第24話 不審者を追って・二
アルビナータのその勘は的中した。金髪の男は周囲に人気がなくなったことを確かめると、すぐ近くの天幕の様子を窺うや、素早く天幕の中へ入ったのだ。アルビナータが男に続いて天幕の中へ入ると、男は持っていた白い袋に小箱を放りこみ、他にも放りこめそうなものがないか見回している。その様子は、従者が主の持ち物を取りに来たふうでは到底ない。
泥棒なのだ。アルビナータはそう確信したが、だからといって止められるわけでもない。金髪の男――盗人が慣れた動きで物色し、素知らぬ顔で天幕を後にするのを見ていることしかできない。
残念なことに、数少ない道行く者たちは堂々とした態度に騙されて、この金髪の男が盗人であることにまったく気づかない。異民族の金髪の従者が珍しくないのでは、それも当然だろう。知り合いなのか盗人に声をかけ、広場で興行をやっている芸人一座を見に行こうと誘う者さえいる。
アルビナータがおろおろしている間にも、盗人は軍上層部の天幕からめぼしいものを盗みだしていく。そして大胆にも、軍上層部の天幕の中でも特に地位が高い武人の天幕に目星をつけた。従者が一人くらいはいるはず、とアルビナータは淡い希望を持っていたが無駄だった。中へ入ってみれば、地位の割には質素な天幕の中を物色する盗人しかいない。
このまま物を盗まれるのを放っておくことはできない。なんとかできないかと周囲を見回していたアルビナータは、はっと気づいて身をひるがえした。皇帝の天幕の前に置かれた演説台近くで暇そうにしていた兵士に駆け寄り、彼が持っていたラッパをもぎ取る。
勝手に宙に浮くラッパを見て兵士がぎょっとするのを尻目に、アルビナータは盗人が物色している現場へ急いだ。後ろから兵士が追いかけてくる声と足音が聞こえる。
現場付近までなんとか逃げると、今まさに天幕から出てきた盗人をアルビナータは発見した。その手首には、アルビナータの手首を飾っているものと同じ意匠の、陽光を返す金細工をあしらった首飾りが握られている。
「あの金細工……!」
アルビナータは思わず声をあげた。それを知らない盗人は、宙に浮かぶラッパを見てぎょっとする。
「貴様、何をしている!」
駆けつけた兵士も盗人を見つけ、厳しい声をあげた。舌打ちした盗人は兵士めがけて突進して、アルビナータの身体をすり抜ける。
アルビナータは、何か熱いものが我が身に触れたのを認識した。
――――――――その瞬間。
何の前触れもなく、アルビナータの五感は遠ざかった。
気づけばアルビナータは、己の身体に対する認識さえもが失せ、意識だけになっていた。音も光も失せた闇と一体化してしまったかのようだ。己の腕や足がどこにあるのか、アルビナータはまるでわからなくなっていた。
その代わりに、前方に門扉があるのをアルビナータは認識した。アルビナータの背丈の何倍もありそうな、王城の門を思わせる巨大な門扉だ。輝かんばかりに白い身はそれだけですさまじい存在感があり、触れるのが躊躇われるほど。鎮座していると表現しても、違和感がない。
普通のものではないに違いないこの扉は、元いた時代に通じているのではないだろうか。希望を抱いたアルビナータは、勇気を出して扉に近づいてみることにした。前へ、と強く願い、扉に近づく。
だが、扉に触れるまでもう少し、というところで、アルビナータの意識は停止した。
扉の向こうから、ティベリウスの気配がしたから。
身体があったなら、アルビナータは無意識のうちに呟くか、強く名を呼ぶかしていただろう。だが今はない。意識の中で名を呼ぶしかない。
何故扉の向こうからティベリウスの気配が、とアルビナータが疑問を意識に浮かべた途端だった。
アルビナータ、と呼ぶ驚いた声が、アルビナータの意識に落ちた。
驚きに染まったアルビナータの意識は、考えることもしなかった。わずかしかなかった扉との距離をなくして、扉に突進する。扉の向こうにティベリウスがいる。そのことしか考えられなかった。
しかし、扉にアルビナータの意識が触れても、扉はアルビナータをティベリウスのもとへ連れて行きはしなかった。
――――――――私のものを返せ
声なき声がアルビナータの意識を支配したかと思うと、後ろへ強く突き飛ばされたかのような衝撃がアルビナータを襲った。直後、意識だけになったときと同様の唐突さで、世界が変わる。雑多で無秩序な情報が意識へ流れこんでくる、時間が流れる世界にアルビナータはまた放り出されてしまう。
