第三章 目覚めれば

第18話 異変の波動・一

 数体の精霊を侍らせ、‘皇帝の間’の中庭に面した回廊に腰を下ろして読書をしていたティベリウスは、館内に鳴り響く魔法道具の鐘の音で、ドルミーレの開館時間が過ぎたことを知った。


 巻物から顔を上げると、中庭を挟んで真正面の部屋の窓から、空を染める紫だの橙だの金だのや、沈みゆく夕日、その光を返してまばゆい海面が見えた。中庭と回廊に落ちる影も、いつの間にか向きを変えている。長時間にわたって巻物の文字を追っていた目に、光と闇の落差の刺激は強すぎる。光や遠近感の加減がすぐにはできず、ティベリウスは何度も目を瞬かせた。


 今日も今日とて午前中は‘皇帝の間’の書斎で異母弟デキウスの章の翻訳に励んだティベリウスは、午後からは回廊で収蔵庫から借りた巻物を紐解いていた。精霊たちを侍らせて読書をするには、回廊が最適なのだ。ティベリウスを慕って集ってくる精霊たちの中には火を司るものもいるので、念のため書斎には近づかせないほうがいい、というのもある。

 しばらくの間、向かいの部屋の窓に見える景色を眺めていたティベリウスは、ふと巻物を見下ろした。


「ゼフォン王とも違う、か……」


 先ほど読んだばかりの巻物の段落をもう一度心の中で読み、ティベリウスはぽつりと呟いた。ため息を一つつき、巻物を丁寧に巻き直していく。

 この巻物は、オキュディアス一族が著した『王政』――――アルテティアが王を戴いていた頃を記した作品の一つ、第二代国王ゼフォンの治世を記したものだ。その傍らにある、きちんと巻かれたほうは初代国王のもの。ティベリウスは午後からずっと、この二巻を隅々まで読むことに時間を費やしていたのだった。


 かつて何度も読んだ書物をティベリウスがもう一度読み直しているのは、どちらの王も、治世の最後に謎の失踪を遂げていると文献に記されているからだ。つまり、ティベリウスと同じような出来事が彼らの身に起きていたかもしれない。そう考えたティベリウスは、ルネッタに筆談で頼んで貴重な写本を収蔵庫から持ち出させてもらい、先ほどまで読んでいたのだった。

 だが、目的の記述はどこにも見つからない。ティベリウスの胸中に、落胆がまた一つ募った。


 ティベリウスが探しているのは、単に、己の身に降りかかっただろう出来事についての記述というだけではない。さらに一歩踏み込んだ――――神とも精霊ともつかない我が身を人間に戻す、あるいは元いた時代に帰る方法だ。

 今までも、探さなかったわけではない。だが近頃のティベリウスは、現代で目覚めたばかりの頃以来の真剣さで、己の身をどうにかする方法を探していた。様々な歴史的文献や魔法の研究論文、今では研究を禁じられた類の魔法の書籍もアルビナータやドルミーレの館長ファルコーネを通じて入手し、目を通している。先日の外出も、知己の精霊たちに乞われたからというだけでなく、長寿の精霊に知恵を借りるためでもあった。


 ティベリウスがこれほど我が身のことを本格的に調べるようになったきっかけは言うまでもなく、三ヶ月前に起きたアルビナータ誘拐事件だ。

 あの騒動でティベリウスがアルビナータに触れてしまったために、ティベリウスは現代の人々の前に姿をさらし、ドルミーレの一学芸員でしかなかったアルビナータの立場を一変させてしまった。今やアルビナータは、この世で唯一の異能を持つ少女として多くの人々の注目を集めている。最後の事件が誘拐未遂に終わった後の、人にも悪夢にも怯え、憔悴しきったアルビナータの姿は見ていられなかった。


 現代の人間がティベリウスを価値ある存在と考える限り、アルビナータは異能を求める者たちの手に怯えねばならない。それを避けるためにはこの‘皇帝の間’で暮らすのが最良の選択だ。ティベリウスと精霊と人間に守られたここは、他のどんな場所よりも安全なのだから。

