第32話 神の御手・一
静寂の中、アルビナータが示す道を辿っていた馬たちの足が主の指示を待つまでもなく自然と止まったのは、月光が降り注ぐ開けた場所の前だった。
鏡のように静かな水面を湛えた泉が美しく、まるで一枚の絵画のような場所だ。古代アルテティアで中興の祖とも称えられていた武将は、この樹海には額に角がある幻獣が住んでいるという噂話を著作に記しているが、ここならそんな空想も許されるだろう。それほど幻想的な風景だった。
だがアルビナータには、美しい風景への感動を許さないとばかり、場に強い力がさざめいているのが感じられた。その源は、大樹の下に放置されていた白い袋だ。馬たちも場の異常を察して、ひどく興奮し怯えている。
ティベリウスとガイウスが自分の愛馬を宥めている間に先に馬から下りていたアルビナータは、辺りを見回した。木の根元に白い袋を見つけ、取りに向かうべくティベリウスに声をかけようとする。
そのとき、声が聞こえてきた。
――――返せ。私のものを返せ
「――――っ?」
あの領域で聞いた声なき声がアルビナータの意識に再び刻まれたかと思うや、身につけている腕輪の金細工が熱を帯び脈打ち、そこからすさまじい力の流れが意識へと流れこんできた。アルビナータは力と意思の奔流に飲みこまれ、意識がまた、現実ならざるあの場所にさらわれる。
しかしそこは、つい先ほど訪れたばかりだというのに、違う様相を呈していた。純白の扉が眼前にあるのは同じだが、その扉の隙間からうっすらと赤――――ティベリウスの力が流れ出てきては、闇と辺りを漂う領域の力に混じっていくのだ。それだけでなく、扉の向こうでティベリウスが何かを呟いている声さえ聞こえてくる。
ティベリウスが紡ぐ言葉に従い、赤い力の流れは扉へ向かって流れこみ、扉を何かの形に変えようとしていた。が、おおよその形は仕上がっていくのに、扉は反発して元の姿に戻ろうとしている。ぐにゃぐにゃと形が定まらない様子は、物語に登場する怪物のようだ。
きっと現代のティベリウスは、魔法であの扉を壊すか、何か別のものに変えようとしているのだろう。幼少時から二つの民族の神事に関わり続けたティベリウスなら、何かの力を発しているに違いない自分の章を手かかりに、アルビナータを連れ戻す方法を思いついてもおかしくない。
だが、扉は人知を超え、おそらくは時空の秩序の安定に寄与する存在なのだ。ただの人間とは言いがたくなってしまっている現代のティベリウスといえど、容易く干渉できるものではないに違いない。アルビナータの乏しい魔法の知識でも、そのくらいは推測がつく。
現代のティベリウスも、アルビナータを連れ戻すために何かしようとしているのだ。きっとコラードも、できる範囲で手伝っているに違いない。そのことをはっきりと理解し、アルビナータはじわりと喜びがこみ上げてきた。しかし、アルビナータを支配する畏怖を取り払うにはいたらない。人知を超えたものと対峙し平静を保っていることは、いくら異能を備えていても二度目であっても、アルビナータには無理だった。
――――返せ。私のものを返せ
あの声なき声がまた――――扉から聞こえてくる。命令の響きは増し、怒鳴りつけるような激しさを帯びている。
そうして、アルビナータは現実――――ルディシ樹海の奥に戻された。
「ガイウス、アルビナータ、どうしたの? 二人とも、大丈夫?」
「はい……なんとか」
心配そうなティベリウスの声にどうにか答え、アルビナータはいつの間にか俯いていた顔を上げた。やはり樹海には何の変化もなく、一瞬アルビナータの意識が飛んでいただけのようですらある。
アルビナータの視界に入ったガイウスも、混乱した表情をしていた。彼はアルビナータと同じ金細工を持っているのだ。同じものを見て聞いていても、不思議ではない。
「……君もあれを見たのか」
「…………はい」
「? 二人とも、何か見たの? あの袋と……その首飾りと腕輪の金細工から、盗人が放っていたのと同じ力が漂ってきているけど」
ティベリウスはアルビナータとガイウスを交互に見比べ、どこか不安そうな顔で問う。金細工を持たないために、この場に漂うあの強大な力を察知することはできても、尋常ならざる領域へ行くことはできなかったのだろう。
ガイウスはやや躊躇ってから、ええと肯定した。見えたものについて、どう表現していいのかと迷ったのだろう。畏怖は未だあっても少しは冷静に考えることができているアルビナータは、ガイウスの心情が理解できた。
「私とガイウスさんはさっき、意識だけ、ここじゃない場所……この力の源へ行ってしまってたんです。そこで、『私のものを返せ』という声が聞こえてきて……」
「…………それは、人間じゃないよね」
「…………おそらくは」
ガイウスに代わってアルビナータはティベリウスに答える。あの世界に人間が住むことができるとは到底思えなかったし、あのように恐ろしい声を人間が出せるとは到底思えない。あれは間違いなく、人ならざるものの声だ。
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