第10話 皇帝の庭・二

 精霊たちの戯れを見つめる横顔は、星と月の光に照らされて、昼間よりもより神秘的だ。しかしアルビナータは、彼の眼差しに郷愁と似て非なる感情の色が濃く表れているのを見てとった。眼前の光景を映していない。そう確信する。


「……ティベリウスは、大丈夫ですか?」


 アルビナータは、ティベリウスがはるか彼方にあった己の人生を見つめているのだと気づき、何とも言えない気持ちでその横顔を見上げた。


 九歳のときに出会ってからずっと、ティベリウスの教え子として、また友人として、アルビナータは同じ時間を過ごしてきたのだ。こうしてアルビナータを心配してくれているが、彼が夕方から憂いをまとったままであることくらい、アルビナータにはわかる。


 ティベリウスが落ちこんでいる原因は、わかっている。『帝政』ベネディクトゥス・ピウスの章に、自分の失踪の真相が記されていなかったからだ。


 コラードが競り落とした後、ベネディクトゥス・ピウス帝の章は記される当人――――ティベリウスに渡された。誰よりもまず当人が知りたいことだろうからと、コラードが気を利かせたのだ。しかも、アルビナータを付き添わせてティベリウスをドルミーレへ帰した。がさつな外見と普段の振る舞いに反してこういう細やかな配慮ができるのは、コラードの美点の一つである。


 そうしてアルビナータとティベリウスは、館長とマルギーニにこの大発見を報告した後、‘皇帝の間’でさっそくベネディクトゥス・ピウス帝の章を紐解いた。皇帝失踪という古代アルテティア史最大の謎が記されているかもしれないのだから、当たり前である。皇帝失踪の謎を解き明かすことは、ティベリウスのためになるとアルビナータは信じていた。

 だが、章の最後に記されていたのは、他の文献にも記されているようなこと――――ガイウスたちが必死に探したが手がかりを一つも見つからなかったことと、若き賢帝の失踪に帝国中が震撼したことだけ。アルビナータたちの期待を裏切って、古の語り部は賢帝失踪の真実を記してはくれていなかったのだ。


『仕方ないよ。どうしてかはわからないけれど、父上が隠蔽した事件のことさえ暴いたオキュディアス一族が、自分たちの存在理由みたいにしていた歴史書に書いてないのだもの。諦めるしかないよ』


 ギリル語で書かれた巻物の最後の部分を、解読できるとはいえ速さで劣るアルビナータのため声に出して読んだティベリウスは、そう息をついて言った。淡々とした言葉とは裏腹に、その唇は諦めや失望の形にゆがんでいて、とどめを刺されて開き直るしかないと言わんばかりの表情だった。


 アルビナータの質問の意図を理解したのだろう。ティベリウスは、申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんね、心配させてしまって。でも今は、そんなにつらいわけじゃないよ。確かに、どうして自分が皆の前から姿を消して、この時代に人間でも精霊でもないものとして覚醒したのかわからなかったことはすごく残念だけど……けど、書かれていないのだから仕方ないよ」

「……」

「ただ、自分が何をやってしまったのか、本当に何一つ思い出せないのか、また考えるようになってね。自分のことなんだから、僕が誰よりも知っているはずだし。……何度思い出そうとしても同じことだと、わかってはいるんだけどね」


 最後に小さな一言が付け足されると、無理やりといったふうの笑みに感情がにじみ出た。足掻き続けて疲れてしまい、他にどうしようもなくなった末とでもいうような、諦めと未練。あるいは、今も過去を振り返る己に対する嘲りなのかもしれない。

 たまらず、アルビナータはティベリウスのトーガの裾を掴んだ。


「…………ティベリウス。その、無理、しないでください。話を聞くくらいなら、私にもできますから」

「うん。……ありがとう、アルビナータ」


 ティベリウスは瞬きをした後、そう、柔らかに笑んでアルビナータの頭を撫でた。今度は無理をしたふうではない、自然な笑みだ。アルビナータは少しだけほっとした。


「さあアルビナータ、そろそろ寝ないと駄目だよ。明日の仕事に遅刻してしまうよ」


 緩んだ空気の仕上げをするように、ティベリウスは明るくした声でアルビナータを促した。厨房の流し台に杯を置くと、またアルビナータの手を引いて先導する。

 アルビナータの部屋に着くと、ティベリウスはアルビナータの頭を撫でた。


「じゃあ、おやすみアルビナータ。いい夢を」

「はい。おやすみなさい、ティベリウス」


 ティベリウスと笑顔を交わしあい、アルビナータは自室に下がった。それを見送って、ティベリウスの気配も遠ざかっていく。


 寝台に入って天井を見上げ、アルビナータは先ほどのやりとりのことを思い出した。諦めに似た息をつき、思考を打ち切って強く目を閉じる。

 十六歳の子供でしかないアルビナータでは、ティベリウスの憂いを取り払ってあげることも、核を成しているだろう孤独の深さを完璧に推し量ることもできない。それどころかこうして、彼が守護する箱庭の中で守られてすらいる。――――無力だ。

 ただ、心から笑っていてほしい、とアルビナータは強く思う。過去を想って憂うよりも、現代の楽しさに笑っていてほしい――――アルビナータたちと一緒に笑ってほしい。

 誰とも分かちあえない孤独を抱えたあの人のために、自分は一体何ができるのだろう――――――――


 薬湯の効果は絶大で、アルビナータが意識して呼吸を緩やかにしていると、あんなに遠かった眠気がすぐ訪れた。

 これならきっと大丈夫だ。悪い夢なんて見ない。朝はすぐ来るだろう。

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