第35話 別れ・二
「……早く戻りましょう、陛下。帝都へは当然ですが、まずは宿営地へあの男を連れ帰らないと」
気絶したままだった盗人は、出入りができない不可視の壁をティベリウスが築いた上で、あの場に放置しておいた。クロノス神の力に中てられた者が正気に戻るのかどうかわからないが、捕らえた彼の仲間の自白によると、彼はアルテティア市民権の保有者だ。ならば、裁判で処罰を決めなければならない。
そうだねと頷き、ガイウスに続きティベリウスも愛馬にまたがった。
「それにしても、そのクロノス神像。本当に神を招く奇跡を起こすとはね……確かに君の家の守護神はクロノス神で、奇跡を起こす像だと教えられたと聞いてはいたけど、まさか本当だとは思わなかったよ。……実は、ウィンティリクス家は優れた術者の一族だったり……なんてことはないんだよね?」
「はい、そのような話を聞いたことはありません。祖父や父が知らないか、私に話していないだけかもしれませんが……」
と、ガイウスは息をつく。本当に彼は何も知らないのだろう。言葉の端々に、困惑が強くにじみ出ていた。
当然だろう。普通の神像に神は宿ったりしないし、ウィンティリクス家は神官どころか執政官も輩出したことがない、新参の家なのだ。神の召喚などという、優れた術者でなければ起こせない奇跡とは無縁の家系なのに何故、という疑問が胸にあふれているに違いない。
「……いずれにせよ、クロノス神が導いてくださったんだから、きっとあれでアルビナータは故郷へ帰れているよね」
「……それほど行方を気になさるとは、先ほどの娘、素性のことはともかく、お気に召されましたか?」
主の何気ない呟きを拾ったガイウスは、意外そうに片眉を上げた。
何しろティベリウスは類稀な容姿や至高の地位、温厚な性格から貴族の娘たちを惹きつけてやまず、その気になればいくらでも選び放題だというのに、まったくと言っていいほど異性に関心を示さないのである。愛妾の一人すらいない。生涯を清く過ごすウェスタの巫女のような清らかさは、様々な意味で周囲が心配するほどだった。
ティベリウスはさあどうだろう、と曖昧な笑みをガイウスに返したが、実のところ、アルビナータへの興味を自覚していた。彼女が稀有な容姿や気配、見たことのない身なりをしていたからだけではない。ティベリウスがこの帝国でもっとも高貴な男であることを知りながら、敬うわけでも媚びるわけでもなく、ただの年上の青年に対するような態度で彼女は接してきた。かと思えば、強大な力に向かっていく無謀をし、恐怖やさみしさに震え、安堵から泣きだす。馬上へ引き上げれば、緊張して真っ赤になって。短い時間の間に次々と見たアルビナータの表情は、どれもがティベリウスの目には新鮮に映った。
できるなら、もう少し彼女を話してみたかった。早く故郷へ帰るのが彼女にとって幸せなことだとわかっているけれど、ティベリウスは残念に思わずにいられなかった。
ティベリウスとガイウスは帰路の途中で盗人を拾うと、心配して駆けつけてくれた古木の精霊を案内役に、奥深い樹海を抜けた。夜明けの空と未だ眠る大地が広がり、真っ黒な砦の影がその狭間に屹立しており、どこか不気味だ。
そしてティベリウスの眼前には、多くの精霊たちが集ってくれていた。土や水、樹木や火、雷。皆、ティベリウスがグレファス族の子供だった頃、遊び相手になってくれたものやその仲間たちだ。
「これはまた……壮観ですな」
ガイウスは目を見張り、呟いた。普通の人間なら、数体の精霊が群れているのを見ることはあっても、これほどの数が一同に会するのを見ることはないのだ。ティベリウスにとっても、これが初めて見る光景だった。
かつて共に戯れた人の子を再び見送ろうと、一体誰が提案し、これだけの数に知らせて回ったのか。胸が締めつけられるような喜びを覚え、ティベリウスはアルブムを一歩進ませると、ぐるりと精霊たちを見回した。
「皆、今日も助けてくれて、そして見送りに来てくれてありがとう。ここへ逃げこんだ盗人は僕たちが連れて行くから、安心して。さっきクロノス神が降臨なさったけど、時空の迷い子を元の時間へ導いてすぐお帰りになられたから、心配しなくていい。樹海は無事だよ。不安がっている子がいたら、教えてあげて」
ティベリウスが頼むと、精霊たちは一様に頷いた。よかった、とティベリウスは顔をほころばせる。
「僕はもうすぐ、アルテティアの帝都に戻る。きっと今度こそ、ここへ帰ることはないと思う。でも僕は……グレファス族のグロフェの息子ティベリウスは、この大地と樹海を忘れない。君たちのことも決して忘れないよ」
どこかさみしそうな顔をしてくれる精霊たちに、ティベリウスは誓約する。初めて出会った父と共に離れて以来、一度もこの地へ足を踏み入れたことはなかったのに、こうして別れを惜しんでくれることが嬉しく、申し訳なかった。
精霊たちに見送られながらアルブムを駆けさせ、ティベリウスは名残惜しくなって振り向いた。
鎮座と言うに相応しい威厳でもって夜明け前の闇の中、樹海はそこに在った。自らの中であれほど強大な力がぶつかりあったことに気づいていないかのように。生まれて初めて会った父に連れられ後にした日とまったく変わらず、そこに在る。きっとこれからもそうだろう。
「……さよなら」
精霊たちと、故郷と、そこに眠る人々に。
グレファス族の伝承にある、神の御使いが宿すという二色をまとっていた少女に。
ティベリウスは別れを告げ、馬首を宿営地へ向けた。
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