第27話 見えざる者・三

 壁を壊そうとする力の波を防ぎながら、ティベリウスは盗人に向けて力の刃を放った。が、刃は盗人に届く前にかき消されてしまう。もう一度放とうとしても隙は窺えず、攻撃を防ぐのでティベリウスは手一杯だ。

 それほどの力を、一流の魔法使いでもない一般人が操りきれるはずもなく、盗人の身体は勝手に傷を負っていく。だが、精神を力に飲まれた盗人はそれをまったく気にせず、狂気の表情で力を放ち続けるのだ。死ぬまで攻撃をやめないに違いない。


 盗人の身体が限界を迎えるのが先か、ティベリウスが力負けするのが先か。二つの未来が頭をよぎり、アルビナータは思考が真っ白になった。


 目の前にいるのは、アルビナータの師であり友人でもあるティベリウスではない。しかし間違いなく、過去の彼なのだ。

 この時代のティベリウスが死ねば、アルビナータが現代へ戻ってもそこに彼はいない。過去だけではなく、現在でもアルビナータは彼を失ってしまうのだ。


 何かしなければならない。でも、魔法を使えないアルビナータが何をすれば――――――――


「……!」


 アルビナータは大きく目を見開いた。

 ある。それが有効なのかどうかはわからないが、できることが。


 アルビナータはよろよろと立ち上がった。やめろと訴えている心の声が聞こえる。目に、自分をさらおうとした男たちの恐ろしい幻影が見える。

 血走った目をする者、にやにや笑う者、冷たい表情をしている者。――――――――短剣を振りかざす者。


「…………っ」


 白刃を思い出し、アルビナータの全身が大きく震えだした。立ったばかりだというのに、膝が今にもくずおれそうだ。防衛本能は思考の思いつきを全霊で拒否し、確実に生き延びる道を選ぼうとしている。

 けれど、このままではティベリウスが殺されてしまう。我が身とアルビナータを守ろうとしたばかりに。


『早くお逃げ!』


「――――――――っ」


 暴漢に刃を浴びせられたアニータが、それでもアルビナータを逃がそうと叫んだ声を思い出した瞬間。全身の震えと拒否を無視し、アルビナータは何も持たずに走りだした。

 この時間に属していないアルビナータの身体は、ティベリウスの身体をすり抜け、彼が放つ力も通り抜け、盗人へ向かっていく。足音でかそれに気づいたティベリウスが声をあげ、力の糸の動きで気づいた盗人の目がアルビナータを向いた。


「アルビナータ!」


 盗人がアルビナータに向けて力を放ち、ティベリウスが悲鳴のような声をあげる。アルビナータはぎゅっと目をつむった。足を動かすのはやめない。

 衝撃は何もなかった。何一つなく、アルビナータは自分がまだ走っているのを自覚する。生きていると理解して瞼を開けてみると、盗人の驚愕した表情がすぐ目の前だ。もう、腕一本も距離は開いていない。

 そしてアルビナータは、盗人が手に持つ装身具に自分の腕輪のそれを押し当てた。


 刹那、アルビナータの視界が真っ白になった。あの領域の扉が見え、アルビナータの周囲に漂うきらめきを吸いこんでいく。

 ものすごい速さで縮んでいく世界にアルビナータがいたのは、一体どれだけの時間だったのか。アルビナータが現実を認識したとき、あれほど強大だった力は消え失せ、場を満たしていた光も失せていた。ティベリウスも力を収めたため、辺りには静けさと力の残滓が争いの痕跡として残っている。


 盗人がその場に膝をついて倒れてきたので、アルビナータは渾身の力で彼を抱き留めた。が、かなりきつい。息が詰まって身動きがとれない。

 剣を鞘に収めて駆け寄って来たティベリウスが、アルビナータに代わって盗人の身体をゆっくりと地面に寝かせた。傷つきはてた男の胸はかすかに上下していて、それが彼の生をかろうじて証明していた。


 終わったのだ。アルビナータはそれを視覚で認識し、ぺたんとその場に座りこんだ。

 ティベリウスもそれに続き、アルビナータの前に腰を落とした。疲れた、とばかりに長い息をつく。


「無茶なことをするね、アルビナータ。あんな強い力を放っている人に向かっていくなんて……草を踏む足音で気づいたときは、肝が冷えたよ。君は普通の女の子なんだから、あんな危険なことはもうしちゃ駄目だよ」


 と、ティベリウスは指を一本立ててアルビナータを諭す。まるで子供に説教するような仕草と表情。まったく迫力がない。

 その動作に、アルビナータは違和感を覚えた。

 ――――ティベリウスが、アルビナータを見ている。


 そう、気づいてみれば、最高級のサファイアを思わせるティベリウスの青い目がアルビナータにまっすぐ降り注がれていた。この時代では一度も目が合ったことはないのに。現代にいるかのように二人は今、互いの顔を見ていた。

 アルビナータの疑問を表情から汲み取ったのか、青い目が柔らかく細められた。


「どうしてかはわからないけど、突然、君の姿が見えるようになったんだ。だから、多分」


 そう言って、ティベリウスはアルビナータに手を伸ばした。アルビナータの頬に触れ、真っ白な髪に触れる。

 ほら触れた、とティベリウスは子供のように無邪気に笑った。


「ありがとう、アルビナータ。君の勇気のおかげで、僕は死なずに済んだ。僕の臣下の持ち物も無事だった。……ありがとう」


 礼を繰り返し、ティベリウスはアルビナータの頭を撫でる。

 アルビナータの髪は、風でも自分の手でもないものに揺らされていた。触れる手は温かく、懐かしい感覚をアルビナータに伝える。――――ティベリウスがたまにしてくれる、アルビナータにとっては馴染み深い感覚。

 アルビナータの肩と唇が震えた。


「――――っ」


 一つ、二つ、三つ。アルビナータが長い睫毛を瞬かせるたびに、大きな鮮紅の目から落ちていく。止めようとしても無駄で、次から次へと雫は落ちていくのだ。

 ぎょっと目を見開いたティベリウスはやがて、痛ましそうに顔をゆがめた。


「…………一人ぼっちで、誰にも声をかけてもらったり触ってもらえなくて、さみしくて怖かったんだね。でも、もう大丈夫だよ。僕はここにいるから。……君も、ここにいる」


 アルビナータの頭をまた一つ撫でて、ティベリウスは言う。その声は優しさや労わりの心だけでできていて、心を撫でる見えざる手のようだ。アルビナータの心にゆっくりと沁み入り、こちらへ来てから堅く閉ざしていた扉をゆっくりと開けていく。


 もう、怖いものはないのだ。そう思うと、また泣けてきた。


 アルビナータの涙は止まらない。彼女が心のままに泣いている間、ティベリウスはアルビナータの頭を時々撫でてくれていた。

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