第17話 街歩き・三

 それから少し早めの昼食をとり、腹を満たすと、コラードは鼻歌でも歌いだしそうなくらい上機嫌になった。


「あー食った食った。運動の後の飯はやっぱうめえな」

「それなら、平日の昼食ももっと食べればいいのに。いつも、これだけじゃ足りないって言ってるじゃないですか」

「そこはほれ、金と時間の問題だ。当然、姉貴もな。それに、いつもは抑えてるからこそ、たまに腹いっぱい食うありがたみがわかるんだよ」


 それは何か違う気がする。というより、姉が食事の邪魔だと堂々と言っていいのだろうか。アルビナータは呆れた。

 そんな暴論もたまに飛ばしながらアニータの宿を後にした二人は、曇り空の下、ガレアルテを回ることにした。学芸員の性と言うべきか、まず足が向いたのは骨董店が多く並ぶ辺りだ。並ぶ品々をじっくりと眺めたり店主に最近の仕入れ具合を尋ねたりして、博物館で展示すべき品が紛れ込んでいないかと探す。古書店では巻物を探したりした。

 そうして古物探しに何軒回ったのか。馴染みの店を出てほどなくして、空から冷たいものが降ってきた。


「ち、降ってきやがったか……アルビ、あそこに行くぞ」


 空を見上げて小さく舌打ちするや、コラードはアルビナータの手を掴んで走りだした。慌てる人々の姿と声が、二人の横を過ぎていく。

 雨脚はみるみる強くなっていく。二人が灰白の天井に覆われ市場の下へ逃げ込んだときには、もう目の前が白く見えるほどになっていて、人々も二人のように駆け込み、水たまりが次々できては広がっていく通りや暗い空に目を向けている。

 この雨空では、当分止まないだろう。書店へ行くのは諦めたほうがよさそうだ。鞄からタオルを取り出し濡れた肌を拭きながら、アルビナータは心の中で落胆した。

 アルビナータが渡したタオルで首周りや髪を拭きながら、コラードも空を見上げた。


「ついてねえな。せっかくお前が一ヶ月ぶりにガレアルテへ来たっていうのに」

「風の精霊たちがすることですから、仕方ありません。それに、昼から雨が降るとティベリウスから聞いてましたし」

「あー、あいつなら風の精霊に聞けるもんな。道理でお前、用意がいいわけだ」


 アルビナータが準備の良さの理由を明かすと、コラードはうんうんと頷いて納得した。


 どうせしばらく止まないだろうからと二人が振り返った市場は、三百年も昔に商人たちが金を出しあって造ったという頑丈な天井の下、滝のような雨をものともせず営業していた。雨宿りついでに見て回っているのだろう者も多く見られ、ざわめきに耳を澄ませば値段交渉の声もちらほら聞こえてくる。恋人に値の張る品をねだられ、困っている声もだ。雨天の冷えた空気を押しやるように、市場には熱気が漂っていた。

 そんな空気に流されるように、色々な店を冷やかしながら、時には店頭に並ぶ品を買いながら二人が市場を回っていると、赤い仮面を奥に飾った雑貨店がアルビナータの目に留まった。店頭に並ぶ装身具や雑貨に、古代アルテティア時代の硬貨や意匠を用いていたのだ。


「ん? 何か面白いの見つけたのか?」

「はい。装身具や雑貨ばかりですけど、上手く古代アルテティアのものを使っていて……」


 振り返り、寄って来るコラードにアルビナータはそう返す。自分を飾る趣味のないアルビナータであるが、可愛い物や美しい物に興味がないわけではないのだ。そういうところは、年頃の娘なのである。

 アルビナータがコラードと二人で見ていると、品を一つ売ったばかりの店主がおい、と声をあげた。


「コラード、久しぶりじゃねえか」

「久しぶり、コッタのおっさん。断酒はまだ続けてんのか?」

「おうよ。おかげで懐がましになったって、かみさんが大喜びだ。――――で、そっちの嬢ちゃんは、もしかして‘巫女の学芸員’か?」


 と店主は、笑い声の音量でアルビナータに顔を向け、問う。頭巾の奥から覗く、赤い目に気づいたようだ。

 途端、アルビナータは周囲にいる人々の注目の的になった。あの、とか‘アウグストゥス’の、といった声がアルビナータの耳にも聞こえてくる。

 布地を通して全身に突き刺さる興味の視線に、アルビナータの全身はぶるりと震え、顔がこわばった。大丈夫だと思っても、これは条件反射だ。コラードの服の袖を掴んでしまう。


