第12話 刻まれたもの・二
ルネッタがこうも念押しをするのは、それだけアルビナータひいてはドルミーレの学芸員たちの悩みの種だからだ。
ティベリウスの存在が世に知られるようになった三ヶ月前から、肩書や地位を笠に着た貴族がティベリウスやアルビナータとの接触を願って、ひっきなしにドルミーレを訪れるようになっている。館長だけでなく国王までもが直々に、‘アウグストゥス’やドルミーレの職員を煩わせないようにとの通達を出しているのだが、いやそうだからこそか、暇を持て余した者たちは会わずにいられなくなるらしい。職員を買収し、ひそかに関係者以外立ち入り禁止区域へ立ち入ろうとした富裕層が何人いたことか。だからティベリウスも精霊たちに乞われてドルミーレを離れる前、アルビナータのことを大層心配していたものだった。
奥へ向かうルネッタと別れて収蔵庫を出て、アルビナータが廊下を歩いていたときだった。
通路に、数匹の透明な魚――収蔵庫に棲みついている氷の精霊たちが飛び出してきた。アルビナータは驚き、とっさにのぞけってかわすものの態勢を崩す。肩が壁に当たる。
「あ……!」
手の中から感触がなくなり、アルビナータは声をあげた。しかしもう遅い。
物が床に落ちる音がして、アルビナータの顔や指先から血の気が引いた。肩の痛みを忘れて、音がしたほうへ駆け寄る。
「アルビナータ? どうしたの?」
「っティ、ティベリウス……」
ひょいと通路から顔を出してきたティベリウスを見上げ、アルビナータはぎくっとした。よりによって、当人に見つかってしまうとは。
「あ、あの、ティベリウスの章を落としてしまって……」
「ああ……アルビナータは大丈夫? どこかにぶつかったりしてない?」
「平気です。それより巻物が……」
と、アルビナータはおろおろしながら巻物を見下ろした。
何しろ箱の中に入っているのは世界にたった一点しかない、ギリル語の『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章なのだ。魔法である程度は良い保存環境の中に置かれていても、巻物そのものは歳月を経ているので脆くなっている。巻物の軸に傷一つ入るだけでも大事だ。
こんな薄暗いところでは、木箱の中身がどうなったかはっきり確かめられない。どうも大変なことをやらかしてしまったらしいと慌てる氷の精霊たちを宥めるのもそこそこに、アルビナータは木箱を抱え、早足で収蔵庫内の作業場に戻った。綿を敷き詰めた木箱から巻物を取り出し、手袋をはめて拡大鏡も使い、巻物を細部までくまなく検める。
「……?」
小さな傷も見逃さないよう調べている途中、アルビナータは軸に刻まれたものに気づいて眉をひそめた。
「……ギリル語、だね」
アルビナータの隣から作業を見ていたティベリウスも、不思議そうに呟いた。
今までは巻物の軸になんて注目したことがなかったから気づかなかったが、軸の端のほうを拡大鏡で見てみれば、ギリル語の小さな文字が刻まれている。金箔の欠片がまだ貼りついているから、金箔で装飾されていたのだろう。
そして文の始まりと終わりを示すように、一ヶ所だけ文字ではなく、神に似せた図が描かれている。こんな小さな場所によく描けたものだ。
「こんなところに刻めるなんて……彫刻技術の歴史はよく知りませんけど、古代アルテティアの技術はすごいですね」
「うん。オキュディアス一族は鉱山を所有していて財力もあったみたいだから、腕利きの金細工職人に彫らせたんだと思う。でも、こういう彫刻をしている巻物は初めて見るなあ。アルビナータはある?」
「いえ、ここまで精緻な図柄を彫刻したものは見たことありません。文字だけのものならありますけど……」
ティベリウスにそう返すアルビナータの目は、まだ巻物の軸に釘付けだ。台帳にも書いてなかったはずだから、もしかしたら他の学芸員たちも見逃していたのかもしれない。
「こんなに作るのが大変そうなものがいくつもあるとは思えませんし、ギリル語で書かれてますし……弟さんの章には、こういうのはなかったんですか?」
