第四章 声の行方

第25話 見えざる者・一

 アルビナータがそのとき目覚めたのは、ほんの偶然だった。

 数百年は生きているに違いない大木の根元で眠りについていたアルビナータは、静寂の中に響く馬の足音で無理やり起こされた。

 意識は浮上するが覚醒には至らず、そのまま沈もうとする。アルビナータもそれに逆らわず、眠りを欲した。疲れきっていたのだ。身体は重く、瞼も重い。


 昼間、アルビナータは魔力の糸を辿って宿営地を出た後、夜まで歩き続け、なんとか樹海に辿り着くことができた。樹海まで思ったよりも距離がなく、場所もはっきりと視認できていたので迷わずに済んだからだ。

 しかし、この時点でアルビナータの体力と気力は限界だった。それでアルビナータはこの日の追跡を諦め、早々と眠りに就いたのだ。疲労は蓄積されるのに何故か飲食を必要としないこの身体は、こういうときに便利である。


 まだまだ眠りたいのに、覚えのある魔力の気配と共に馬が疾走する足音が意識の覚醒を促す。意思とはまるで反対の反応をする身体を、アルビナータは恨んだ。

 仕方なくアルビナータが重い瞼をどうにか開けて瞼を擦り、頭を振っているうちに、足音の主はアルビナータの目の前を通過していく。宙に浮く小さな火が、青銀の髪や金の縁取りがされた紫のトゥニカ、緋色のマント、白馬をアルビナータに見せる。

 アルビナータは眉をひそめた。


「ティベリウス……?」


 どこからどう見ても、この時代の成人男性の普段着であるトゥニカに身を包んだベネディクトゥス・ピウス帝――ティベリウスである。しかし彼は、古代アルテティア帝国の皇帝なのだ。いくら故郷と言えど、真夜中に樹海へ、それも盗人が潜んでいるのに護衛もなしで訪れるなんて無防備すぎはしないだろうか。

 ティベリウスを乗せた白馬――アルブムは、アルビナータの視界から消えてしまう前に足を止めた。アルビナータが目を凝らしてみると、精霊が数体、彼に近づくのが見える。

 アルビナータは布団代わりにしていた上着を羽織ると、足音を殺してティベリウスのところへ近づいた。


「――――ふうん。じゃあ、あっちのほうへ行けばいいんだね?」


 アルブムから下りたティベリウスが右手を指差すと、精霊たちは口々にそうだと肯定した。どうやら精霊たちは、ティベリウスに情報を伝えに来たようだ。約二十年前にこの地を去った異種族の友が盗人を探していることを、風の精霊に聞いたのかもしれない。


 今夜は美しい星月夜で、こんなに深い木々の海であるが、木々の枝が届かないところには月や星の光が惜しみなく注がれていた。ティベリウスの青銀の髪は天からの光を受けてきらきらと輝き、それ自体が王冠のよう。そして、彼と言葉を交わす精霊たち。何もかもが、まるで何かの物語の一場面だ。


 アルビナータは、現代では見慣れたこの光景を見て、感動よりも胸の痛みを覚えた。

 数日前からアルビナータは、宿営地を見学するときや眠るとき以外、大抵はティベリウスのそばにいるようにしていた。それは彼のそばが一番安心するからだったし、彼に気づいてほしかったからだ。彼にアルビナータの姿は見えず、声は聞こえない。でも気配くらいは、と思っていた。

 それはまったくの無駄で、彼は一度も気づかなかった。いや、時々周囲を気にすることがあるから、気配くらいは察しているかもしれない。しかしそれらしき人物は見えないから、彼は不思議そうな顔で首を傾け、また前を向くのだ。


 アルビナータは、この時間のはるか未来に存在している。過去の世界で生きるティベリウスたちにアルビナータの姿が見えないのは当然で、こうして過去の時間軸に存在できていることが奇跡なのだ。

 それはわかっている。わかっているけれど――――――――


 精霊たちと話していたティベリウスはすぐ顔を引き締めた。


「……ううん、嬉しいけど、僕一人でやるよ。これは人間の揉め事だもの、人間だけで終わらせないと。それより皆、他の子たちを守ってあげて。僕が追っているのは悪い人だから、君たちを捕まえようとしたりしているかもしれない」


 手伝いを申し出る精霊たちに緩く首を振って断ると、ティベリウスは彼らを見回してそう頼む。精霊たちはティベリウスの願いを快く聞き入れ、一斉に散っていく。


 が、草木を無造作に組んで造られた、性別も年齢も不明な裸身の人形のような姿をした樹木の精霊だけはティベリウスのそばに残った。近くでそびえるように立つ、樹齢がどれほどなのかわからない大樹に宿る精霊に違いない。大樹の幹に手を当てている様子がとても自然でそのまま溶け入ってしまいそうに見え、感じて、アルビナータはそう推測した。

 樹木の精霊が、不意にティベリウスの背後――――アルビナータをじいっと見つめた。そこに何かあるのではないかと疑う、理知的な目だ。

 樹木の精霊と視線が合ってアルビナータはぎくりとし、同時に淡い希望も抱いた。闇の中に弱々しい光が差し込んできたような心地さえした。


「どうしたの? ……ああ、後ろ? 僕の後ろに誰かいるのかって?」


 ティベリウスが、そばに残った樹木の精霊に尋ねる。すると樹木の精霊は、意図してゆっくりと瞼を閉じ、開けた。

 うん、とティベリウスは子供のように頷いた。


「実はね、ここ何日か、時々だけど、近くで変わった気配がするんだ。でも、振り返っても誰もいないんだよ。解呪の魔法をかけてみたけど、やっぱり誰もいなくて」


 変だよねえ、とティベリウスは首を傾ける。姿も声もしないのに気配をかすかに感じることに心底困惑しているのが、声色から読み取れた。


「ねえ、貴方なら僕の後ろに誰かいるのか、わかるかな? 貴方はこの樹海でも、指折りの力の持ち主だもの。僕にはわからなくても、貴方には何か見えているのかな?」


 そう、ティベリウスは幼い頃の己を見守っていたのだろう精霊に問いかけた。

 人と人ならざるもののやりとりを見つめるアルビナータの胸や喉、目の奥から、不意に熱いものがこみ上げてきた。それはアルビナータの全身を熱しながら、張りつめていたものを緩ませ、その隙に外へあふれ出ようとしている。

 それを抑えようとして、アルビナータは唇を噛みしめた。

 悲しいのか悔しいのか、さみしいのか、アルビナータは自分でもよくわからなかった。腹が立っているのかもしれない。一体何に対して激しい感情を覚えているのかも、自分ではわからない。

 ただ、胸が苦しいことだけははっきりしていた。


「ここに、います…………私は、ここに…………!」


 あふれる思いのまま、アルビナータは声をあげる。小さな声だったが、心の中では叫んでいるつもりだった。


「ティベリウス、気づいてください…………!」


 貴方は私が知るティベリウスではないけれど、それでも彼だから。

 私はここにいる。確かに存在している。どうか、気づいてください――――――――

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