第4話 残されたもの・二
それでも、現代はティベリウスが暮らしていた世界ではないのだ。ティベリウスの血を分けた弟妹も、従えた側近も、統べた民も誰一人としていない。アルビナータなしでは、自由に人間と言葉を交わすこともできない。彼の孤独が癒されない理由は、今もなくなっていない。
だから、アルビナータは時々不安になる。
アルビナータは今まで、ティベリウスが自分の失くした記憶や現代に復活した理由について執着している様子を見たことがない。世界を歩き、精霊たちを侍らせ、師として友人としてアルビナータと語らう彼に、深い憂いや悲しみを見たことはなかった。せいぜい、懐古の情を濃くにじませる程度で。だからアルビナータは、彼は我が身に何が起きたのか知ることを諦め、今この時間を楽しんでいるのだろうと思っていたのだ。
だがもし、本当はそうでなかったのなら。口にしないだけで、本当は自分がただの人間として生きていた時代を恋しく思っているなら。
何かの史料に自分がこの時代に目覚めた理由を記していたり――――――――自分が生きていた時代へ帰る方法が見つかったなら、知りたいと強く思うのではないだろうか。
そうして知りたいことを知ったとき、ティベリウスはどうするのだろうか――――――――
ティベリウスから伝染したかのように自分もまた憂いを抱えてしまい、ため息もできず、アルビナータはその場を立ち去ることにした。鬱々とした二人では、何を話してもきっと自分たちの心を照らす明るさは見出せない。
だが、アルビナータがあまりにも思いをこめて見つめすぎたからだろうか。アルビナータが踵を返す前にティベリウスはふと顔を上げ、アルビナータを見つけた。表情が緩むと彼を取り巻いていた孤独の空気は失せ、同じ世界にいるのだとわざわざ考えなくても感じられるようになる。
青い目に見つめられて逃げ道を失い、アルビナータは息を飲んだ。応えずにはいられず、たじろいだものの彼に近づく。
「……今日もここに来たんですね」
「……うん。ガイウスの形見になるものは、これしかないから」
さみしさや憂い、その他のいくつかの感情を湛えた透明な微笑みを浮かべ、ティベリウスはそう言った。
ガイウス・ウィンティリクスは、ティベリウスがベネディクトゥス・ピウス帝として在位していた頃の護衛隊長だ。地方の平民出身だった父親がティベリウスの父帝の忠実な側近で、その縁でティベリウスの学友に選ばれた。父親たちが親しかったように二人も親しく、ティベリウスが彼のことを語るとき、公私の面でいつも支えられたのだと、親しみと信頼を声ににじませ語るのが常だった。
二人の眼前にある彫像は、この護衛隊長ガイウスが持っていたものだ。ティベリウスは戦場へ持参していたのを見せてもらったことがあるそうで、歳月を経て損傷した姿であっても一目でわかったのだという。
ねえ、とティベリウスはアルビナータを見下ろした。
「アルビナータ。僕がいなくなった後、ガイウスがどうなったかはまだわからないんだよね?」
「…………はい。ティベリウスが親しかった人に関する新しい資料は、発見されてません」
「…………そっか」
やや躊躇ってからアルビナータが頷くと、ティベリウスはそう、ため息まじりに彫像を見下ろした。
ベネディクトゥス・ピウス帝の護衛隊長ガイウスは、いくつかの文献に名が記されその存在が確認されているだけで、容姿や人となりを知ることができるような資料は一つとして発見されていない。主の失踪以後にいたっては、現存するどの資料にも名が見えず、消息の手がかりすらない。そのため、主を失った後は責任をとって護衛隊長の職を辞し、一私人として残りの生を過ごしたと推測されている。
現代の文字を読むことができないために情報を得る手段が乏しかったティベリウスは、アルビナータとの語らいによってそのことを知った。それ以来彼は時折、自分の護衛隊長の消息を気にしている節を見せる。そのあらわれが、この彫像のもとへ来ることだ。これもまた、アルビナータの不安を掻き立てる要因の一つだった。
ティベリウスは緩く首を振ると、首を傾けた。
「アルビナータ、仕事はもう終わり?」
「はい。ティベリウスは、お土産を皆さんに配りに行くんですよね?」
「うん。お土産はこっちへ来るときに立ち入り禁止区域の端に置いてきたから、取りに行こう」
「はい」
そうアルビナータが大きく頷いてみせると、ティベリウスも緩く笑んで歩きだした。
来館者がほとんど帰って館内は閑散としていたが、それでもまだ奥のほうの展示室から正面玄関へと向かってきている。彼らはアルビナータの異能によって現れたティベリウスを見て、一様に視線が釘付けになった。中にはティベリウスが歩く先にいるのにその場から動けず、先に我に返ったそばにいる人に引っ張られてようやく道を開けたり、仕方なくティベリウスのほうが避けてあげなければならない者までいる始末だ。
それは関係者以外立ち入り禁止区域へ入ってからも似たようなもので、すれ違う職員は皆、最低でも見惚れてしまっている。視界に入る数少ない職員の頬はどれも赤い。
「……やっぱり皆さん、まだ慣れないみたいですね」
「うん。でもそのうちに慣れてくれるよ。コラードやファルコーネたちもそうだったし」
アルビナータが苦笑すると、ティベリウスもそれに続けて曖昧な笑みを浮かべた。
ティベリウスの神がかりな美貌に耐性がないのは、来館者だけではなく職員も同様だ。職員は皆忙しいし、そもそもアルビナータの異能なしに誰もティベリウスとまみえることはできないのである。見慣れるには少々時間がかかる。三ヶ月経った今でも彼を見て平然としていられるのは、コラードなど数名だけだった。
この異様な光景の中心にいてもティベリウスが困ったふうでもないのは、過去の世界でもそうだったからだろう。彼の在位中に記された文献の中にも、彼が歩くだけで老若男女が立ち止まって仕事に集中できなくなるという記述があった。そんな毎日を過ごしていたなら、慣れているのは当然だ。
崖から二人のことを見ていた土の精霊たちに土産を入れた袋を運んでもらいながら、関係者以外立ち入り禁止区域の廊下を歩くアルビナータは、ふとティベリウスを見上げた。
「……ガイウスさんや弟さんも、こんな感じでしたか?」
「ガイウスとデキウス? うん、初めて会ったときは驚いた感じだったかな。でも、それからは特にこういうことはなかったよ。ガイウスはいつも礼儀正しかったし、デキウスも僕をよく慕ってくれてね。すぐ僕のところへ駆け寄ってくるのが可愛かったなあ」
目を細め、ティベリウスは懐かしむ表情で過去を語る。
青銀の美貌が穏やかであることが、アルビナータの胸をざわつかせた。
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