第一章 古の語り部

第1話 皇帝を映す少女・一

 柱廊に囲まれた中庭で眼前を見回し、アルビナータはぶるりと震えた。

 何しろ、四十人の目が自分に注がれているのだ。頼りになる先輩が近くにいるとわかっていても、怖くないはずがない。

 でも、ここでようやく終わりなのだ。ちゃんとやり通さなければ。そう自分に言い聞かせた。


「では、これで解説見学を終了します。これから質問の時間とさせていただきますので、質問がある方は、後ろにいる学芸員にお尋ねください」


 多分引きつっているだろうけれどどうにか笑みを浮かべ、アルビナータは終了の口上を述べた。


 南北二つの大陸に挟まれた内海に浮かぶ、温暖な気候と風光明媚な景観で有名なクルトゥス島。そのほぼ中央にそびえる山の中腹には、島で唯一の港町ガレアルテと内海を見下ろす観光名所がある。ドルミーレ王立歴史博物館。北大陸から内海を臨む自然豊かな国、アルテティア王国の古代史を取り扱う歴史博物館である。

 崖をくり抜くようにして建てられた建物といくつかの庭園からなるこの施設は、二千年近く前まで北大陸の西部と南大陸の北部を領土としていた古代アルテティア帝国の皇帝が建てた別邸で、その後の所有者の理解や地理的な要因によって大規模な損壊を免れ、現王朝になってからは王立歴史博物館として活用されている。そのため、時代や用途に合わせて内部にいくらか手が加えられているものの、過ぎた年月を考えれば驚くほど原形をよく留めているのだった。


 今年で十六歳になったアルビナータは、そんな歴史を持つドルミーレ王立歴史博物館で歴史を守り語る者――学芸員の一人だ。同じ研究部門に所属する先輩学芸員に見守られながら、今日、初めて解説見学を自分で主導しているのだった。

 研究部門は、名が示すように、収蔵品について研究するのが主な業務の部門だ。展示品やその時代について来館者に解説したり、展示品の解説などに使う小道具を自作することもしばしばある。学芸員ならぬ‘大工員’と、学芸員同士で揶揄することもある部門なのだった。


 終了後の来館者からの質問は、先輩学芸員が引き受けてくれている。質問のない者は、この中庭で一休みだ。事前の打ち合わせに従って、アルビナータはその間に区域の他の部屋を巡り、誰か隠れていないか見回ることにした。

 が、アルビナータは、両親らしき男女のそばからそっと離れていく少年を見咎めて眉をひそめた。

 いかにもやんちゃ坊主といった外見のその少年は、つまらなさそうな顔でこの解説見学に参加していた子だ。それでも、一度だけアルビナータの説明を聞いて目を輝かせていたのを、アルビナータは目撃している。

 少年は、中庭を取り囲む柱の影に隠れると振り返り、見咎められていないか確認する。別の方向からアルビナータが近づいてきていることには、まったく気づいていない。

 やっぱり、とアルビナータは心の中で呟き、少年に近づいた。見知らぬ人に話しかけるのは勇気が要るが、子供ならまだ平気だ。


「駄目ですよ、勝手に入ろうとしては」

「っ! げ、‘巫女の学芸員’さん……!」


 アルビナータが声をかけると、目の前の部屋を閉ざす扉に手を伸ばそうとした少年は、飛び上がらんばかりに驚いた。ばっと振り返り、しまった、といった顔をする。

 アルビナータは腰を折り、縮こまった少年と目線を合わせた。


「その扉は魔法道具で、部屋の主の許可なく動かせないようになっています。さっき、私が皆さんを入れることができたのは、私が彼の許可を得ていたからです。貴方が触っても、中へ入れませんよ」

「え、そうなの?」


 中へ入れないと知り、少年は残念そうな顔になった。

 仕方ない。この部屋には崖の下の洞窟へ続く階段が隠されているのだと、アルビナータがさっき説明したところなのだ。魔法道具で封じていると補足しているのだが、隠された場所なんて、子供が興味を持って当たり前の場所である。好奇心で頭がいっぱいになって、聞いていなくても不思議はない。


「貴方だって、自分の家に知らない誰かが勝手に入って来たら怖いし、嫌でしょう? 好奇心があるのはいいですけど、この先へ行くのは諦めましょう?」

「……はい。ごめんなさい」


 アルビナータができるだけ優しい声で諭すと、少年は頷き、決まり悪そうな顔で謝った。根は素直なのだろう。

 そうしてアルビナータが、少年を母親のほうへつれて行こうとしたそのとき。たった今まで話題にしていた扉が、音を立てて内側から開いた。


「あれ? アルビナータ?」


 高くも低くもない中性的な声が、学芸員の名を呼ぶ。そして数歩進み出て、扉の陰から姿を現した。

 声と同様に性別の判断がつきかねる、古代の成人男性の正装であるトーガをまとった二十代の青年だ。細かなドレープが重たげなトーガから見える四肢は成人男性にしては細く、肌は陽の光を知らないかのように白い。細面の造作にいたっては、すっと通った鼻梁、程よい厚みや色づきの唇、瑞々しい桃のように品よく切れた頬や顎の線と、あらゆる部品の形や色、その配置が完璧だ。