「うん。僕が知る限り、他の皇帝の章にもなかったはずだよ。ギリル語で書かれたものはどうなのか知らないけど……もしそちらにも刻まれてあるのなら、オキュディアス一族が自ら記した原本なのかもしれない」
「そうですね。今と違って書物は全部手書きの時代ですから、普通の巻物でも気軽に作ってというわけにはいかなかったわけですし……もしこれが原本だったら、館長とマルギーニ主任が喜びますね」
「そうだね」
ティベリウスにつられて、アルビナータも小さく笑う。温厚な館長と厳格な展示研究部門主任が、嬉々として議論している様子がありありと想像できる。
とはいえ、アルビナータも多少は興奮してはいるのだ。古代アルテティア語の写本でも希少なのに、オキュディアス一族が自ら記した原本なんて、ドルミーレの職員なら興奮しないでいられるわけがない。
しかしアルビナータは、ここでふと我に返った。
現在、アルビナータはティベリウスの章、マルギーニが彼の父帝の章を翻訳しているのだが、ベネディクトゥス朝最後の皇帝デキウスの章は、異母兄であるティベリウスが担当している。ティベリウスが、異母弟たち周囲にいた人々のその後を書物の翻訳を通して知りたいのだとマルギーニに頼んだのだ。‘アウグストゥス’の頼みごとであるし、彼ほど古代言語の翻訳に相応しい人材はいない。マルギーニは驚きながらも快諾してくれた。
ならば、もしあのことも記されているなら、ティベリウスは読んでいるのではないだろうか。
「…………あの、ティベリウス。ガイウスさんのことは、ティベリウスの章の最後や弟さんの章には書いてなかったんですか?」
「僕の章の最後には、他の文献と同じように、僕がいなくなって必死に捜したって書いてあるだけだったよ。デキウスの章にも、僕が翻訳をした部分には書いてなかった。……あの部分に書いてなかったのなら、多分、もうガイウスの行方について書いてある箇所はないと思う」
「そうですか……じゃあ、弟さんの章のことはどうですか? ガイウスさんのことは残念ですけど、弟さんのことはたくさん書いてあったんでしょう?」
認めたくないだろう事実を冷静に口にするティベリウスにいたたまれず、アルビナータは話を変える。ティベリウスはそれを特に不審に思ううようなそぶりを見せず、うん、と小さく頷いた。
「今日は、デキウスがルディラティオで、フォールムの建設やコロッセオの改修を始めたところまで翻訳したんだ。ほら、ルディラティオの南のほうに残っている、大きな広場とその近くの遺跡」
「ああ、あの遺跡ですね」
頭の中で遺跡を思い浮かべ、アルビナータは頷く。その遺跡なら、王立学院時代に実習で調査に行ったことがある。
うん、とティベリウスも首を傾け微笑んだ。
「僕が皇帝だった頃に支えてくれた人たちが、デキウスにもよくしてくれたみたいだよ。クラウディア様やアグリッピナも、僕がいなくなって落ち込んでいたあの子を励ましてくれて…………」
「そうなんですか……じゃあきっと時間はかかってもきっと立ち直って、だから、賢帝と呼ばれるくらい功績を残せたんでしょうね」
「うん。……そうだといいな」
そう、淡い笑みを口元に浮かべてティベリウスは目を閉じる。はるか古に置き去りにしてしまった異母弟に、時空を越えた祈りを捧げるように。彼を支えただろう人々に感謝するように。
アルビナータは、胸が締めつけられる想いがした。
ティベリウスが異母弟のことを大事にしていたことは、アルビナータも知っている。文献にそう記されているし、彼自身からも、異母弟の治世についてしばしば尋ねられたりしたのだ。自ら異母弟の章の翻訳をしようとしたのも、自分がいなくなってしまった後、異母弟がどのように生きたのか知ろうとしてのことに他ならない。
だがそれは他の者――――ガイウスに対しても同じはずなのだ。
巻物ひいては親しかった者たちのことをティベリウスに尋ねて、本当によかったのか。アルビナータは尋ねることもできず、巻物を見下ろすしかなかった。
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