第7話 櫃の中・三
こぼしたかすれた声は、自分のものではないようだった。
「『帝政』……?」
「って、オキュディアスのか? でもこれ、古代アルテティア語じゃねえだろ」
「ギリル語です。『帝政』じゃ、ゴルティクス帝の章しか例がないですけど……」
だが、アルビナータの前に綴られた文字は間違いなく、古代言語の中でも特に希少な言語のものだ。ティベリウスから直々に読み書きを教わったのだから、見間違えるはずがない。
オキュディアスは、古代アルテティア史を学ぶなら絶対に覚えなくてはならない、歴史家一族の名だ。
古代アルテティア帝国時代に記された歴史書のほとんどは、歴史家が一人で特定の国や時代、戦乱を題材に取り上げている。しかしこのオキュディアス一族は、古代アルテティアの建国から東西分裂にいたる長い歴史を、『王政』『共和政』『帝政』の三つに分類し、さらに時の指導者ごとに章分けし、何世代にもわたって同じ名で書き記すという奇妙な手法でもって著している。先達の研究によってこのことは明らかになったのだが、一体何故そのようなことをしたのかという根本的な謎は、今も明らかになっていない。
書いている内容についての信頼性はきわめて高く、古代アルテティア史の研究に必須の一次資料というのが、研究者の間での定評である。しかし、著されてからの長い年月の中で、合わせて何十巻とあっただろう三部作の原本は失われ、今では写本が十数巻現存するだけだ。欠けている章は、写本の一部分でも貴重な発見になる。
「……『帝政』だとして、どいつの章だ?」
世界で二例目の発見を目にする興奮を抑え、コラードが問う。それは重要な問いだ。希少な言語によるものというだけでも充分価値はあるが、記される章によっても歴史的資料としての価値が違ってくる。
これに答えたのは、アルビナータの頭上から見下ろすティベリウスだった。
「これ、僕の章だよ……子供の頃のことが書いてあるもの…………」
「はあ? お前の章だって?」
コラードは声を裏返らせ、驚愕のあまりか嘘だろ、と呻いた。
『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章は、存在を文献で確認できても写本すら発見されていない、幻の巻物だった。それが、破損がなく良好な保存状態で発見されたのである。しかも今まで数例しか見つかっていない、オキュディアス一族の故郷で用いられていたギリル語で記されている。つまり、原本。もし本物であれば、価値は計り知れない。財宝の中の財宝と言っていい。
「ほ、他のは……」
三巻あるうちの一巻がティベリウスのものなら、残る二巻はどうだろう。逸る気持ちを抑え、アルビナータはティベリウスに彼の章を渡すと、コラードと共に残る巻物を手にとって開いた。ギリル語ではない古代文字が、こちらの羊皮紙にも踊る。
「こっちは古代アルテティア語だ。正確な年代は、鑑定が必要だな…………こりゃ、ティベリウスの弟のほうか? アルビ、そっちは?」
「…………古代アルテティア語の、ティトゥス・アウレリウス帝の章です」
それは、ティベリウスの父帝だ。異民族の侵略を退け、辺境を巡察して古代アルテティア帝国の防衛体制を一新した功績があることから、我が子同様、賢帝と後世で称えられている。
ティベリウスの父や異母弟デキウスの章も、写本が一部しか発見されておらず、完全なものの発見が待ち望まれていた。つまり、幻とされていたベネディクトゥス朝三代分の『帝政』が今、アルビナータたちの手の中にあるわけだ。もはや奇跡と言っていい。
もちろん、鑑定しないと本物かどうかわからないが、こんなところに隠してあったのである。それに、ギリル語は古代アルテティア帝国が東西に分裂して以降、使われなくなっていた言語だ。本物に違いない。アルビナータは、この三巻が現代に残っていた奇跡と箱を寄贈してくれた人物に、心の底から感謝した。
――――――――しかし。
「……」
世紀の大発見に興奮していたアルビナータはここに至って、我に返った。身体を捻り、ティベリウスを振り仰ぐ。
ティベリウスは、呆然とした顔のまま巻物を見つめていた。凍りついたかのように、表情も身体も動かない。
けれど、きらめく青の瞳には様々な感情が浮かんでは消えていた。どんな感情であるのかアルビナータにはわからないが、苦悩していることは確信できる。