 しかしそれなら、一体いつまでアルビナータはここにいなければならないのか。十年後か、二十年後か――――それとも一生か。

 そんなこと、認められるわけがない。

 異能を有しているというだけで、彼女をティベリウスに縛りつける理由にしていいはずがない。ティベリウスは、アルビナータには多くの人と出会いや出来事を重ね、やがて良き妻、良き母となる――――そんな、当たり前の人生を歩んでほしいのだ。


 今すぐは無理でも、いつかはアルビナータを自分から解放してやりたい。その一心がティベリウスを駆りたてている。だが――――後世の写本を調べる程度では、見つからないらしい。

 アルビナータは優しいから、ティベリウスのこの願いを知ればきっと、苦ではないと言うだろう。他の者たちも、彼女の両親やコラード、ルネッタ以外は異を唱えるかもしれない。研究に熱心なあまり少々過激になりやすい学者も中にはいることくらい、ティベリウスも知っている。

 だからティベリウスは誰にも打ち明けずにいたが、やはり、現代の魔法学者の知恵を借りるべきなのかもしれない。ティベリウスは学者でも魔法使いでもなく、人知れず知識を得る手段も限られているのだ。一人きりで研究するのは、限界がある。


 そう考えながらティベリウスが棚に置いてある時計を見ると、ドルミーレの閉館時刻が過ぎていることを針は示していた。とは言っても作業に区切りがつくまで残業する者は少なくないので、すぐ帰り支度する者は少数派だ。アルビナータも特に書庫や収蔵庫へ行っていると、‘皇帝の間’へ帰ってくるのは遅い。

 『王政』を収蔵庫へ返すついでに、アルビナータを探そう。思いついて、ティベリウスは精霊たちにそう言い置くと‘皇帝の間’を出た。


 そうして、ティベリウスが収蔵庫へ向かっている最中だった。

 ティベリウスは突然、周囲にかすかな異変を感じた。

 空気が震えたような気がする。音ではなく、力によって。――――そうたとえば、魔法が使われたような。

 博物館であるドルミーレは、多くの場所で魔法道具を使っている。収蔵品や展示品の保存環境の維持は言うに及ばず、物の運搬や医務室での応急処置、行事の演出。不審者を魔法で拘束することもある。

 けれどこの力の波動は、今まで館内で使われてきたどの魔法とも違う。もっと強大な力が働いた痕跡だ。奥深く、あるいは遠くの激しい揺れが届いたような感覚がティベリウスの身体を震わせている。


 精霊たちはすぐさまこの異変に気づいて不安がり、ねぐらへ逃げ帰った。建物の屋根で羽を休めていた海鳥も敏感に察知し、羽根を落として逃げていく。

 ティベリウスも不安を覚え、床下を見下ろした。

 魔法の波動は、下層から伝わってきた。崖の中をくり抜くようにして築かれたこの建物の地階は、職員の仕事部屋や収蔵庫がある。――――きっと、アルビナータがまだいる。


「アルビナータ……!」


 いても立ってもいられず、ティベリウスは走りだした。

 学芸員室へ駆けこんだティベリウスは、開けっぱなしの扉から室内を見回した。が、机の上の本のせいで、アルビナータの机が見えない。普段なら研究熱心だと微笑ましく思う光景だが、このときばかりは邪魔に思えてならない。


「ティベリウス? どうした。アルビなら収蔵庫だぞ」


 本を片手にしたコラードが宙に浮く『王政』を見つけてか、ティベリウスの存在を確認して言う。魔法使いではない彼は、魔法の発動に気づいていないようだ。

 ティベリウスは、普通ではない魔法が下層で使われたことを皆に話そうとした。が、アルビナータが傍らにいないことを思い出して口をつぐむ。彼女がいなければ、大声を出しても無意味だ。

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