグロス族が襲った。作物に病あって食糧が少なくなったところ、北方の蛮族たるシダルク族にそそのかされたからである。シダルク族もまた糧に不足しており、また領土を求める欲も強かったので、かねてより求めていた地を侵略する意欲に燃えていた――――』


『ああ、哀れなる少年の目の前に広がるは、慣れ親しんだ、破壊された思い出の地。親しき人々の亡骸や、日々を過ごした我が家。失われたものの中には、人々を導く神官たる母方の祖父ジーグス、母たる巫女グロフェもあった』


『血族を失った少年ティベリウスは生き残った者たちと共に、死者たちの墓作りを手伝った。黒い煙は絶えることがなく、五日経ってようやく消えたのだった――――』


 そこまで書いてようやく作業に一区切りがつき、アルビナータは手を休めた。大きく伸びをし、白い息を吐き出す。


 夏であるというのに冷気が漂い、どこかへ通じる通路が何本も伸びる、薄暗い広間。その中央にある大きなテーブルには、ノートと巻物、そして辞書やメモ帳が広げられ、魔法道具による明かりに照らされている。

 アルビナータの唇から白い息がこぼれるのは、この部屋がドルミーレの所蔵品の収蔵庫だからだ。ルネッタたち保存管理部門の学芸員の仕事場であるここは、展示ケースの中同様、一年を通して低い温湿度で一定に保たれている。資料の劣化を少しでも防ぐため、室外へ持ち出さずに作業ができるよう大きなテーブルや数客の椅子も揃えてあり、アルビナータのように防寒着を着込みここで何時間も作業をする学芸員も少数だがいるのだった。


 王立学院の教授を交えての鑑定によって古代アルテティア時代のものと断定された『帝政』三巻は、この収蔵庫へ収められた。それぞれがおそらくは世界に一点しか現存していない、稀有で貴重な古代の遺産なのだ。大切に扱い、後世に伝えていかなければならない。そういうわけでアルビナータは寒さと戦いながら、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章の翻訳をしているのだった。


 普通なら、こんな小娘が先輩を差し置いて、大発見の巻物の翻訳なんてできるものではない。しかしギリル語は、発見例が少ないために古代アルテティアの研究者でも読める者が限られている希少な言語なのだ。ドルミーレでギリル語を読むことができるのは、マルギーニと館長のファルコーネ以外ではアルビナータしかいない。少しでも早くこの書物の内容を翻訳し、世の研究者に提供するためには、一年目の新米だろうと関係なくこき使う必要があった。


 原文を書き写しては現代語を書き連ね、原文を正確に表現できているかと思考錯誤を繰り返していると、「歴史」と総称される三部作は、確かに何人もの筆者によって執筆されたのだと納得させられる。この章を執筆したオキュディアス一族の者は他の章とは違い、自分の感情を殺して客観的に書くことができない性質のようで、いたるところに己の感情をにじませ、抒情的な描写を散りばめているのだ。歴史書というよりは、巷の小説を読んでいるような気にさせられる。現存する他の章にはない特徴だ。

 章の最後の部分を読んだときは文章を味わう心の余裕なんてなかっただろうが、こんなふうに自分の誕生や家族の死が語られているとティベリウスが知ったら、どんな顔をするだろうか。想像して、アルビナータは瞳を揺らした。


 時計を見てみると、翻訳を始めてからそれなりの時間が経過していた。窓がなく、分厚い壁や扉に遮られて人の声が一切聞こえてこないここでは、時計を見ないと時間感覚が麻痺してしまうのだ。時間を忘れて収蔵庫の奥に籠っていたせいで、収蔵庫の外で作業をしている保存管理部門の学芸員に気づいてもらえず、唯一の出入口に鍵をかけられ、研究部門の学芸員が一晩収蔵庫の中に閉じ込められて凍死しそうになった――――なんて笑えない実話もある。


 まあ、今日は点検の日なのでそういうことはないだろうが。杜撰な管理体制だった頃からの積み重ねで実際の収蔵庫と大きくずれがある目録や台帳を、週に一度収蔵庫を見回って実物を確かめ、修正するのは保存管理部門の業務の一つなのである。今も所属の学芸員が収蔵庫のどこかにいるはず。作業台周辺にいる限り、帰りがけに見つけてもらえるはずだ。


 とはいえ、やはりそろそろ出ないと身体によろしくないだろうし、外にいるルネッタも心配するだろう。アルビナータはまだ翻訳したい気持ちをそう納得させるとテーブルの上を片付け、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章を持って、薄暗い収蔵庫の中、棚に掲げられた番号を確かめながら奥へ向かった。


 しばらくして、アルビナータの後ろのほうから足音がした。静かな収蔵庫の中、軽く響きながらこちらへ近づいてくる。アルビナータは足を止め、振り返った。

 足音の主は、白い上着を着たルネッタだった。アルビナータのほうへやってくると、心配そうな顔を向ける。


「アルビ、大丈夫? そろそろ出たほうがいいと思うんだけど」

「はい、もう出るところです。ルネッタさんはこれから目録の点検ですか?」

「ええ。収蔵品目録に入っていない昔の収蔵品は、まだまだたくさんあるもの。なのにまたああして新しいのを手に入れようとするんだから、館長は欲張りよねえ」

「でも、そのおかげで大発見ができました」


 そうアルビナータが苦笑すると、ルネッタは一つ大きく頷いた。


「ええ、聞いたわ。貴女が一見何もない櫃の底から発見したんですって? お手柄ね。うちが三巻とも手に入れられるよう、交渉したコラードもだけど」


 アルビナータを褒めつつも、大好きな異母弟の手柄を何より喜ぶルネッタである。アルビナータは笑って済ませるしかない。


 ところでアルビナータ、とルネッタは不意に、表情を気遣わしそうなものに変えた。


「譲渡会あたりからこっち、馬鹿どもがつきまとってきたりしてないかしら?」

「いえ、今のところはまだ」

「ならいいけど……‘アウグストゥス’がお帰りになったと知ればまた来るようになるでしょうし、もし何かあったらすぐ私や主任や、館長に言うのよ? もちろんコラードにもね」


 にっこりと、しかしどこか不穏な気配がにじむ微笑みでルネッタは言う。何度も言い聞かされていることではあるが、アルビナータは今回も頬を引きつらせて頷くしかなかった。

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