アウグストゥスの巫女

星 霄華

序章

序章

「……?」


 崖の先にある、古代から変わらず町と人々を見守り続けてきた建物から出てきた少女の白い髪とつば付き帽子を、爽やかな風が揺らした。

 それは海風とは違う、楽しみの気配を孕んだ風だった。声にならない笑い声が聞こえてくるような、ここへ向かう人々が抱く感情を見えないものにしたような風。

 少女が抱いたそんな印象は正しく、空を振り仰いでみれば、風をまとった淡い姿のものたちが楽しそうにしながら駆けていた。彼らの笑い声も身体をくねらせる仕草を生み、潮を孕んで空を吹き渡る。


「……」


 少女は気になって、そちらへ足を向けた。

 風――――風を吹かせるものたちの一体は振り返ると、おいでよとでも言うかのように少女に笑いかけてきた。他のものたちもまた、ちらりと同胞と少女に目を向け、仕方ない子だというふうに苦笑する。

 誘ってもらえて少女は嬉しくなったが、しかし風を吹かせるものたちが彼女を誘ったのは、ここで一番大きな建物の脇にある道の向こうだ。誰もいない検問所らしき建物との間には魔法道具の縄が張り巡らせてあり、余人の侵入を拒んでいる。触れた途端に痛い思いをして、警備員に見つかってしまうのがおちだ。

 人ならざるものたちの気配がたくさんあるから行ってみたいが、勝手に入ることはできない。どんな様子なのか見てみたかったな、とため息をついて、少女は踵を返そうとした。


「……? 何ですか?」


 袖を引っ張られたので振り返ってみると、半透明の身の小人が彼女を見上げていた。目は猫の目のような赤い宝石、身体は水晶。まとう気配から、大地に由来するものだと知れる。

 世界を巡る大自然の力の欠片と言っていい、普通の生命とも神とも異なる存在――精霊。そう人間に分類される小人――土の精霊は、少女の服の袖を掴んだまま、縄の向こうを指差して首を傾げた。

 少女は赤い目を瞬かせた。


「行きたいのか……ですか? ……行きたいですけど、でも人間は行っちゃいけない……って、あの?」


 土の精霊に説明していた少女は、突然袖を引っ張られて慌てた。

 確かに関係者以外立ち入り禁止区域は、好奇心をくすぐられる。だが行ってはいけないし、行けない。熱で寝込んだ家族を説得して、夕暮れ前に帰ってくることを条件に、やっと一人でここを訪れることができたのだ。人に見つかって怒られたくない。

 だから少女が離してもらおうと声をかけてみるのだが、土の精霊はまったく聞いてくれない。何しろ精霊なのである。人の道理など、彼らには塵も同然だ。

 そして、崖の縁まで連れて来られた少女は絶句した。

 何故なら、土の精霊は崖に水晶を次々と生み出し、魔法の縄と人目を避ける形の通路を造ったからだ。ここを渡れば行けるよ、と言いたいのか自慢そうに小さな胸を張る。


「ちょっ、ちょっと、駄目ですよ。職員じゃない人間があっちへ勝手に行っては、怒られます……!」


 唖然としていた少女ははっと我に返り、慌てた。しかし精霊は少女の焦りを無視し、また彼女を引っ張るのだ。水晶の通路の下は岩が浮かぶ波打ち際で手すりもないから、下手に暴れることもできない。透き通る床下に見える崖や真っ白な岩の数々を見ただけで、彼女は抵抗する意思を失った。

 青くなっている間に少女は通路を抜け、関係者以外の立ち入りが禁止された区域へ入ることになってしまった。幸か不幸か、入ってはいけない場所へ入っていく子供に気づく者は誰もおらず、制止の声もない。やってはいけないことをやってしまった少女は、思考停止状態だ。家族に話したいと思っていた様々なことは、もうどこかへ吹き飛んでしまっていた。


