第3話 残されたもの・一

 昼間は来館者で賑わうドルミーレも、閉館時間が迫る夕方近くになると人気が少なくなってくる。古代アルテティアの貴重な遺産である展示品を守る警備員も、この時間には気もそぞろだ。ドルミーレからガレアルテまでは大した距離ではないのだが、それでも帰宅に要する時間は気になるのだろう。

 アルビナータはそんな誰もが気を緩める時間帯になるのを見計らって、関係者以外立ち入り禁止区域から直接、展示室へ向かった。


 いくつもあった小部屋の壁を壊して造られた展示室には、数多の道具や書巻が展示ケースの中、所狭しと置かれている。その展示ケースには古めかしい意匠の風景画が描かれてあり、部屋に調和して遠目には壁画の一部のようにも見える。他にも模型や復元図、解説板といったものが展示され、古代アルテティアの歴史や文化について丁寧に解説していた。


 古代アルテティア帝国は、アルテティア王国がその後裔を称する、今からおよそ千五百年前まで栄華を誇っていた、千三百年の歴史を紡いだ大帝国である。戦いの神や猛獣の血を継ぐ青年が、大冒険を経た末に辿り着いた地の王と争って打ち破り、王になったことが始まりなのだという。最盛期には北大陸の約半分と南大陸の北部を支配下に置いており、現代の多くの国の大地と文化にその痕跡が残っている。北大陸の歴史において古代は、古代アルテティア帝国の栄枯盛衰抜きに語れない。

 アルビナータは七年前、そんな偉大な帝国の名残と言うべきこのドルミーレでティベリウスと出会い、元々あった古代アルテティアへの関心をさらに強めた。ティベリウスはアルビナータに惜しみなく古代アルテティアのことを教えてくれたし、元々クレメンティ家は学問の名家と呼ばれるほど歴史に名を残す学者を何人も輩出してきた、学問に力を注ぐ家系である。十六歳という異例の若さで王立学院を卒業し、望み通りドルミーレへ就職できたのも、当然と言えば当然なのだった。


 アルビナータは、こうして展示室を歩いたり、研究のために資料に触れる時間が好きだ。はるかな時を経た資料を前にしているだけで、古代の息吹と時間の流れを感じることができる。後世に訳された文献はどのようにして記されたのか、さびついて使えない道具はかつてどんな姿だったのか。そういうことを目で確かめ、想像するひとときは、アルビナータを幸福にさせるのだ。

 そうして何気なく首を巡らせていると、白い台に置かれて展示されている、損壊しても威厳を失わない彫像の前に佇むティベリウスを見つけた。

 付き合いが長いアルビナータでも心を奪われ、胸を締めつけられる、近寄りがたい孤高の世界がそこにあった。どこからか透明な膜で彼の周囲だけが遮断されているかのような違和感と迫力が、彼を取り巻いている。

 ティベリウスは展示ケースのガラスに手を当て、損壊した彫像を見つめ続けている。己もまた息づく彫像であるかのように、表情を変えることなく。アルビナータや来館者の視線になど、気づきもしない。

 ティベリウスが、遠い。歩数以上の距離感に、アルビナータは言葉を失った。

 声をかけてもティベリウスが会話を拒んだりしないことは、アルビナータとてわかっている。名を呼べば、彼はいつもの穏やかな笑みで応えてくれるだろう。そういう人だ。

 だがその後、どんな言葉をかければいいのか。こんな、切なそうな眼差しで過去の遺物を見つめる彼に、何を言えば。

 やはり彼は、過去が恋しいのだろうか。アルビナータは思わずにいられなかった。


 ティベリウスがトーガを着ているのは、何も人目を引くためではない。それが彼にとっての正装だからだ。トーガを着ることが当たり前だから、彼は着ている。

 彼の正式な名は、ティベリウス・アウレリウス・ベネディクトゥス・ピウス。通称ベネディクトゥス・ピウス帝。精霊たちに愛されたことから、‘精霊帝’とも称されている。

 そう、ティベリウスは、その彫像が北大陸各地の古代史を扱った博物館で展示されている、古代アルテティア帝国を繁栄させた一人と数えられている賢帝なのである。


 二十七歳の夏に帝国北部を視察していたはずのティベリウスは、今から十六年前、アルテティア北部の樹海の中で一人目覚めた。理由はわからない。連れているはずの側近や兵たちも見当たらず混乱した彼は、樹海に棲む精霊たちから、ここは自分が生きていた時代ではなく、統治していた帝国はとうに千切れて文化もひそやかに受け継がれているだけだということを聞き知った。さらに樹海の外へ出て、自分が人間に姿や声を見聞きしてもらうことができず、飲食など生命維持に不可欠なことをしなくていい身になってしまっているという、にわかには受け入れがたい事実をも彼は受け入れざるをえなくなる。大国の頂点に君臨し、帝国中の人々に傅かれていた‘精霊帝’は、運命の女神たちの気まぐれによってか、はるかな未来の片隅、精霊たちのそば近くへと追いやられてしまったのだった。


 ティベリウスがアルビナータと出会ったのは、彼が我が身の変質の理由や元いた時代へ戻る方法を探すことを諦め、精霊たちと共に現代をさまようようになって九年目のことだ。たまたまドルミーレで足を休めていたティベリウスのもとに精霊たちが馳せ参じ、宴を開いていたところに偶然アルビナータが土の精霊に手を引かれ、連れ込まれたのである。そうしてティベリウスは初めて、自分の姿を認識する現代の人間と出会った。


 それから七年が経った今、ティベリウスはかつて自分が住んだ都を今も統治者の座所と定めるアルテティア王国の人々に、その存在を知られるようになっている。三ヶ月前、ガレアルテで火事に巻き込まれたアルビナータを助け、人々の前にその姿を現してしまったからだ。国王はこの古代の賢帝を亡国の貴人として即座に認め、ドルミーレの一隅である‘皇帝の間’――――かつてこの別荘に皇帝たちが滞在中利用していた一画をティベリウスの住まいとして返還、高級家具を運び入れ、彼のために古代アルテティア様式の調度を用意することも約束した。完成次第、‘皇帝の間’に運び込まれる予定だ。‘皇帝の間’は現在、名のとおり古代アルテティア帝国の皇帝の座所であり、解説見学はあくまでも皇帝の厚意でさせてもらっている、という体裁なのだった。


 十六年もの間、アルビナータ以外の人間と言葉を交わせなかったティベリウスは、こうしてやっと、その存在を認めてもらえるようになった。十六年前には考えられなかったことだ。三ヶ月前までも、アルビナータ以外では偶然気づいてしまった彼女の両親しかティベリウスの存在を知らなかった。

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