第28話 皇帝の祈り・一

 気づけばティベリウスは、仰向けになって倒れていた。


 辺りは真っ暗で、月や星の光も見えない。魔法道具の明かりさえない。それでも海の音や風が頬を撫でていく感触は絶えておらず、ここが‘皇帝の間’の中庭を望む回廊であることをティベリウスに理解させた。


 だるい身体をゆっくりと起こし、ティベリウスが意識すると、小さな炎がいくつも宙に浮かび、ティベリウスと巻物を照らした。さらに力を周囲へ向ければ、力の波を受けて失せていた魔法道具に魔力が再び宿り、炎を燃やして中庭全体を照らす。

 壁に背もたれたティベリウスは、全身にまといついた疲労感から、深い息を漏らした。


 底に文字を沈めた水面のような紙面に触れたティベリウスは、つい先ほどまで五感を失い、意識だけになってどこかにいた。

 どこか、としか言いようがないそこは、おそらくは時空の隙間と言うべき場所だったのだろう。圧倒的な存在感を放つぼろぼろの純白の扉を中心に、古今東西の時間の欠片が無数に存在し、同時に進行も逆行もしていた。あるものは高速で、またあるものはゆっくりと。場所も速さも流れていく向きもばらばらの時間の欠片が、ティベリウスを取り巻いていた。


 数多の時間が同時に過ぎたり逆行したりする不思議な光景にティベリウスが圧倒されていると、不意に純白の扉がまるで生き物であるかのようにどくんと脈打ち、それに呼応して時間の欠片がゆがみ、別のものを映しだした。どれもが異なる時間と場所であったが、すべてティベリウスが過ごした時間であることは共通していた。

 樹海で精霊たちと遊んだ幼き日々。

 ガイウスと初めて会った日。

 父や異母弟と共にここに滞在した夏。

 戦陣のひたひたと迫る恐怖。元老院での討議。他にもたくさん。


 そうした懐かしい記憶にティベリウスが心を奪われていると、突然扉の向こうから、求めていた気配を感じた。欲してやまなかった声さえも。


 ――――ティベリウス?


 その声に誘われてティベリウスもまた彼女の名を呼び、純白の扉を開けようとした刹那。扉は激しい力でティベリウスを拒絶した。私に触れるなと、貴人が一喝するかのような意思をティベリウスの意識に刻みつけて。――――そして、ティベリウスはここへ戻って来たのだ。


 つい先ほどまでいた場所を思い出し、ティベリウスは見下ろす両手をぎゅっと握りしめた。

 現代に目覚めてからのティベリウスは、過去のことを自分でも驚くほどよく覚えていた。あの薬湯の作り方はその一つだ。久しく作っていなければ思い出しもしていなかったのに、アルビナータに作ってあげようかと思いついた途端、材料も作り方も正確に思い出すことができた。純白の扉を取り巻いていた己の記憶もそうだ。仔細までティベリウスは覚えていた。

 けれど、純白の扉に触れた刹那に見えた記憶だけは、まったく覚えのないものだった。

 何もないところから投げられる石。

 ひとりでに地面に記されていく文字。

 ――――今の自分にもっとも馴染みのある名前。

 どれ一つ、ティベリウスには覚えがなかった。


「どうして僕は覚えていないんだ……!」


 久しく味わったことのなかった荒々しい感情がこみ上げ、ティベリウスは叫んだ。


 ティベリウスはまだ、この時代で覚醒し、自分はもはや人間と交流することができないのだと悟ったときの深い失望を覚えている。内海の向こうに広がる熱砂の大地にたった一人放り出されたような、人間世界との断絶を全身で感じるあの気持ちを。アルビナータと出会うまでの間、味わい続けた感情なのだ。簡単に忘れられるものではない。

 精霊たちと過ごす時間は確かに楽しく、孤独を忘れていられた。だが、眼前の人間と交流できない悲しみと孤独が完全に消えることはなかった。存在に気づいてもらおうと色々としてみても、それは誰かの悪戯か、怪奇現象としかとられることはなく。諦めばかりが積もった。


 けれどもし、あの瞬間を自分が忘れてしまっているだけだったのなら。

 自分と同じ境遇の人はいたのだと、覚えていたのなら。

 もう自分は人間と交流することができないと、十年もの間諦めなかったのに――――――――


 身の内に激しい後悔が湧き、ティベリウスは自分の身体をきつく抱きしめた。そうでもしないと、何故、もし、という心中を埋め尽くす問いが唇から飛び出しそうだった。


 深呼吸を繰り返し波の音に耳を澄ませ、ティベリウスはあらぶる心を落ち着かせる。早鐘を打っていた鼓動が穏やかになってきたのを見計らって俯けていた顔を上げると、もう一度深呼吸し、巻物に触れた。


 再び向かいあった時空の扉の向こうからは、アルビナータの気配は漂ってこない。その代わり、強大な力が流れこんできている。

 力が意識に入りこんでくるのを感じ、ティベリウスは遠のきそうな意識を必死で繋ぎ止めた。これに意識を乗っ取られてしまえばおしまいだ。その確信とおそれがあった。

 この領域に変化が起きているのは、この領域に干渉するような出来事がこの領域かどこかの時間――――おそらくはアルビナータがいる時間で発生したからだろう。この領域はあの金細工と巻物を通して、あらゆる時間に通じている。ならば、どの時間から干渉を受けていてもおかしくない。


 その、この世界へ干渉するような出来事がアルビナータを傷つけていなければいいのだが。不安を抱きながら、ティベリウスはそびえる扉を前に、努めてアルビナータの姿を意識した。

 指通りがいい白い髪、上質なルビーのように鮮やかな赤の目。白い肌に華奢な身体。精霊たちを撫でる手つきは優しく、資料を扱うときの眼差しは真剣で。知識欲で目を輝かせるのを、一体何度見たことだろうか。

 アルビナータ・クレメンティ。優しくて少し臆病な、ティベリウスの大切な友人。

 返してほしい、とティベリウスは皇帝だった頃に祈りを捧げた神々に願った。帰って来てほしい、とアルビナータに乞うた。


 神々に祈りを捧げていると、ティベリウスはふと懐かしい感覚に包まれたのを感じた。深い森の木々と土の匂い、数多の精霊たちの気配、そして――――――

 様々な刺激に誘われるまま、時間の欠片の一つにティベリウスが意識を向けると、そこは闇に沈んだ森の中だった。呆然としているアルビナータとくたびれた様子で腰を下ろす自分がいて、金髪の男が倒れている。

 一体何が彼らの身に起きたのだろうか。いやそれよりも、アルビナータは無事なのだろうか。ティベリウスが彼女のそばに駆け寄り無事を確かめようとしていると、過去のティベリウスに頭を撫でられたのを契機に、アルビナータはそれこそ堰を切ったように泣きだした。


 ティベリウスは、今すぐ彼女を慰めてやりたくなった。だが今のティベリウスは、時空の隙間に漂う時間の欠片を覗き見ているだけなのだ。それ以上のことなどできるはずもない。

 見ているだけ。いつかの日々と同じ――――いや、それ以上の隔絶。


 ずきり、と胸が痛んだと思った途端。故郷の景色の代わりに無限の闇が眼前に広がり、ぐにゃりとゆがんだ。気づいたときにはもう遅い。ティベリウスは四肢の重みや波の音、緩い夜風など五感への刺激を感じていた。空を見上げるまでもなく、星々がティベリウスの視界を埋め尽くしている。

 現代へ戻って来たのだ。戻って来てしまった。

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