 けれどそれは、驚きの第一段階でしかなかった。

 青空や紺碧の海を背景に、列柱や彫像、花壇に植えられた色とりどりの花々に飾られたそこでは、様々な姿や形をし、大自然の要素をまとったものたちが好き勝手に遊んでいた。あるものは踊り、あるものはひびが入った彫像の上で飛び跳ね、またあるものは中空に腰かけて同胞たちを見下ろしている。

 人間の手によって建てられ、今も人間が活用している建物だというのに、そこに人間が立ち入る余地はまったくなかった。完璧なる人外の世界。奇異と見られがちな容姿を持つ少女は、ここでは普段とは違う意味で異端だった。


 やがて異質な存在に気づき、精霊たちが一斉に振り向き、少女を見る。少女はその中の、女神像の足元に腰を下ろし、人ならざるものの宴を楽しそうに見ていた人間に目を奪われた。

 彼がとび抜けた容姿をしていたからだけではない。見たことがあるからだ。そう、ついさっき、見たばかりだ。

 何故彼がここにいるのか。こうして、生きているとしか思えない姿で。精霊とも魔法使いともつかない、不思議な気配をまとって。

 少女が呆然と彼を見つめている一方、視線を感じたのか青年も何気ないふうで少女のほうを見る。そして目を大きく見開き、少女と同じか以上の驚愕で顔色を染めた。


「…………君、僕のことが見えるの?」

「え? は、はい」


 見惚れていた彼女は、こくこくと何度も頷いた。この人を見失うなんて絶対に無理だ。どんな人ごみの中でも、容易く見つけだせるに違いない。

 青年は立ち上がると、少女の前まで歩いてきた。少しかがんで少女の顔を覗きこむ。


「君は人間なの?」

「はい。貴方こそ、人間なんですよね?」


 当たり前のことを尋ねられ、即答した少女はそう問い返した。

 少女からすれば、彼こそ人間であるようにはとても思えなかったのだ。いや、人間だとわかっているけれど、この非日常なことの連続の中では、彼が神であるのは当然で些細なことであるように少女は思えた。

 だが青年の答えは、少女の予想にある意味では反していた。

「…………多分、そうだと思うよ」

「……」


 淡く、儚く。今にも消えそうな微笑みを浮かべて青年は答える。疲れているような、残念に思っているような。あるいは、そこにあったのは諦観だったのかもしれない。

 聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと理解し、少女は後悔した。


「……ごめんなさい」

「ううん、謝らなくていいよ。僕がここにいるのを不思議に思うのは、当然のことだから」


 そう緩く首を振ると、彼はどこか無理をしたふうに笑んだ。


「この博物館へ来たのなら知っているかもしれないけど、僕はティベリウス。ねえ、君。名前は?」

「……アルビナータ・クレメンティ」


 耳に心地よい声に尋ねられるまま、彼女――アルビナータは小さな声で名乗った。

 いつもなら答えず逃げだすところだがそうしなかったのは、彼――ティベリウスが、そしてこの場があまりにも非現実的で、思考がよく働かなかったからだ。それに、彼はアルビナータにひどいことをするような人には見えず、精霊たちも彼を排除する様子をまったく見せない。アルビナータは彼に警戒心を抱けなかった。

 ティベリウスは少し目を丸くしてクレメンティ、と姓を舌で転がすと、柔らかに、どこか泣きだしそうな目で笑みを深めた。


「すごい偶然だね。僕の後ろにある像は、クレメンティアっていう女神を象っているんだ。慈悲と寛容を司る女神なんだよ。僕の家の、守護女神でもあるんだ」


 と、ティベリウスは二人を見下ろす女神像を振り仰ぐ。つられてアルビナータも、苛烈な日差しを浴びる朽ちた女神像を見上げた。

 これが、七年後に‘巫女の学芸員’‘アウグストゥス’と呼ばれるようになる稀有な二人の出会いだった。

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