第26話 見えざる者・二

 アルビナータは地面から石を拾い、ティベリウスに見えるように投げた。一つ、二つ、三つ。勘違いだと思われないよう、不思議を繰り返し演出する。


「……? そこに、誰かいるの?」


 宙に浮かび上がった石が投げられるという不思議を見せられたティベリウスは、石が投げられた辺り――――アルビナータがいるほうへ目を向けた。樹木の精霊も不思議そうに、細い葉を何枚も連ねたような眉をひそめる。


「……ねえ、もしここに誰かいるなら、何か文字を書いてくれないかな。何でもいいから」


 そう呼びかける視線の先はアルビナータからずれていて、視線は合わない。見えていないのだから当然だ。

 けれど彼は、不可視の――――アルビナータの存在を認めてくれたのだ。


 嬉しくてこぼれかけた涙を拭ったアルビナータは地面にしゃがむと、そのまま泣きじゃくりたい気持ちを無理やり抑え、古代アルテティア語で自分の名と、十六歳の少女であることを記した。このときほど、古代アルテティア語を学んでおいてよかったと思ったことはなかった。

 地面に勝手に文字が刻まれていくのを、ティベリウスは驚きの表情で見ていた。その驚きが去ったのかやがて目を瞬かせると、アルビナータ・クレメンティ、と地面に書かれた名を舌に転がす。名の響きを自分の声で確かめるように。

 一瞬、初めて彼と出会った日のことが重なって、アルビナータは息を飲んだ。


「アルテティアの民にはない名前だね。少なくても、ルディラティオ周辺やグレファス族にはない……ねえ、どこから来たの? 君は何日か前から、僕の周りにいるよね?」

『そう。私は、とてもとても遠い場所から来た。ある巻物の軸に腕輪の金細工を触れさせた途端、ここへ来てしまった。だから、元の場所に帰る手がかりかもしれないと思って、探している』

「? 手がかりがここにあるって、どうしてわかるの?」


 首を傾けるティベリウスに、アルビナータはさらに詳しく説明した。


『私が持っている腕輪の金細工が、ここを示している。宿営地で泥棒や盗品に触れたときから、ずっと一ヶ所を示し続けている。きっとこの金細工と関わりが深いものがあって、まだ泥棒が持っているのだと思う』

「盗まれたものが手がかりなの? それなら駄目だよ。盗まれたものは、持ち主に返さないと」

『わかっている。少し調べさせてもらうだけでいい。きっと何かわかるだろうから』

「それならいいんだけど……でもまずは取り返さないと。君はここで、そこにいる樹木の精霊と一緒に待っていて。僕が取り返しに行ってくるから」


 と、ティベリウスはアルビナータのために魔法で小さな明かりをいくつか灯すと、愛馬にまたがろうとする。さっき他の精霊たちから話を聞いていたから、彼らから聞いた手がかりをもとに探しに行くのだろう。


『行かないで。泥棒がこっちへ来ている。金細工がそう伝えてくる。ここで待っているだけでいい』


 アルビナータは慌てて小石を転がしティベリウスの注意を引くと、地面にそう文字を書いた。


 金細工から伝わってくる力の気配に怯えるアルビナータの心臓が先ほどから、早鐘を打って逃げろと急きたてている。恐ろしいものが来る、だから逃げろ、と。昼間に触れあって以来、二つの金細工は力の糸で繋がったままなのだ。過去の姿をまとった者に異変があれば、片割れを持つアルビナータに伝わってくるのは当然だった。

 同時にそれは、アルビナータの居場所があの盗人にも伝わっている可能性が高いということでもある。盗人がこの金細工の繋がりを辿ろうとしているのは、ありうる話だ。

 ティベリウスは疑わしそうな顔をしたが、やがて思い直したのか、一つ頷いた。アルビナータがティベリウスの注意を引くのに使った石を拾い、間違った方向にではあるが差し出す。


「でもやっぱり、ここを離れたいんだ。ここには、その樹木の精霊が宿る大樹があるから。この石で、僕を盗人のところまで連れて行ってくれないかな」

『わかった』


 アルビナータは了承を書いて伝える。つい癖で、自分自身も頷いてしまった。


 そうしてアルビナータは、ティベリウスが樹木の精霊にアルブムを預けた後、彼を先導した。転んだりつまづいたりしないよう注意を払いながら歩いては、ティベリウスが灯してくれた宙に浮く小さな火の下で石を動かし、力の気配の方向を伝える。

