第16話 街歩き・二
けどよ、とミケロッツォは首を傾けた。
「お嬢、それじゃさみしくねえか? 平日はともかく、休みの日は‘アウグストゥス’と詰所の警備員しか他に人間がいねえじゃん。この町を散歩するにしても、一々山を下りなきゃいけねえし」
「そんなことないですよ。平日の昼間は仕事で、‘皇帝の間’にいる時間はあまりないですから。‘皇帝の間’にいるときも、ティベリウスや精霊たちがいますし、勉強したりしてますから……今のところはさみしく感じてません」
「ふうん。なら、いいんだけどよ。まあ、たまにはルディラティオまで来いよ。お前の親はもちろんだってたまには娘に会いたいだろうし、王様や王子殿下もあんたと学問談義がしたいってたまにぼやいてるからさ」
「そうですね……機会があれば是非。私もお二人と色々とお話ししたいです」
ただしその際、王弟の抗議――――睨みと嫌味から再会は始まるのだろうが。先日彼から届いた手紙にたっぷりとしたためられていた、ティベリウスの存在を何年もの間黙っていたことについての静かな怒りの言葉の数々を思い出し、アルビナータは遠い目になった。
他愛もないことを話しているうちに、住宅地のすぐそばにある、こじんまりとした宿屋に二人は到着した。通りから離れていて辺りは波の音だけ、洒落た看板がなければ宿とわからない。隠れ家のような雰囲気があった。
「いい宿だなあ。海が目の前だし、通りにも行きやすいし。それに静かだ。ここで先輩と待ち合わせなのか?」
「はい。……ここなら、案内がなくても私一人で行けますから」
苦笑し、アルビナータは言葉を濁す。ミケロッツォには悪いが、できるならここがどこであるのか、改めて口にしたくなかった。
そんな微妙なアルビナータの心境を表情や空気から汲み取ってくれたのか、ミケロッツォはそれ以上追及しなかった。
「中へ入りにくいなら、俺も一緒に入ってやろうか?」
「いえ、ここまでで大丈夫です。送ってくれて、ありがとうございました」
「……そうか。んじゃ、またな」
にかっと人懐こい笑顔を浮かべ、ミケロッツォは片手を上げて通りへ戻っていく。それを見送ると、アルビナータは改めて宿屋に向き直った。
途端、恐怖がアルビナータの胸を支配した。先ほどから聞こえていた音声や映像が、改めて脳裏で再生され始める。
いつもの帰り道、物が人に当たる音、背後の気配、短剣を片手に睨みつけてくる男。そして――――――――
「――――っ」
アルビナータはぎゅっと目を瞑って首を何度も振り、ゆっくりと呼吸を繰り返した。震えながら、思い出したくない記憶を全身で拒絶する。大丈夫、と何度も呟いて自分に言い聞かせる。
不意に、風や火の気配、身体に触れるものを感じた。横を向くと、姿が時折揺らぐ異形の犬や炎の
風の精霊や火の精霊がアルビナータを見ていた。アルビナータの様子がおかしいのを見かけて、心配してくれたのだろう。
強張っていたアルビナータの身体から、力が少しだけ抜けた。
「……ありがとうございます。私は大丈夫です。……大丈夫になりますから」
精霊たちに無理やり笑んで、アルビナータはもう一度深呼吸をした。小路の先からかすかに聞こえてくる、波の音に耳を澄ませる。
記憶の中の映像や音声が小さく弱くなるのを待って、意を決して宿の中へ入る。
中へ入ってすぐ視界に入ってくるカウンター席で暇を持て余しているふうの女主人は、アルビナータを見るなり目を見開いた。
「いらっしゃ……おや、アルビナータじゃないか! 久しぶりだねえ、元気だったかい?」
「アニータさん、大丈夫ですか」
椅子から立ち上がろうとして、女主人――アニータはすぐ顔をしかめて背を丸めた。アルビナータは慌てて駆け寄り、アニータを支える。
大丈夫だよ、とアニータは困ったように笑った。
「まったく、不思議なものだね。傷はほとんど治ってるっていうのに、痛みはとれやしない。これじゃ傷が治ってるんだかわかんないね。ま、私もいい歳だから、治るのが遅くて当然なんだけど」
と、アニータは肩をすくめてみせ、丸めていた背をゆっくりと伸ばす。おどけた物言いと仕草は、アルビナータに配慮してのものであるのは明らかだ。
気遣われているのが申し訳なく、頭巾を下ろすアルビナータの手に力が籠った。
