第34話 別れ・一
大鎌を振るって時を刈り取るという神の姿が失せ、樹海に再び静寂が訪れた。
ティベリウスは、自分がたった今何を見ていたのか、まだよく理解できなかった。あまりにも不思議だからというのもあるが、おそらくはそれ以上に、恐怖を感じるほどの力の奔流に思考が竦んでしまったからだろう。
「今のは…………一体…………」
呆然とした声をガイウスは漏らしているが、ティベリウスは言葉を返せない。自分が理解できず、感情を落ち着けることができないでいるのに、何か言えるわけがない。
それでも、クロノス神とあの少女の姿が頭の中で何度も再生されるままにし、深呼吸を繰り返しているうち、次第に心臓が落ち着きを取り戻してくる。それに伴い、委縮していた思考が動きだす。
「いなくなっちゃった……」
呟くと、自分の声を耳が拾う。それでようやくティベリウスは、あの少女が消えてしまった事実を認めることができた。遠かった現実の手触りが、ゆっくりと戻り始める。
「………………何者だったのでしょうか、あの少女は」
「うん……とりあえず、この世界の……この時間のかな? 人間じゃないみたいだったね。クロノス神が鎌で切り裂いていたし、『在るべき時に帰れ』って仰っていたもの。変わった身なりだったし」
「ええ、そうかもしれません」
「…………ああ、もしかしたら、未来から来たのかもしれないね」
呟くように、ティベリウスは推測を口にしてみる。するとその突拍子もない思いつきは、途端にティベリウスの中で説得力を帯びた。そうに違いない、という確信さえ生まれてくる。
ガイウスは眉をひそめた。
「未来から、ですか」
「うん。きっと、その金細工は時空を越える鍵なんだよ。君の家に伝わるその神像は、クロノス神がこの世に降臨なさるときの寄り代で。かけられていた魔法が何かのはずみで作動してしまって、アルビナータはこの時代へ来てしまっていたんだろうね」
「……」
「あんなにも身なりが違っているなら、アルビナータが暮らしているのはきっと遠い未来で……その時代には、父上だけじゃなくて僕の治世の色んなことを記したオキュディアス一族の『帝政』があって、人々に読まれているのかもしれない。だから彼女は僕の身にこれから何かが起きることを知っていて、早く帰れって僕に言ったのかも」
鈍い思考をめぐらせて、ティベリウスは思いつくまま推測を述べる。
主君の推理を聞いていたガイウスは、表情を引き締めた。
「陛下を狙う輩がいると? まさか、そんな不届き者が……確かにここは国境付近ですが、今アルテティアと刃を交えるのは得策ではないと、異民族たちとて承知のはずです」
「うん、そうなんだけどね。でも、父上だって暴漢に命を狙われたことがあったし、誰が何を考えてもおかしくないよ」
いっそ能天気とさえ言える明るさで、ティベリウスは苦笑した。
ティベリウスが皇帝に就任して十一年。就任直後の戦役以来、目立った内憂外患はなく穏やかな治世が続いているが、害意を向けてくる者がいなかったわけではない。それに、今はいなくても未来はどうなるかわからない。政治や皇帝の地位がそうしたものであることは、呑気だと言われがちなティベリウスでも理解している。
ティベリウスはクロノス神像に近づくとそっと触れ、もう力があふれておらず、触れても何も起こらないことを確かめた。クロノス神像を拾いあげると首飾りごと白い袋にしまい、アルブムに括りつける。
ティベリウスは、思案する様子のガイウスを振り返り、にこりと笑んだ。
「平気だよガイウス。もし誰かがアルテティアを脅かすために僕の命を狙っているのだとしても、そう簡単に殺されるつもりはないよ。まだやりたいことも、やらなければならないこともたくさんあるもの。デキウスにはもう少し、色々なことを勉強してもらいたいし。襲われても時間稼ぎくらいはするから、その間に助けに来てほしいな」
「わかっています。そのためにも、私に黙って宿営地から抜けだすことはおやめください」
ティベリウスは丁寧に頼んだが、そんな手厳しい意見が返ってくる。どうやらまだガイウスは怒っているらしい。
ガイウスは表情を改め、ティベリウスに向き直った。
「ティベリウス様、どうか御身を大切になさってください。貴方は、アルテティアになくてはならない御方。俺のただ一人の主です。……俺は、貴方を失くしたくないのです」
「……うん」
「必ずお守りいたします。だからどうか、危険なことに自ら飛びこむようなことはお控えください」
そうティベリウスを見つめるガイウスの声にも表情にも、深い思いがはっきりとにじみ出ていた。ティベリウスが皇帝に就任して以来めったに聞くことのなかった一人称も、護衛隊長としての己を忘れるほど真摯であること――ガイウスの心からの願いの証であるように思われた。
「うん。……ありがとう、ガイウス」
皇帝として軽率な行為に対する反省の色を含んだ感謝の言葉が、自然とティベリウスの口からこぼれ落ちる。それでやっと、ガイウスは表情を緩めた。
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