第37話 出会えてよかった・一

 予想どおりにマルギーニの雷が落ち、落ちこんだその夜。夕食の後片付けを終えたアルビナータは、再びティベリウスの私室へ足を向けた。

 部屋の前でたむろしていた風の精霊に促されて入室すると、穏やかな田園風景を題材とした壁画とモザイクタイルが目に入ってくる。だが調度は現代的な意匠で、古代アルテティアの趣の室内装飾とはどうにも似合っていない。


「……アルビナータ?」


 アルビナータが広々とした寝台に近づくと、夕方に目を覚ましてからも横になっていたティベリウスはふわりと微笑み、緩慢な動作で枕を背に上半身を起こした。それを合図にしたかのように、ティベリウスに言われるまでもなく、彼の枕元に侍っていた精霊たちは退室していく。

 アルビナータは寝台横のテーブルに、銀の盆を置いた。


「ティベリウス、葡萄ジュースはどうですか? 夕方に、島の葡萄農家の人がわざわざ持って来てくださったんです。ティベリウスにって」

「そうなんだ、じゃあもらおうかな。ちょうど喉が渇いたんだ」


 ティベリウスが望んだので、アルビナータは古代アルテティア様式の水差しからゴブレットに注いで彼に渡した。一口飲んで、ティベリウスは顔をほころばせる。


「ああ、美味しいね」

「はい、私もさっき飲んだところなんです。精霊たちにも好評でした。あ、ワインも一樽届けてくれてますから、身体の具合が良くなったら飲んでくださいね」

「ワインもあるの? やった。じゃあ今度、その農家の人に礼を言わないとね」


 と、ティベリウスは青白い顔ながら目を輝かせた。彼は儚げな外見に似合わず、酒が好きなのだ。それも、かなりの酒豪である。そういう逸話があるし、アルビナータがドルミーレに就職する前は、アルビナータの酒好きな父と飲み比べをしたこともある。

 寝台の端にアルビナータを座らせ、ティベリウスは問いを口にした。


「それで、アルビナータ。ファルコーネとマルギーニにはどう報告したの?」

「精霊たちが今朝話してくれたことを、そのまま話しました。過去へ行く方法があることを知る人は少ないほうがいいと思ったんですけど、でも『帝政』がああなってしまった以上、いつまでも隠しておけることではありませんし……」

「それがいいよ。これからどうするにしろ、二人の協力は不可欠だもの。昨日のことを知った上で対策を練ってもらわないと……それで、二人は『帝政』の僕の章をどうするつもりなの?」

「金細工を触れさせなければあの世界へ行くことはないでしょうから、今のところは様子を見るとのことです。翻訳は終わってませんし、収蔵庫に封印するわけにもいきませんから」


 しかし、アルビナータが時空を超えたことと記述の変化については、外部の者たちはもちろん、の学芸員たちにも知られるわけにはいかない。時空に関する研究は、国際的に禁止されているのだ。アルビナータが実際に時空を超えてしまったなんて知られようものなら、一体どれだけの大問題になることか。

 昨日起きたことの真実を知っているのは、アルビナータとティベリウス以外では、精霊たちと、コラード、ファルコーネとマルギーニだけにしなければならない。アルビナータたちは、重い秘密を背負うことになってしまった。

 アルビナータは顔を曇らせた。


「『帝政』がああなったのは、私が過去のティベリウスに会ってしまったからですよね……」

「……本来の歴史で僕と君が会っていないのなら、多分、そうだろうね。オキュディアス一族が歴史の小さな改変に気づかないまま記して、今に至ったことになっているんだと思う」

「……」


 ティベリウスは目を伏せ、アルビナータの問いを肯定する。少しばかりぎこちない調子なのは、アルビナータを気遣おうとしたからなのだろう。

 今のところ、ベネディクトゥス・ピウス帝の章の一部が書き変わるという形でのみ、過去でのアルビナータの行動は現代に影響していることが確認できている。しかし、他はどうか。大きな歴史の流れを変えていなくても、名もなき人々の生死を変えているかもしれない。歴史は無数の人々の生と死、出会いと別れが重なりあって織り成していくもの。たった一つの小さな出来事が物事のずれを生じさせ、それが積み重なって後世に大きな影響を及ぼすことだって充分ありうるのだ。

 アルビナータは宿営地でラッパが宙に浮くという不可思議な現象を演出してしまったし、ガイウスと会った。そんなささやかな歴史の改変が、もし数多の人々の人生に影響していたとしたら。

 ――――――――いや、アルビナータはもっと大変なことをしてしまっている。


「…………ティベリウス。やっぱり私、もう一度あの時代に」

「駄目だよ」


 行ったほうが、とアルビナータが言おうとした途端、ティベリウスは鋭い声で反対した。その声と表情に、アルビナータはびくりと身体を一瞬震わせる。


「アルビナータがそんなことをする必要はないよ。僕の章のの記述は変わってしまったけど、僕はこうして存在している。それに、君は身体があの時代の樹海へ飛ばされてしまうまで、精神だけであの時代をさまよっていたんだろう? 精神だけの状態のときも、兵士たちに何か存在を知られるようなことをしたわけでもないなら、きっと誰の人生も変わっていない。大丈夫だよ」


 ティベリウスの静かな声に熱が籠り、片方の手がぎゅっと握りしめられた。


「アルビナータ、君はあの世界で何日も一人ぼっちになって、怖い目にも遭ったんだろう? この世界じゃない領域で、君があの時代の僕に慰められているのを見たよ。あんなに泣いて…………何があったのかはわからないけど、君が大変な目に遭っていたことは知っているよ。時空を超えることはこの時代で禁止されていることも、聞いているよ」

「……」

「大丈夫だよ。もし魔法使いや学者たちが何かのきっかけで君のことを疑うようになったとしても、僕が守る。ファルコーネやマルギーニ、コラードだって上手くごまかす方法を考えてくれるよ。……だから、君は危ないことをしなくていい。また怖い目に遭いに行かなくてもいいんだよ」


 厳しい表情から一転して微笑み、髪を撫でるティベリウスの手と声は優しい。しかし、稚拙な反論を許さない迫力の残滓はまだ消えていない。皇帝だったのだと納得できる、人を従わせる声音と空気だ。アルビナータはもう反論の言葉を継げなくなってしまった。

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