「アルビ、落ち着け。こんなところでお前に手を出してくるのは、酔っ払いと馬鹿とすりだけだ。まあ、おっさんの熊顔と声のでかさにゃびびって当然だが」

「おいこら、誰が熊だ、誰が」


 コラードがアルビナータの頭を頭巾越しにぽんぽんと叩いて茶化せば、店主が反論し、周囲は笑う。反論と言っても熊髭の顔は笑っていて、少しも怖くない。きっとこれがいつものやりとりなのだろう。

 人々に対する恐怖心が少し和らいでアルビナータが小さく笑うと、コラードはぽん、とアルビナータの頭に手を置いて周囲を見回した。


「まあこういう感じに、‘巫女の学芸員’はちいとばかり憶病なんでな。実際、馬鹿にちょっかい出されたし。そんなわけで、あんまりじろじろ見てやらないでやってくれ」

「了解。大変だな、嬢ちゃん」


 コラードの要請を受け、店主は快く頷いてくれる。他の人々も同様だ。向けられる同情めいた視線と温かな空気、そしてそれらを生み出してくれたコラードに、アルビナータは心から感謝した。

 そうして穏やかな空気と気分で店頭の商品を見て回っていたアルビナータは、黒い布の上に無造作に並べられていた装身具の一つに興味を惹かれた。

 他の商品同様、古代アルテティア時代のものを用いた腕輪だ。幾何学文様の繊細な透かし彫りがされた金細工を中央に、現代のものだろう色とりどりのよく磨かれた丸い硝子玉が連なっている。金細工の古めかしさと硝子玉の色の組み合わせが、なかなかいい味を出す品だった。


「お、嬢ちゃんは、それが気になったのかい?」


 アルビナータの視線が商品に注がれているのを見てか、店主はにこにこした。


「すげえだろ? 俺の女房が作ったんだ。国主催の譲渡会で見つけた金細工と硝子玉を繋いでな。結構手間がかかったみてえなんだ」


 でもなかなか売れねえんだよなあ、と店主がわざとらしくため息をつくので、アルビナータはつられて苦笑する。買ってくれねえかなあ、という心の声が聞こえてくるようだ。

 女性客に呼ばれ、店主がそちらの清算に回っている間もアルビナータは腕輪を見つめた。手にとって、間近でじっくりと観察する。


「……?」


 金細工の際に、何か彫られている。気づいたアルビナータはもっとよく見ようと、腕輪を顔に近づけて目を凝らした。こういうものに何か刻まれているのは珍しくないのではあるが、学芸員のはしくれとして、これは確かめなければなるまい。

 それはまったくの学術的興味からであったのだが、余人にそうとわかるはずもない。他の客の相手を終えて戻ってきた店主は、にかっとアルビナータに笑いかけてきた。


「嬢ちゃん、それが気に入ったのかい? 安くするよ」

「え、あ、でも……」


 思わず頷きかけ、アルビナータはふと考える。書店はもう諦めたが、この市場で食材を探すつもりなのだ。ティベリウスへの土産も買いたいし、あまり高いものは買えない。

 ちらっと見たところ、値札に書かれていたのは、驚くほど高くはないが安いとも言えない数字だった。金細工を用いているし、加工もしているのだから当然だろう。

 交渉すれば値引きしてもらえるのだろうが、手間をかけて加工しているのに、あまり安くしてもらっても申し訳ない。そもそも、気弱なこの性格である。アルビナータは交渉できる自信がなかった。

 断るかどうしようか、アルビナータが悩んでいたときだった。


「んじゃ、俺が買うわ」


 と、コラードが財布を開けたのである。アルビナータが驚いている間に代金を店主に渡し、あっという間に売買は成立する。腕輪を手の中に落とされ、アルビナータはただ金細工を見下ろすしかない。

 売れずにいた品が売れて、店主はほくほく顔だ。というより、にやにやしている。


「ありがとうよコラード。末永く幸せにな」

「変な勘繰りすんなよおっさん。姉貴から逃げる口実になってくれた迷惑料だっての。今後の分もこみだけど。……おい、行くぞアルビ。コッタのおっさん、んじゃな」


 言うや、コラードはアルビナータの手を引いて喧噪の中に戻る。周囲の冷やかしの声など気にもせず、アルビナータが唖然としている間に軽くあしらって人波に紛れていく。


「あ、あのコラードさん」

「言ったろ、迷惑料だって。返すのはなしな」

「迷惑料って……」


 アルビナータの感覚では、今回の迷惑料――コラードが家族から逃げる口実になったことは、昼食をおごってもらったことで完済している。むしろ、仕事を教えてもらい日頃から気にかけてもらっているぶん、アルビナータのほうが貸しがあるのではないだろうかとすら思える。

 アルビナータはコラードの手をぎゅっと握った。店は遠く、腕輪を返すことはできない。


「……ありがとうございます」


 胸に灯った熱に促されるように、アルビナータは自然と微笑む。アルビナータにつられて足を止めたコラードは目を瞬かせ、いいって、と笑った。

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