第20話 目を開けると

「う……」


 深い深い闇に沈んでいた意識が浮上し、アルビナータの唇から呻きが漏れた。

 手足に泥がつき、頭に泥が入っているのではと思えるほど、身体がだるい。まるで試験勉強をした後のようだ。瞼を開けるのもつらくて、アルビナータはしばらくそのままでいたいと強く思った。

 けれど、五感がそれを許さない。自分が転がっている場所は硬く、でこぼこしていて、しかもがたがたと揺れている。数多くの金属が触れあう音は、起きろと言っているかのようだ。

 アルビナータは無理やり目をこじ開け、身体を起こした。


「え……………………?」


 視界いっぱいに広がる土埃と兵士の姿に、アルビナータは目を大きく見開き、息を止めた。

 ぎこちなく首を巡らせてみれば、土埃と、数多の荷車と、彼方までいるかというような軍勢が辺りを埋め尽くしていたのだ。

 アルビナータの心臓が早鐘を打ち、全身に入っていた泥を押し流すように身体が熱くなった。

 見えるもの、聞く音、感じる振動、肌を撫でる風や土埃。五感で感じるすべてが、アルビナータにとって初めてのものだった。これほどの軍勢は、ルディラティオの祝祭のパレードでも見たことがない。

 何よりおかしいのは、兵士の装備と旗だ。重装歩兵の軍装と、銀鷲の意匠がひらめく旗。――――――――さんざん見慣れた、古代アルテティア帝国の軍を形成する品々。

 だが、見慣れた形と意匠をしたそれらは、アルビナータが知っている色彩をまとっていない。使いこまれてはいるが、色褪せても錆ついてもいない。


「ここは……古代アルテティア…………?」


 自分で口にして、アルビナータは震えた。夢物語のような現実がじわりと頭の中に沁み入り、手足を拘束する重りになる。

 ありえない光景に愕然としながら、アルビナータは深呼吸を繰り返し、必死に思考をかき集めた。


 そう、確か自分は、今日もある程度自分の机で仕事をした後に、収蔵庫へ向かったのだ。『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章を書巻収蔵庫から出し、テーブルに置いて。そして――――――――

 アルビナータの焦る気持ちを逆撫でするように、記憶はゆっくりと遡っていく。そうしてようやくこんな場所にいる原因に思い当たり、アルビナータは目を見開いて手のひらに目をやった。

 アルビナータの推測を裏付けるように、コラードが買ってくれた腕輪は、金細工の部分だけが淡く輝いていた。そればかりかかすかな魔力が漂い、七色の霧のようにきらめいている。


「まさか、これが……?」


 アルビナータは震える指で、金細工の縁に刻まれた文をなぞる。きらめく七色の霧は細い指に当たり、その周囲だけ他とは違う動きを見せた。

 古代アルテティア軍の隊列の中にいるだなんて、信じたくない。しかし五感は、感じるものすべてが現実だと告げていた。思考の冷静な部分もまた、これは大規模な虚構ではないと判断している。

 つまり、ここは古代アルテティア帝国が存在していた時代なのだと。

 何故、どうしてと疑問ばかりがアルビナータの頭の中を埋め尽くした。冷静に考えようとしても上手くいかない。記憶さえまともに思い出せなくなって、より混乱する。


「…………あれ?」


 軽装騎兵が一騎、前を通り過ぎていくのを呆然と見ていたアルビナータは、また一つ、おかしいことに気づいた。

 何故、自分を誰も不審に思わないのか。こんな身なりをした少女なんて、古代アルテティアの軍にいるはずがないのに。


「あ、あの!」


 思いきって、アルビナータは荷車の近くにいる兵士に声をかけた。しかし、兵士は前を向いたまま、アルビナータの声にまるで気づかない。目をくれることさえせず、列を乱さない。