一ヶ月半にわたって続いたアルビナータ誘拐未遂事件の最後は、彼女の下宿先だったこの大衆食堂で起きた。屋内へ入り、護衛になってくれていた精霊たちがアルビナータのそばを離れるのを狙って、好事家に雇われた暴漢が襲ってきたのだ。そして、アルビナータを逃がそうとしたアニータは暴漢に背中を斬られた。
だから、アルビナータはガレアルテへ行くのが嫌だったのだ。一ヶ月半に及ぶ恐怖の日々を、アルビナータはまだ忘れることができていない。ガレアルテへ下りてここを訪れれば、さらわれたときのことや、アニータが斬られたときのことを思い出してしまうのはわかりきっている。恐ろしいことなんて、思い出したくない。
それでも、ガレアルテへ下りた以上はここを素通りすることはできない。アルビナータを守ろうとして、魔法を使わなければ死んでしまっていたような重い怪我を負った人なのだ。見舞わずにいることなんてできなかった。
そうしたアルビナータの罪悪感と恐怖を、表情から感じとったのだろう。あたたかな笑みを刷き、アニータはアルビナータの頬を包んだ。
「そんな顔をしなくていいんだよ、アルビナータ。言っただろう? 私たちは被害者なんだから、ごめんなさいなんて言う必要はないんだよ」
「……はい」
深い傷の治療をしたときと同じ言葉を紡ぐ声も、笑みも、手もただあたたかい。委縮するアルビナータの心をほぐし、広げていく。アルビナータは、そのぬくもりで緩んだ涙腺から涙がこぼれるのをこらえなければならなかった。
それからアルビナータが互いの近況についてアニータと少し話していると、宿の扉が荒々しく開けられた。緋色を基調とした私服姿のコラードがカウンターの前に飛びこんできて、ふうう、と大きな息をつく。
アニータは呆れ顔になった。
「おやおや、アルビナータの次はコラードかい。どうしたんだい、そんなに息を切らせて」
「アルビと待ち合わせですよ。今日はこいつが外へ出るのに付き合うんで。……すんませんけど、水もらえます? ついでに、何か食べさせてもらえるとありがたいんですけど」
「はいはい。今ちょうど食材の仕入れに行ってるところだから大したものは作れないけど、それでいいならね。アルビナータも食堂へおいで。あんたの分も作ってあげるよ」
まったく、とでも言いそうな顔でアニータはそう肩をすくめた。痛みを残す身体に配慮したゆっくりした足取りで、ホールに隣接した食堂へ歩いていく。
食堂は店の規模と外装に相応しく慎ましやかなもので、木製のテーブルや椅子の傷、石壁のくすみや汚れが経た歳月を感じさせる。そこからにじみ出る雰囲気は丸く緩やかで、あたたかい。女将の人柄をそのまま表しているようだと、いつものことながらアルビナータは思う。
海が見える窓辺のテーブルに腰を下ろし、アルビナータは汗ばんだ顔を服の袖で拭っているコラードと向きあった。
「コラードさん、走ってきたんですか?」
「ああ、お前をあんまり待たせるわけにはいかねえからな。……あ、どうも」
「どういたしまして。料理はすぐ運ぶよ」
そう笑って、水が揺れるコップを持ってきた下働きの少女はすぐ厨房へ引っこむ。カウンター越しに見える厨房では、アニータが自慢の腕を振るっている最中だ。野菜と魚が見えているから、きっとオリーブソースをかけた魚に野菜を添えたあの一品だろう。
コップの水を一気に飲み干し、一息ついてからコラードは口を開いた。
「で、どうだ? 久しぶりに一人で歩いてみた感想は」
問われ、アルビナータは俯くと、膝の上に置いた両の拳をぎゅっと握りしめた。
「……正直言うと、まだ怖いです。精霊さんたちが守ってくれているとわかっていても、大丈夫だって自分に言い聞かせないと町へ入れなくて……知り合いの人にここまでついてきてもらいましたし。周りを見る余裕もありませんでした」
「精霊の護衛付きでも、一人で山を下りてここまで来られただけで今は充分だろ。これを繰り返せば、いつかは護衛なしでも普通に歩けるようになるさ。ティベリウスが言ってただろ。焦るな」
「……はい」
こくんとぎこちなくアルビナータは頷く。よくできました、と言うように、コラードは満足そうに口の端を上げた。
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