 中でも、白い肌の上で穏やかな光を湛えてきらめく、鮮やかで上品な青が他のどの部分よりも人々の目を惹きつけてやまない。現にこうして少年だけでなく、大人の参加者たちも眼前に現れた青年に見惚れて視線を外せていないのだ。女性はもちろんのこと、男性さえもが頬を赤く染めて夢見心地といった様子である。

 しかし、七年前から傍らで見続けているアルビナータにとっては、もう見慣れた師にして親友の顔でしかない。世に語り継がれる美貌に見惚れることなく、アルビナータはにっこりと笑いかけた。


「ティベリウス、おかえりなさい」

「うん。ただいま、アルビナータ」


 アルビナータの出迎えに彼もまた、微笑みと耳に心地よい声で答えた。

 ティベリウスはこの半月ほど、クルトゥス島を離れた本土北部に広がる樹海のほうへ出向いていた。そちらにいる親しい精霊が、風の精霊を通じて頼みごとをしてきたのだという。心優しいティベリウスがそれを放置できるはずもなく、クルトゥス島周辺を中心に漂流する風の精霊に乗って力になってやっていたのだった。

 世にも麗しい青年の登場を呆然と見ていた少年は、ここにきてようやく思考が動きだしたらしい。ぐっと両の拳を握って、ティベリウスを見上げた。


「あ、あの! もしかして本物の‘アウグストゥス’?」

「そうだよ。ずうっと昔のことだけどね」


 少年に身体を向け、ティベリウスは微笑み頷いてみせる。

 すると、少年はぱっと目を輝かせた。


「ねえ‘アウグストゥス’、この扉の向こうって本当に洞窟なんですか? そこで水浴びしてたって本当?」

「うん、本当にこの扉らの無効は洞窟だよ。海と繋がっていて、とても綺麗な青色の水が流れてきていてね。昔は弟と一緒に遊んでいたよ」

「へえ……! 仲良かったんですね」

「うん、とてもね」


 ふわりと笑み、ティベリウスはきらきらした好奇心の塊のような目に答える。それは答えているようであり、同時に昔を思い出して懐かしんでいるようでもあった。


 ‘アウグストゥス’は古代の言葉で『尊きもの』を意味する言葉だが、ここ三ヶ月ほど前からは、ティベリウスのことをも指す言葉として人々に広く認識されるようになりつつある。少なくてもこのクルトゥス島においてはそうだし、ドルミーレを訪れた人々の多くもそう認識しているだろう。


 不意に、ティベリウスと名を呼ぶ声がして、三人はそちらのほうを向いた。

 二十代の、アルビナータと同じ制服を着た男だ。細身ながらもよく鍛えられているとわかる褐色の細身、首の後ろで括った赤毛、やや吊った深緑の目。手の甲に深い傷があり、一見すると学芸員などという室内派の職業には到底見えない。実際、他の学芸員からは、学芸員の格好をしたちんぴらだの、これで子供を泣かせないのが不思議だのとからかわれている。

 コラード・ケルビーニ。アルビナータより三歳年上の、れっきとした研究部門の学芸員である。アルビナータにとっては王立学院時代から付き合いがある、ドルミーレでもっとも親しい先輩だった。

 そのコラードは解説見学の参加者たちの輪から外れ、アルビナータたちのほうへやってくる。


「ティベリウス、帰ってきたばかりのところすまねえが、こっちのほうを手伝ってくれねえか。今、ちょうど質問の時間なんだよ」

「いいよ。じゃあ荷物を書斎に置いてくるね」


 そう言うと、ティベリウスは床に下ろしていた麻袋を持って身を翻し、‘皇帝の間’を半ばで区切る書斎へと向かう。アルビナータはそれを数秒見送ってから視線を外した。

 途端、少年はあ、と声をあげた。こちらを注視していたのだろう参加者たちもまたざわつく。


「き、消えた! てか袋が勝手に動いてる!」


 書斎の前とアルビナータの顔を交互に見やり、少年はあわあわと指差す。まあ当然だろう。さっきまで話をしていた人が、瞬き一つで消えてしまったのだから。

 アルビナータは小さく笑った。


「消えたんじゃないですよ。私が視線を外したから、見えなくなってしまったんです」

「そうそう、皇帝陛下はこいつに言葉どおり見てもらってなきゃ、俺たちに声を聞かせることはもちろん、姿だって見せられねえんだ。俺たちから触ることもな。だから、たまーに皇帝陛下があちこち物を持って一人で歩いてたりすると、ああいうふうに物が勝手に動いてるふうに見えるってわけだ」


 アルビナータの頭にぽんと手を置き、コラードはからりと少年に笑ってみせる。アルビナータはむっとして先輩学芸員をねめつけた。頭は手の置き場ではないというのに、コラードは何度言っても懲りずに置いてくるのだ。


「‘巫女の学芸員’さんって、本当に巫女さんなんだ……」


 アルビナータの心中など幼い子供が分かるはずもなく、アルビナータの二つ名の理由を知って感心しきり、きらきらした目を尊敬の色に染めてアルビナータを見上げるばかりだ。その無垢な目に、アルビナータはむずかゆい気持ちを覚えた。

 このように、たった三ヶ月でティベリウスが国中にその名を知られるようになった一方で、アルビナータもまた一学芸員であるにもかかわらず、人々に存在を認知されている。‘巫女の学芸員’とは、一体誰が言いはじめたのかわからない呼称だ。父親が名づけた名が世に知られていない代わりに、この呼称でアルビナータは人々に呼ばれていた。

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