第五章 私にできること
第36話 帰還の朝
朝一番に出勤したアルビナータが朝会のため会議室へ向かっていると、廊下でコラードと会った。
「コラードさん、おはようございます」
「アルビ、お前もう出勤すんのかよ」
アルビナータが近づいて見上げたコラードの顔は、半ば呆れた様子だ。コラードは、昨夜のぐったりしているアルビナータを見ているのである。当然だろう。
「もう平気ですから。朝御飯もしっかり食べてきました」
命の恩人の片割れに、アルビナータはにっこりと笑顔を浮かべてみせた。
アルビナータがクロノス神の力によって過去世界から帰還して、一晩。アルビナータはすっかり復調していた。指一本動かすのも億劫ですぐ眠りに就いてしまった昨夜が嘘のように、身体が軽い。朝早くに目覚めたこともあって、アルビナータは昨日できなかった仕事をしようと早めに出勤していたのだった。
アルビナータは頭を下げた。
「精霊たちから聞きました。昨日は助けてくださって、ありがとうございました」
「いいって別に。また姉貴から逃げるのに付き合ってくれたらいいさ。今度はリディニにでも行くか」
と、コラードはアルビナータの白い髪をかき回す。照れているのだ。面倒見のいい性格で感謝されるのは慣れているかと思えば、意外にそうではないことをアルビナータは知っている。
「ルネッタさんは大丈夫なんですか?」
「ああ、一応家に様子を見に行ったら元気だったから、逃げてきた。そっちこそ、ティベリウスはどうなんだ?」
「それが、今朝、私が見舞いに行ったときはまだ目を覚ましてなくて……今は、精霊たちに付き添ってもらってます」
問いと共に、髪をかき回すコラードの手が止まる。アルビナータは顔を曇らせ、現状を説明した。
アルビナータを過去の世界から連れ戻すため、ティベリウスが何をしたのかは、朝食の席で精霊たちに聞いたから知っている。出勤前に見た寝台で眠る彼は、ただでさえ白い肌がさらに色を失っていて、寝台がまるで彼のための棺のように思え、アルビナータはぞっとしたほどだった。
今回の騒動の被害は、ティベリウスだけではない。コラードには心配をかけたし、ルネッタは体調を崩し、収蔵庫や展示室も資料の保存環境が一時あやうくなった。収蔵庫の扉の修復費用と予備の魔法道具の購入費は、とんでもない額になるに違いない。被害の数を数えれば数えるほど、周囲に多大な迷惑をかけた自分がアルビナータは情けなくなる。
肩を落としていると、コラードはぽんぽんとアルビナータの頭を撫でた。
「お前がそんなに落ちこむ必要はねえよ。あの腕輪をお前にやったのは俺だし、ティベリウスでさえ魔法がかかってるって気づかなかったんだ。つか、巻物がなきゃただの腕輪だし。そんなもんを基本は一般人のお前が警戒するなんて、無理だろうが」
「……」
「お前は、腕輪と木の軸に似たような文があったから不思議に思って調べようとしただけだろ? 学芸員なら当然で、今回はたまたま妙なもんに引っかかった。それだけだ」
「…………はい」
言い方こそそっけないが、コラードの眼差しも声も、ただ後輩を慰める優しさに満ちている。罪悪感と自分への腹立たしさはまだ消えないものの、少しだけ救われた気持ちでアルビナータは頷いた。
「で、昨日のことはどうすんだ? ティベリウスとお前はぶっ倒れてたし俺は精霊どもから話を聞けねえし、何が起きたのかわかんなかったからな。昨日は、お前が無事で、原因も後日報告するって館長に報告しといた。……まあ、あれはさすがに報告しないとまずいぞ。魔法研究所とか魔法使いの連中にゃ絶対話せねえし……」
「……ですね」
コラードが何のことを言いたいのかすぐに察し、アルビナータは視線を下げた。