当たり前だ。オキュディアスの歴史書は、古代アルテティアの指導者たちの死にざまをも詳細に記しているのである。ならぱ、ティベリウスがこのような身になってしまった理由についても一端くらいは記しているはず。――――ティベリウスが抱き続けていた我が身についての疑問の答えが、その切れ端だけだとしてもついに明らかになるのだ。
アルビナータの視線に気づいたのか、ティベリウスは視線を巻物からアルビナータへと向けた。無理やりといったふうの弱々しい笑みを浮かべてアルビナータを見る。
「……ここで見ちゃ駄目だよね。元に戻すのが大変だし」
普段通りにしようとして失敗した声音で言って、ティベリウスは膝をつくとアルビナータから巻物を取り上げた。自らの手で、己の治世を記した巻物を巻いて紐でくくる。
アルビナータは、一連の動作をなんとも言えない気持ちで見ていた。何か言ってやりたい、けれど何を言えばいいのかわからない。ガイウスが持っていたという彫像を見つめるティベリウスを見つめていたときと同じ色で、アルビナータの胸中が染まる。
「……おい、二人とも。いいところを邪魔して悪りぃが、浸ってる間はねえみたいだぞ」
「え……」
唐突に、どこか笑みを含んだコラードの声音が降ってきた。ティベリウスだけに意識を向けていたアルビナータは、慌てて辺りを見回す。
そうしてアルビナータはようやく、周囲にただならぬ空気が漂っていることに気づいた。
アルビナータとティベリウスを、いつの間にか学芸員たちが取り囲んでいた。その全員が狩人というか、競りをする商人というか、食料を前にした飢えた人のような表情をしている。はっきり言って、怖い。
今の今までアルビナータは忘れていたが、ここは国主催の譲渡会なのである。一つの品に譲渡希望者が集中すれば、市場の仕入れ業者も驚く熾烈な駆け引きとくじ運で手に入れなければならない。最初に発見した功なんて、何の足しにもならないのだ。
先ほどまでの和やかさはどこへやら、今や辺りは殺伐とした様相を呈していた。学芸員たちは皆、麗しき‘アウグストゥス’の姿が見えていないのだろうか。――――見えていないのだろう、この様子では。
学術的な意味にこそ価値がある資料にはあまり興味がない他の参加者と役人は、これは自分たちが関わってはいけないものだと判断したらしい。見てはならないものを見てしまったかのように顔をそらし、そそくさと退散していく。その引き際は実に見事なもの。櫃の周囲に残っているのは、ドルミーレの学芸員二人と‘アウグストゥス’、そしてその他大勢の学芸員ばかりだ。
「コ、コラードさん。なんだか皆さんがすごく怖いんですけど……」
「だな。ここまで殺気駄々漏れなのは初めて見たぞ俺」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよコラードさん。絶対『帝政』を手に入れないと。ティベリウスの章は当然ですけど、できれば他の二巻も」
いっそ面白いものを見ているような表情で辺りを見回すコラードの制服の裾を掴み、アルビナータは主張した。
ドルミーレは古代アルテティア帝国史の研究においてもっとも格が高い博物館であるし、古代アルテティアの皇帝だったティベリウスがいるのだからということで、彼の章は手に入れられる可能性が高い。しかし、他の二巻はどうか。ティベリウスの章を手に入れたのだからと、他の博物館に持っていかれるかもしれない。
ティベリウスがガイウスだけでなく家族、とりわけ自分の跡を継いだ異母弟のことを気にかけていることを知っているアルビナータとしては、残りの二巻も逃したくない。他の購入候補を諦めることになっても、三巻とも欲しい。
わあってるって、とコラードはアルビナータの肩を叩いた。
「ティベリウスの手元に置いといてやりたいんだろ? それにこんな大物、逃がしたら館長と主任に睨まれるだけですまねえに決まってるからな。……まあ見てろよ。こういうときこそ先輩のすごさっての、見せてやろうじゃねえか」
にっと口の端を上げ、コラードは言い放つ。殺気だった熟練の学芸員たちを前にまったく動じない、歓喜と獰猛さを併せ持った顔だった。
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