失せていた感覚がゆっくりと戻ってくるのに伴い、アルビナータは身体の重みと足裏の地面の感触を感じた。しかし、思考が追いつかない。アルビナータは一瞬自分がどこにいるかもわからず、肩で息を繰り返した。
「な、に……今の…………」
途方もなく長い時間を過ごしたような感覚と恐怖が、アルビナータの身体から離れない。中でも、意識に刻みこまれた声なき声が一際恐怖だった。性別や年齢がわからず、響きもない意思だけではあったが、だからこそか洗脳じみた強制力を帯びた強さを感じさせる。きっともう一生忘れられないに違いない。
「――――――――っ」
心臓がうるさく早鐘を打って、胸が痛い。記憶を辿って恐怖を再び味わい、アルビナータは我が身を抱きしめ、ティベリウスが自分の名を呼んでくれたことを何度も思い返した。そうしなければ、全身を浸す恐怖に心が折れ、潰されてしまいそうだった。
そうして少し落ち着いてから、アルビナータは腕輪の金細工が脈打っていることに気づいた。そこから先ほどの領域に漂っていたものと同じ気配がこぼれているばかりか、手首の上に心臓を乗せられているようで気持ち悪い。アルビナータは、今すぐ腕輪を外して捨ててしまいたい衝動に駆られた。
「……」
原因は考えるまでもない。あの扉を思い出しかけて、アルビナータは強く首を振った。無理やり思考を現実に引き戻す。
アルビナータが心を落ち着かせようとしている間に金髪の盗人は、自分を捕らえかけた兵士を殴り倒し、逃げていた。屈強な兵士たちが、盗人を追いかけていく。
アルビナータは少し悩んで、殴り倒された兵士にラッパを押しつけて盗人の後を追った。しかし、追いつけるわけがないのだ。すぐに息がつらくなって、足を止める。
盗人が逃走しているという伝達はたちまち兵士たちに伝わり、さらにラッパが鳴り響いて、宿営地の中はにわかに騒がしくなった。他の一般兵や上官たちがばたばたと行き交い、上官たちの天幕がある一画や犯人が逃げたほうへ向かう。市場のほうで、賑わいとは違う騒ぎの声が聞こえてくる。近くではともかく見つけだせ、ぐすぐずするな、といった上官の叱咤と、兵たちへの指示が飛んでいた。
アルビナータが門のほうへ向かうと、兵たちが盗人を今まさに追おうとしているところだった。どうやら盗人は、宿営地へ荷を運んだ帰りの馬車を奪って逃げたらしい。あるいは、その馬車も仲間のものだったのかもしれない。
盗人と共に逃げようとしていた共犯者が一人捕らえられたようだが、残りは逃亡中だ。しかも、逃げたのはルディシ樹海がある方向である。逃げこまれてしまうと、皇帝たちの帰還までに事を収めるのはまず不可能だろう。
アルビナータは深呼吸をすると、尋常ならざる気配を見つめた。
盗人が持っていたあの袋の中に、アルビナータが身につけている腕輪の金細工と関連のある品が入っていることは明白だ。だから金細工は、盗人が袋ごとアルビナータを通り抜けた途端に反応し、アルビナータをあの領域へと連れ去ったのである。そうとしか考えられない。
声なき声が何を意味しているのかはわからないが、なんとしても、もう一度盗人を見つけなければならない。そして、金細工と関連があるに違いない品を手に入れなければ。
幸運なことに、アルビナータが持つ金細工からこぼれる尋常ならざる気配が、盗人が逃げた方向をまるで糸か足跡のように示していた。偶然とはいえ、二つの金細工が触れあったためだろうか。ならば、この気配を辿っていけばあの盗人のもとへ辿り着けるはずだ。
仮に見つけたとして、どうやってあのたくましい男から腕輪を奪えばいいのかわからない。隙を見つけてアルビナータが奪っても、腕輪の金細工と関連がある品はこの時代の人々に見えているのだ。追いかけられれば敵わない。そもそも、アルビナータの足で、兵士たちより早くあの男に追いつくことができるのだろうか。
だが、行動しなければ元の世界へ戻るための手がかりは失われてしまうのだ。それなら――――怖がり、迷ってなんていられない。
だから、アルビナータは追いかけた。
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