 歩くほどにアルビナータは、金細工からこぼれ漂う力が濃くなっていくのをひしひしと感じた。夜闇を歩くのとは別種の恐怖が、アルビナータの胸中で存在感を増していく。自分を叱咤しなければ、足が竦んで動かなくなってしまいそうだった。


 不意にティベリウスが、アルビナータが持っている石に手を伸ばした。もちろんアルビナータの手はすり抜け、石だけを掴む。止まってくれという合図なのだろう。

 アルビナータはそれを見て驚き、思わずティベリウスを振り仰いだ。彼が指を唇に当てているのを見て、言葉を飲みこむ。了承の意味を兼ねて、ティベリウスの邪魔にならないよう脇にどく。


 二人が黙るだけで完璧な静寂が訪れ、少し離れたところから聞こえる足音が際立って聞こえてくる。力の糸から伝わってくる力も強くなっていく。

 心臓の音がうるさくて、胸が痛い。アルビナータはごくりと息を飲んだ。

 頃合いを見計らって、ティベリウスは木立から姿を現す。アルビナータも、身を隠すのは無駄と知りつつそっと顔を覗かせた。


 それがよかったのか、悪かったのか。一目見て、アルビナータは絶句した。

 二人の視線の先にいた金髪の盗人は、昼間にアルビナータが見たときとはまるで様子が違っていたのだ。


 顔は青ざめて口をだらしなく開け、手をだらりと下げているさまは亡骸が歩いているようなのに、目だけはぎらぎらと得体の知れないもので輝いていた。自分の意思で歩いているようには到底見えない。

 全身にまとうのは、魔法使いが使うものとも精霊がまとうものとも違う、大自然の要素の息吹を感じさせない、空虚で圧倒的、暴威とさえ言える荒々しい力――――あの扉から放たれていた力の流れだ。その気配はアルビナータにも伝わってくる。


 おそらく、この盗人はあの扉から放たれていた力に精神を飲まれたのだ。強い力は時として生き物の心身を狂わせ、押しこめていた醜い感情を引きずり出したり、人ではないものにしてしまいすらする。だから魔力の耐性を持たない者は、強大な力を放つ物や場所へ不用意に近づいてはならない。王立学院で、魔法学の教授が口を酸っぱくして言っていたものだ。


 ティベリウスをぼんやりと見ていた盗人は、彼の斜め後ろで立ち竦んでいるアルビナータに視線を向けた。獲物を見つけた目が、さらなる歓喜を浮かべる。

 そして盗人は、アルビナータに向かって突進してきた。


 恐怖に飲まれたアルビナータが動けずにいると、ティベリウスが剣を抜いて盗人に斬りかかった。獣のように俊敏な動きでそれを避けられても、アルビナータから盗人を遠ざけるためか、次々と剣を振るう。現代では、剣なんて振り回せる程度しか習っていないと言っていたのに。

 続く攻撃を鬱陶しく思ったのか、盗人は動こうとしないアルビナータをひとまず捨て置き、標的をティベリウスに切り替えた。剣を避けるためよりはるかに速い速度で、ティベリウスに襲いかかる。


「くっ……!」


 剣では間に合わないと踏んでか、ティベリウスはとっさに魔力の壁を築いて盗人の突撃を防いだ。すると盗人はそれに対抗するように、今度は力を放ち攻撃してくる。力と力がぶつかりあって風が生まれ、木々の枝葉を揺らす。可視化された力のきらめきが辺りを照らした。


 力と力のせめぎあいは長く続いた。しかし次第に、ティベリウスは顔をゆがませるようになった。


 ティベリウスが魔法の優れた使い手だったというのは、文献に記されていたから知っている。生来非常に強い魔力の持ち主で、誰に教えられずとも自在に魔力を操り、魔法を使いこなすことができたという。現代でも、時折その片鱗を見せることがある。

 そのティベリウスが、押されている。当然だろう。盗人が放っているのは、腕輪を通じてこの世に放出された、あの領域に漂っている力だ。いつ底をつくかわからないあの強大な力を相手に戦い抜くなんて、いくらティベリウスでもできないに決まっている。

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