「聞こえてない…………?」


 アルビナータの鼓動が跳ねた。停止した思考の中で生まれた衝動のまま、アルビナータは荷車を下りた。自分よりずっと歩みが早い兵士へ向かい、早足で進む。


「……!」


 アルビナータが兵士の背中にぶつかった瞬間、全身が冷えたものに触れた感覚を覚えた。アルビナータの身体はそのまま兵士をすり抜ける。後ろの兵士も、また後ろの兵士も。少女の身体をすり抜けているというのに、誰も気づかない。

 姿を見てもらえず、声は届かない。物には触れられても、生き物の身体はすり抜ける。――――まるでティベリウスから聞いた、アルビナータがそばにいないときの彼のように。

 アルビナータの全身から血の気が引いた。叫びたくなるような恐怖がアルビナータを支配し、身体を震わせる。動悸は激しくなり、呼吸が難しくなる。


 やがて騎兵が大声をあげて設営を告げると、行軍していた兵たちは一斉に別の動きを始めた。地面を掘る者、木々を伐り運ぶ者、それを使って設営していく者、指示をする者。兵士の全員が、己が何をするべきなのかを完璧に理解し、休む間もなく働いている。その動きはきびきびしていて無駄がなく、いっそ機械人形じみていた。

 そうして、まるで完璧な都市計画のもとに建設された町のような宿営地が、アルビナータの目の前で造りあげられていく。まっすぐ伸びた通路、等間隔の天幕、周辺の森から伐りだした木材を組んだ塀。設置された銅鑼。学芸員や歴史学者であれば、本当にこのようにして設営されていたのか、と感激し、歩き回って細部までつぶさに観察したくなる光景だ。

 しかし、思考と共に感情が半ば停止した今のアルビナータには、ただの動く景色、遠い場所の出来事でしかない。兵士たちが設営している、とうつろな目で、一部始終をぼんやりと眺めているしかできない。


 宿営地が完成し、気づけばアルビナータは、幅の広い道路の端に立っていた。どこを見ても、整然と並ぶ数多の天幕ばかりが見える。

 ここにきて、ようやくアルビナータの思考は現実を理解し、受け入れ、緩々と正常な動きを始めた。凍てついていた感覚が本来の役目を思い出すことによって、においや肌に当たる感触を感じるようになってくる。聞き流していた音を、音として認識するようになる。

 離れた場所に何か白いものが動いているのを見つけると、五感の復活は加速された。何も考えず、アルビナータは走りだす。

 赤い日差しを返すその白は、すぐ近くに見えてきた。


「ティベリウス……」


 眼前を歩く誰よりも見知った人の名を、アルビナータは思わず紡いだ。

 しかし、彼がまとっているのはトーガではない。灰白色の鎧だ。腰に佩く剣も同色で、柄頭に真っ青なサファイアが使われている。磨きあげられた白銀のフィブラが、濃紫のマントを留めて己の存在を主張していた。

 周囲にいる、屈強な武人たちと同じ性別であるのが信じられない美姿である。何かしているわけでもないのに、彼だけが別の光を浴びているかのように際立っていた。譲渡会で見た、ゼペダ戦役の戦勝記念の彫像に色を与えれば、このようになるのだろうか。

 ティベリウス・アウレリウス・ベネディクトゥス・ピウス。あらゆる精霊に慕われその助力を得られることから‘精霊帝’とも称された、稀なる美貌の若き賢帝。

 ――――――――それは、アルビナータの師にして友人である人ではない。


 アルビナータの背筋がぞっと凍った。繋がっていた見えない糸が、目の前でふつりと切られたような気がした。


「ティベリウス!」


 たまらなくなって、アルビナータは叫んだ。何度も何度も。そばに駆け寄りさえして、彼の名を呼んだ。

 けれど彼は気づくことなく、直立不動の見張りが両脇に立つ、他のどの天幕よりも大きな天幕へ入っていく。付き従っていた者たちの数人は天幕の前で頭を垂れて皇帝を見送り、残りは共に天幕の中へ消える。

 アルビナータは、天幕の前で立ち尽くした。


 誰もアルビナータの存在に気づかない。彼らにとってアルビナータは存在していない。

 その事実を突きつけられ、アルビナータの膝から力が抜けた。

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