第30話 まだ大丈夫・一

 感情と共にあふれた涙が枯れると、アルビナータの頭を撫でていた手も止まった。


「そろそろ落ち着いてきた?」

「……はい。すみません、急に泣いてしまって」


 目を擦りながらアルビナータは言う。堰を切ってあふれた感情と涙が鎮まってくると、代わりに人前で泣いたことが恥ずかしく思えてきた。誘拐されかけたときやドルミーレで暮らし始めたばかりの頃も情緒不安定になりはしたが、ここまで大泣きしたのは随分久しぶりな気がする。


「仕方ないよ。今までずっと、一人ぼっちだったんだろう? 誰にも姿が見えず、声も聞こえないままで。しかも、あんなに強い力に立ち向かっていったばかりだったし。こうして誰かと話せるようになって、不安や緊張が切れて泣いてしまうのは当然だよ」


 そうアルビナータを慰める微笑みは温かく、優しい。現代でティベリウスが見せてくるものとまったく同じそれに、アルビナータはまた泣きそうになった。

 ティベリウスに盗人の上半身を支えてもらいながら、アルビナータは慎重に盗人の腕から腕輪を抜き取った。損傷はないかと、学芸員としての習性と純粋な興味から観察する。


 紐で繋がれた宝玉と金細工が揺れる、実に見事な代物だ。赤や緑、黄土の宝玉に飾られ、アルビナータが身につけている腕輪のものと同じ意匠の金細工以外にも、精緻な透かし細工がされた金細工がいくつか用いられている。これ一つ身につけるだけで衆目を集めるのは間違いない。派手な色遣いの装身具を好むルネッタが見ればきっと、目を輝かせることだろう。

 ざっと見たところ、目立った損傷もない。ほっとしたアルビナータがしげしげと眺め回していると、ティベリウスも横から覗きこんできた。


「こうして見てみると、君が身につけている腕輪のものと、本当にそっくりな金細工だね。同じ人が彫ったのかな」

「そうなのかもしれません。これは市場で人に買ってもらったものなので、どういうものなのか、私はよく知らないんです」


 ぎくりとしながら、アルビナータは平静を装って答える。オキュディアス一族が職人に作らせた金細工であることは、アルビナータの時代のティベリウスが知らなかったことなのだ。この時代のティベリウスには言えない。

 アルビナータの動揺に気づかず、ティベリウスは一人納得した。


「市場で? じゃあ、元々は一つだったものが、何かの理由で別々に売られてしまったのかもしれないね。こんなに手のこんだ品なら、金細工一つだけでも高く売れるはずだもの。もしかしたら、対になる首飾りがあって、それがばらばらにされて売られたのかも」

「……」

「とりあえず、これは、今は君が持っていてくれないかな。さっきの戦闘からすると多分、君の腕輪が力を無効化してくれるだろうから」

「はい」


 アルビナータは頷き、地面に転がる装身具を拾うと失くさないよう胸ポケットにしまった。金属の冷たく硬い感触と共に、あの力の振動がかすかに肌に伝わってくる。

 ティベリウスはじゃあ、と頷いた。


「あとは、残りの盗品だね。この男の仲間が持っていた分はほとんど取り戻したけど、この男が持って逃げたぶんはまだ見つかっていないんだ」

「……貴方は皇帝なのに、盗まれた品を取り返すために、わざわざ?」

「うん。ここは僕の故郷で、僕ならここの精霊たちに色々と教えてもらえるから。兵たちがしらみつぶしに探すよりも効率的だろう? それに、こんな国境付近で下手に軍を動かしていると、他の部族を刺激してしまうし。精霊たちも快く思わないしね」


 目を丸くしたアルビナータにそう答え、ねえ、とティベリウスは続けた。


「アルビナータ、宿営地へおいでよ。それはガイウス……僕の護衛隊長の持ち物の一つなんだ。家に代々伝わる、不思議で大事なものなんだって。彼に尋ねれば、何かわかるかもしれない」

「これ、ガイウスさんのものなんですか?」

「うん。それでもし、その金細工を調べても元の場所に帰れなかったら、皇宮にいればいいよ。皇宮には帝国だけじゃなくて他の国や地域から来た人が多く出入りしているし、ルディラティオもそうだもの。君と同じところから来た人が見つかるかもしれない」


 どうかな、とティベリウスは首を傾ける。帝国の皇帝が初対面の素性の知れない娘に与えるとは思えない厚意に、アルビナータは戸惑った。


「それはとてもありがたいのですけど、でも、他の皆さんが何と言うか…………」

「うん、ちょっと怪しむかもしれないけど、きっと大丈夫だよ。君は悪い子じゃないもの。僕、君に盗人を捕まえるのを手伝ってもらったって言うから」


 と、ティベリウスはアルビナータの懸念を笑って否定する。渋るだけでどうとでもなる、とでも考えているのだろう。まったく気にしたふうではない。

 いや絶対、色々と言われるだろう。彼はこの大帝国でもっとも高貴、もっとも大切な存在なのである。素性がはっきりしないあやしい小娘を拾って皇宮に住まわせるなんて、周囲が反対するに決まっている。というより、しないほうが問題だ。


 聡明と名高いベネディクトゥス・ピウス帝なら、そんなことがわからないはずがないのに。彼の呑気さに、アルビナータが呆れたそのときだった。


「陛下!」


 疾走する馬の足音と共に、人を呼ばわる声が樹海の静寂を破った。低くもよく通る、張りのある男の声だ。

 そんなことはまったく想像していなかったものだから、アルビナータもティベリウスもびくっと肩を揺らして驚いた。声に怒りが多少入っているように聞こえたからもあるだろうか。


 大柄な黒馬は、まっすぐにアルビナータたちのほうへ駆けてくる。乗っているのは魔法道具の明かりに照らされた、黒髪に鮮紅の瞳、生成り色のトゥニカ姿の、見るからに鍛えぬかれた体躯の男だ。少し斜め後ろを、ティベリウスの愛馬アルブムがついて来ている。

 ガイウス・ウィンティリクス。ティベリウスの身辺を警護する護衛隊長は、馬たちの足が二人の前で止まるや、黒馬から下りた。


「陛下、御無事ですか」

「う、うん。僕は平気だよ。ガイウスも、よく僕の場所がわかったね。それに、アルブムも連れて来てくれたんだ」


 愛馬に懐かれながら、引きつり気味の笑顔でティベリウスは返す。まずい、と思っているのがありありとわかる表情だ。

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