アルビナータが現代に戻った後、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章は血の跡も力の波動も完璧に失せ、普通の巻物に戻った。しかしそれは、時空の門が閉じられ、周囲へ影響を及ぼさなくなったというだけだ。その代わりとでも言うかのように、皇帝がルディシ樹海を訪れたあたりの場面に、アルビナータが巻物に目を通したときには書かれていなかった記述が付け加えられていた。
『帝はルディシ樹海で、稀有なる娘と出会った。紅玉が如き瞳、純白の髪。いずれの異民族とも異なる装いをしたその姿は愛らしく。精霊と神の加護は、滾々と湧き出でる泉の如し。彼女こそ、神がこの純潔なる帝に与えたもうた運命の乙女か』
そんな文で始まって、皇帝が少女の守護によって邪悪な者を退けたことが記されていた。その後少女は神と共に去り、皇帝は失踪し、異母弟が代わって皇帝の座に就いたことまでを綴り、ベネディクトゥス・ピウス帝の章は終わっている。
あの巻物を記す際に参考になった事実そのものがアルビナータの介入によって改竄されてしまっているのだから、巻物の記述が一部だけ変わってしまったことを外部の者に知られる可能性はまずないはずだ。だがドルミーレの被害やティベリウスのこと、クロノス神像にしばらく触れていたためかコラードは記述の変化に気づいていることを考えれば、今更もっともらしい嘘なんて思い浮かばないアルビナータは事実をそのまま報告するしかない。そうすると、たとえ記述の変容について語らなかったとしても、館長や主任のマルギーニは記述に変化がないかと疑うだろう。――――ベネディクトゥス・ピウス帝の章の記述がささやかでも変化してしまったことは、アルビナータたちだけの秘密にはできないのだ。
「とりあえず、館長と主任に報告して、どうするのがいいか聞いてみます。昨日のことは、まだ報告はしてないんですよね?」
「ああ。一緒に行ってやろうか?」
「いえ、嬉しいですけど、一人で行きます」
アルビナータは緩々と首を振って、先輩の助けをきっぱりと断った。
経緯はどうあれ、昨日の騒動はアルビナータの行動が原因なのだ。腕輪と巻物の木の軸を近づければどうなるか知らなかったというのは、言い訳にならない。ましてや、怒られたくないなんて甘えは許されることではない。
コラードはそれ以上何も言わなかった。そうか、とだけ言い、アルビナータの髪をまたかき混ぜた。
そうこうしているうちに会議室の前に着き、コラードがさあ扉を開けようとしたちょうどそのとき。会議室の扉は、内側から勢いよく開けられた。二人があ、と言った次の瞬間、アルビナータの視界は柔らかなもので遮られる。
「まあアルビ、出勤できたのね! よかったわあ」
「お、おはようございます、ルネッタさん……」
自分をぬいぐるみのように抱きしめる腕の中で、アルビナータはなんとか彼女に挨拶した。今日はいつになく、抱きしめる腕の力が強いような気がする。
心配してくれていたのも彼女が復調しているのも嬉しいが、これはちょっと息苦しいし、恥ずかしい。何より通行の邪魔だろう。マルギーニに見られれば、確実に雷を落とされる。
「おい姉貴、そのくらいにしてやれよ。アルビが困ってるだろ」
「あらコラード、貴方もぎゅうってしてもらいたいの?」
「誰がんなこと言ったんだよ!」
コラードが呆れ声でルネッタをたしなめようとすれば、このとおりである。さらにルネッタがアルビナータを離し、コラードに抱きつこうとするものだから、もはやいつもの光景だ。学芸員たちは日常茶飯事に生温かい目を向けるばかりで、それよりもと、資料にかかっていた魔法によって突然意識を失ったことになっているアルビナータを気遣い、声をかけてくれる。
この時間に帰ってきたのだと、今朝と同じあたたかな思いがアルビナータの胸に灯った。
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