第9話 皇帝の庭・一

「――――――っ」


 息を詰まらせると同時に目を開いたアルビナータは、荒い息をつき、青ざめた色をした天井を呆然と見つめた。動きだした直後の思考では、ここがどこなのかわからなかった。

 夢を見ていたのだと理解して、アルビナータは全身に溜まっていた空気をすべて外へ押し出すように息を吐いた。瞬きを繰り返して首を振り、あれは夢だ、と自分に言い聞かせる。心臓は夢の余韻を残してまだ鼓動が早く、身体もまた小刻みに震えていた。

 この悪夢を、アルビナータは三ヶ月前から頻繁に見るようになっている。原因は間違いなく、何度も繰り返された誘拐とその未遂だ。中でも、最初と最後の事件で自分を襲った恐怖をアルビナータは忘れられない。最後の誘拐未遂事件から一ヶ月半が経った今でも、こうして安らかであるべき夢の中でさえアルビナータを苦しめていた。


「……」


 深呼吸を繰り返していくらか心を落ち着けると、アルビナータはゆっくりと身を起こした。月光が差し込む窓へ首を巡らせば、月光にかき消されそうな星々を抱く夜空と、それにほとんど同化した海が一望できる。

 止まない海の音は、悪夢の名残に震えるアルビナータの耳には優しく聞こえた。だが、あんな夢を見たばかりで眠れるはずもないのだ。意識はすっかり冴えてしまって、眠気なんて当分訪れそうにない。

 長息をついたアルビナータは、もぞもぞと寝台から下りた。白い寝巻の上に翡翠色の大判のショールを羽織り、部屋の外へ出る。


 アルビナータが部屋を出ると、柱廊に取り囲まれた中庭は今夜もまた、人間を拒む幻想に包まれていた。

 月光に照らされた中庭の中央、夜風を受けては水面が揺らめく水浴び場の周辺。そこでは様々な大自然の要素から生まれた精霊たちが集い、思い思いに過ごしていた。色とりどりの光と共に彼らが放つ大自然の気配は中庭の隅々にまで満ちていて、そのせいでか、波の音は絶えないのに海から漂う潮の匂いがどうにも遠い。風の精霊たちがどこかへ飛ばしてしまっているようだ。

 どこまでも広がる大自然のただ中にいるような心地の中、月と星に見守られた精霊たちの舞踊にアルビナータが見惚れていると、精霊たちとは違う気配がアルビナータの意識にぽたりと落ちてきた。はっと我に返って、アルビナータは視界の端で動くものに意識を向ける。月に照らされて一層輝く、白と青銀。

 書斎から姿を現した一画の主は、心配顔でアルビナータの前までやってきた。


「アルビナータ、こんな時間にどうしたの? また悪い夢を見たの?」

「…………はい」

「じゃあ僕が薬湯を作るよ。おいで」


 アルビナータが躊躇いがちに頷くと、ティベリウスはそうアルビナータの手をとって、厨房へ歩きだした。アルビナータがあ、と言う間もない。


 ドルミーレの正面玄関から見て最奥に位置するこの‘皇帝の間’に、アルビナータは一ヶ月半ほど前から下宿している。以前はガレアルテの小さな大衆食堂に下宿していたのだが、三ヶ月前からはじまった度重なる誘拐未遂とそれに伴う周囲への被害によって精神的に不安定になってしまったため、療養を兼ねて下宿先を変更するよう館長たちに強く勧められたのだ。ドルミーレは夜でも頑強な警備員が館内を見回っているし、とりわけこの‘皇帝の間’はティベリウスと精霊たちに守られている。ガレアルテの町を歩くには不便であるが、これほど堅固で閑静な下宿先は他にない。


 ‘皇帝の間’の隅にある、中世に簡易厨房として改装された小部屋の前に腰を下ろし、アルビナータが待っていると、しばらくしてティベリウスが厨房から出てきた。

 柱とアルビナータ自身の影に隠れ、渡されたガラス細工の杯の中で水面を揺らす液体の色はわからない。が、湯気と渋みのある植物の匂いがアルビナータの鼻先をくすぐり、手のひらに伝わってくるほどよい温度と共に、冴えた思考を緩ませていくような気にさせる。

 アルビナータは、傍らに腰を下ろしたティベリウスを見上げた。


「ティベリウス、これは?」

「グレファス族に伝わる薬湯だよ。アーヴァントへ行ったついでに樹海にも行って、材料を集めておいたんだ。アルビナータが悪い夢を見たときにと思って」

「私のために? ……ありがとうございます」


 土産の重しに続く気遣いに、アルビナータは思わず頭を下げた。母のように細やかな気遣いは、ただただ申し訳ない。


 ともかく、古に滅んだ部族の文化の一欠片が今、アルビナータの手の中にあるわけだ。これは飲まなければなるまい。アルビナータは心を躍らせて、ぐいと杯を呷った。

 一口飲んでみた途端、予想と違わぬ苦みが口の中に広がってアルビナータは顔をしかめた。が、それが引くと、いかにも植物由来といったふうのさわやかな味がとって代わる。

 アルビナータは目を瞬かせた。


「変わった味ですね……本当に薬みたいです」

「あはは、そうだね。でも、落ち着くでしょう?」


 と、ティベリウスは笑いながら首を傾ける。それには同意だ。水温のおかげなのか薬湯がさっそく効いているのか、二口、三口と飲むほどに身体が温かくなり、頭の片隅に残っていた悪夢の残滓が溶けていくような気がする。


「ティベリウスは、これをお母様に教えてもらったんですか?」

「うん。母さんは巫女だったからね。おばあ様やおじい様も、薬草から薬を作る方法を教えてくれたんだ。皇帝になってからも、この時代に目覚めてからも全然作ってなかったんだけど……よく作り方を覚えているものだよね」


 苦笑し、ティベリウスは精霊たちの舞踊に目を向けた。


 ティベリウスは、元々は皇帝になる運命ではなかった。何故なら彼の母は帝国北部の樹海付近を本拠地とするグレファス族の巫女で、地域に常駐する古代アルテティア帝国の一軍団を率いていた将軍と出会い、たまたま愛されただけだったのだ。その将軍が母の前から去った後に産まれたティベリウスは、父の顔を知ることなく、父に存在を知られることもなく、グレファス族の少年として健やかに育てられていた。十歳のとき、国境外の異民族と手を結んだ他部族の襲撃によって家族を皆失い、駆けつけた皇帝就任から間もない父帝に引き取ってもらえなければ、帝国の辺境で一生を終えていただろう。――――薬草の知識を、こうしてアルビナータのために役立てることもなかった。

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