第19話 異変の波動・二

 だからティベリウスは黒板に向かい、チョークで『ついさっき、とても強い魔法が下層で使われた。心当たりない?』と現代語を書いた。


「とても強い魔法……? そんなのありましたっけ?」


 と、コラードが眉をひそめる。話を聞いていた他の学芸員たちも、顔を見合わせ首を振った。もたらされた知らせに、不安そうな顔をする。

 アルビナータの姿は彼女の席になく、学芸員たちも魔法について心当たりがない。念のため魔法がどこかで使われていないか確認したほうがいいと黒板に書いて、ティベリウスは踵を返した。

 心配しすぎではないかと、冷静な自分は言っている。魔法が使われても、その対象は彼女とは限らないだろうと。何よりここは、警備員や精霊たち、自分がいるドルミーレなのだ。国一番の魔法使いが相手だろうと、アルビナータをさらわせはしない。

 わかっている。それでも、心配なのだ。


 収蔵庫へ繋がる扉がある保存管理部門室に近づくと、ティベリウスの感覚がさらにざわついた。収蔵庫が発信源なのだと確信し、ティベリウスはぞっとする。力の発生に気づいていない学芸員たちは普通に作業や帰り支度をしていて、余計に不安を煽る。

 ちょうど作業を終えたところらしいルネッタが、勝手に開いた扉と宙に浮く『王政』を見てか、ティベリウスの存在に気づいた。


「あら、‘アウグストゥス’。『王政』を返しに来られたので? ……あ、ちょっと待ってくださいな。すぐ紙と筆を用意しますわ」


 と、ルネッタはそばにあった作業机から紙と筆を渡してくれる。ティベリウスはそこに、強力な魔法が収蔵庫で使われたので今すぐ部屋から退避してほしいこと、収蔵庫の鍵を貸してほしいことを記した。するとルネッタはすぐ表情を引き締め、部門主任のカタレッラに伝えて鍵を用意してくれる。アルビナータが中にいることを知っているに違いない。

 ティベリウスは彼女と共に前室へ入り、さらにもう一つ、魔法仕掛けの重い扉を開けた。


 冷気に閉ざされる収蔵庫の中へ入った瞬間、ティベリウスのすべての感覚がゆがんだ。頭の中も身体の中も引っかき回されているかのような不快感と目眩に襲われ、ティベリウスはふらついて壁に手をつく。まるで足元が泥沼へ踏み入ってしまったかのように心もとなく、どこまでも沈んでしまいそうだ。

 散じてしまいそうな感覚と意識を集めて注意を凝らさなくても、冷気と共に満ちる、重いあの力の残滓がはっきりと感じられる。最悪の事態が一瞬頭をよぎり、さらに作業机に目を向ければそれが半ば当たっているのを見て、ティベリウスは血の気が引いた。


「アルビナータ!」


 ティベリウスはふらつきながら作業机に近づき、『王政』を置くと、突っ伏すアルビナータの肩を揺すって呼びかけた。しかし彼女は目を開けず、されるがままだ。


「アルビナータ! ねえ起きて!」


 もう一度呼びかけてみても、アルビナータは起きてくれない。首筋に手を当てると、かすかに脈打ってはいた。生きているのだとティベリウスはわずかに安堵するが、彼女が目覚めないことには変わりない。

 何が起きているのかわからないが、いつまでもここにいては、アルビナータの身体に毒だ。ひとまず部屋の外へ出ようと、ティベリウスは彼女の身体を抱え上げた。


「ルネッタ? どうしたの?」


 アルビナータを抱えて振り返ったティベリウスは、ルネッタが扉の前で壁にもたれているのを見て目を見開いた。まるで先ほどの自分ではないか。彼女もまた、この不快な感覚を味わっているのだろうか。

 青い顔をしたルネッタは、無理やりといったふうで微笑んだ。


「少し気分が悪くなっただけですわ、お気になさらず。それより、早くアルビを外へ」

「……うん」


 強がるルネッタに促され、ティベリウスはアルビナータを抱えて収蔵庫の外へ出た。重い扉の音が、また二度響く。

 保存管理部門の作業部屋へ戻り、ティベリウスはようやくあの不快な感覚から逃げることができた。足裏の床の硬さがもたらす安堵は、長時間風の精霊の背に乗って空を飛んだ後の比ではない。深呼吸を一つすると引っかき回された感覚が正常になっていくような気がして、一層安心感が広がった。

 この二重の扉は、王立魔法研究所の魔法使いたちが開発した、おそらくはこの国でもっとも堅固な魔法の扉なのだ。あの力の振動だけでかなり消耗してしまっているものの、その真価が発揮されたということだろう。

 だが、こうして異常な場所から逃れても、アルビナータはまったく目覚めようとはしない。息はしているが顔色は死人のそれで、身体も冷たくなっている。上下する胸を見なければ、死んでいるようにしか見えない。


「ルネッタ! それにクレメンティも……! ‘アウグストゥス’、これは一体……!」


 不意に、重い足音と共にそんな焦った声が聞こえてきた。丸々と肥えていて、いつも厚着をしているというひどい冗談と自嘲が絶えない保存管理部門主任のカタレッラだ。他の者たちを廊下へ逃がし、自分は様子を見に来たのだろう。

 今はアルビナータに触れている。話しても大丈夫だ。


「カタレッラ。アルビナータが収蔵庫で倒れたんだ。ルネッタも具合が悪くなっている。介抱してあげて」

「なんとまあ……ほれルネッタ、大丈夫か?」


 カタレッラは息を飲み、扉の近くでぐったりしているルネッタに近づいた。彼女は平気だと言っているが、顔色の悪さは隠しようがない。


「僕はアルビナータを部屋へ連れて行く。まだ危険かもしれないから、念のため、収蔵庫には入らないで」

「わかりました」


 丸い顔に緊張感を浮かべ、カタレッラが頷く。それを見るや否や、ティベリウスは早足で部屋を出て‘皇帝の間’へ向かった。

 その途中、コラードがティベリウスを発見した。ティベリウスの腕の中にいるアルビナータを見るなり、血相を変えて駆け寄って来る。


「おい、ティベリウス。どういうことだ」

「わからない。収蔵庫で倒れていたんだ。さっきの力のせいだと思う。一緒に中へ入ったルネッタも具合が悪くなっていて……」

「姉貴も?」


 コラードの目に心配の色が浮かぶ。ティベリウスがカタレッラに介抱を頼んだことを話すと、ほっとした顔を見せた。


「コラード、アルビナータを部屋へ運んであげて。僕は収蔵庫へもう一度行くよ。何があったのか、調べないと」

「了解。……無茶すんなよ」


 コラードは頷き、アルビナータを抱え上げる。その背を見送り、ティベリウスもまた身をひるがえした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る